第4話

 夏休みは登校日よりも刺激がなく、嫌味なほどの陽射しとは裏腹に、軽い吐き気が雲になって低く立ち込めたような酷い気分が続いた。それはずっと誰かに監視され、閉じ込められているようだった。私は昼前に目が覚め、テレビをザッピングしてソファに埋もれて、本をぱらぱらめくって、空の色が変わっていくのを眺めて過ごした。夜になると、父が帰ってきてわめき散らした。昨年からの症状は日に日に悪化しているようだった。父は眠りながらも突然目を剥いて天井に向かって「殺すぞ」と怒鳴ることがあって、隣の布団で寝ている私はそのたびに身体をびくつかせた。どこに行こうという気もなかったが、部屋に籠もっていると私すらどうにかなってしまいそうで、どこかに行かないわけにはいかなかった。私はできるだけ人の視線がないような路地を歩いて、体内を蝕んでいくものたちを二酸化炭素として宙に溶かした。私がそうやって自らを落ち着かせようというまさにそのときに角に人影が見えたりすると、気体が喉につかえてしまい、私はなんでもないのに携帯電話を取り出して誰かと話してるフリとかをした。どこかの軒先から聞こえてくるピアノの旋律だけが、私に安らぎを与えた。


 十日ほどすると、私は精神科に行った。手持ちの薬が切れていたのだ。それにリスカの傷も増えていた。定期的に通っていたが、検診内容はいつも不眠だった。抑鬱の症状も診てもらいたかったが、私は自分をかわいそうに言うのに抵抗があったのだ。私は元々誰かに、特に知らない人に何かを頼むことが苦手だった。そのせいで美容院の気まずさにも耐えられない。とにかく眠りさえすれば意識はなくせるし、このストレス社会において不眠症は五人に一人の割合だ、だから全然恥ずかしいことではない。

「最近、どうですか」椅子をくるくる回しながら、痩せ型の医師の男はカルテと私と手元のボールペンを面倒そうに眺めて言った。

「最近……」

 私はしまった、と思った。毎度の質問だし、来る前に考えればよかったのだ。私の頭の中は超高速で回転し、思考停止と同じ感じになりそうになった。緊張するとよくこういうことが起こる。固まりそうになる脳内の海からなんとか日常のことを引っ張りだした。

「最近も、いつもと変わらないです」

「学校でも何か変化はなかった?」

「取り立ててそういうことは。好きな人のことを考えたり、友達と連絡を取ったり、安心するので放課後保健室で話を聞いてもらったりしてます」

「でも、眠れない……」彼は息をカルテに吐きながら、訊いた。

「はい。前と同じく変わらず」

「それらに腹を立てたり、むしゃくしゃしたりすることはない?」

「ええ」

「本当に?」

「本当に」

 私は彼が何を考えているのか分からなかった。さっさと薬を出せばいいのだ。私は医師と会話をすることに何より緊張を感じるタイプの人間なのだ。しかし、私が辛抱強く彼を待ち続けていると、彼は観念したように言った。

「分かりました。じゃあまた一カ月分くらいの薬を出しておきます」

「はい」

「あと……」彼は帰りかけた私を呼びとめた。どうやら半袖から覗く腕が気になるようだった。「苦しいことや不安なことがあるんなら言いなよ、僕は君の味方なんだから。何でも聞く立場にあるんだから」

 完全にヤブ医者の物言いだった。会話の余地がなかった。それを察するのがお前の役目だろうが、と大きな声で責め立てたかった。誰がそういう状況に追い込んでると思っているのか。

「大丈夫です。何もありませんから」私は無能な男を後ろに扉を閉めた。

 自傷も薬も私に必要なことなのだ。それが分からないのに他人の自由を奪うなんて人の道にあらざることだ。

 息の詰まりそうな室内を出ると、太陽が相も変わらず強い光を頭上に注いだ。私は日蔭の塀に凭れて、早まった鼓動を少しずつ緩めて、呼吸を整えた。アスファルトは実に平らでのっぺりとしていた。道路の先は熱で歪んで見えて、眩暈がした。もう幾度も夏を経験しているのに、もう何回も一日を過ごしているというのに、なぜふとやるせなくなってしまうのだろうと私は思った。なんで慣れた道のはずなのに私はいつだって迷子になってしまうのだろう。

 私は考えるのをやめた。こんな自問だって気の遠くなるほど繰り返されたことなのだ。私は朝につけた腕の傷を撫でた。そしてやめた、自分を責めるのを。

 ゆっくりと誰もいない辺りの路上を見渡すと、私はそれから財布をさぐって一枚のメモを取り出し、携帯電話を手に持った。


 マリに会ったのはそれから三日後のことだった。私は彼女の指示通り、駅前のミスドに午後一時に着いた。アイスコーヒーを席でちびちび飲んでいると二十分くらいして彼女が店の前で、低い車体のオープンカーから降りるのが見えた。隣に座っていた変なアロハシャツにサングラスの男は彼女に軽く手を振ると車を出した。カジュアルな身なりをした彼女はドアをくぐって私を認めると、トレーに私と同じコーヒーと生クリームが挟み込まれたドーナツと苺風味のものをひとつずつ乗せて、やって来た。

「やあ、ユカじゃん。いつもながら浮かない顔してどうしたの。一体今度は何を睨んでいるのかなー」

 マリは能天気そうな声を出して、私の前に腰を下ろした。

 私は毎回不思議に思うのだが、なぜマリは後味の悪い別れのあとでも気軽に接して来れるのだろう。今回声を掛けたのは自分なのだし、文句を言う道理もないのだが、私にはどうにも理解できなかった。彼女は口元にクリームをつけて、おいしそうにドーナツを頬張っていたが、それを半分ほど食べたところで私に訊いた。

「それでなに? あたしに訊きたいことって」

 私は姿勢を正して、マリを見た。

「あのさ、マリは何でああいうことをやってたの?」

「ああいうこと?」マリは頭に人差し指を当てた。「ああいうことって、あたしとあなたが前世で一緒に熊を狩っていたこと?」

「違う」

「それじゃあ、あたしが小学校の頃に朝目覚めてからその前に見た夢を、詳細まで余すところなく丹念に日記に記していたこと?」

「違うよ」

 眉ひとつ動かさない仏頂面の私にマリは息を吐いてアメリカ人がよくやるみたいに手を広げて「やれやれ」といった仕草をした。「あんたにはユーモアってもんがないのかね」

「そんなことより。……だから、その、万引きとかこないだのホテルのことよ」

「そんなこと聞いてどうするの?」

「いや、別に。ただ、気になって」

「ただ気になっただけで人を呼ぶような人じゃないでしょ、ユカは」マリは人を小馬鹿にするような笑みを浮かべて半分になったドーナツを食べ、苺の方に手を伸ばした。

「私は……」強張ってくるのをほぐすように、肩と首を回す。こんなところで緊張したってどうしようもないじゃないか。私はなんだか自分が果てしない砂漠の手前にいるような気分を掻き消した。それは砂場だ、ただの砂場。テレビチャンピオンの挑戦者ですらないんだ、馬鹿らしい。「私は、最近飽きてるのよ。何をするにも何かをしてもらうのもうんざりするの。あなたのようなことをしたいというわけじゃないけど、あなたはなんかすっきりした表情をいつもしてるから動機も全然分からないし、だから話が聞きたくて」

 彼女はその薄い唇の端についたドーナツの欠片をつまんで口に放り込むと、何かを探すように店内の客の頭上辺りをきょろきょろと見回して、私に視線を戻すと言った。

「例えば、それは光が見えないってことだね?」

「ひかり?」

「光ってつまり、楽しいこととか新鮮なこととか掛け替えのないこととか。そういうのが見えないってことじゃないの?」

「まあ、言われてみれば」そうかもしれない。

「だってユカってさ、初め会ったときもこないだも正義感からの行動のはずなのに、どこか躊躇した困ったような眼をしてるんだもん。そうだと思ったよ。なんか、こんな汚い世界をなんで神様はつくったんだとか言いだしちゃう痛いタイプっぽいよね」

「で、でもいけないことだとは思ってるよ。だから止めたんだし……」

「まあいいや。で、あたしの答えだけど、ユカにとっては悪いこととあたしの悪いことは必ずしも同じじゃないっていうのじゃだめなの? これが一番簡単だと思うけど」

「じゃあさ、なんでやるのか教えてよ」

「そりゃあ金のためかな。あたしは、生活に困ったら二、三度男と寝るわけ。そうするとまだ身体も若いからそれなりに稼げるし、当分はふらふらできる。男の家とか行けば寝床だって確保できるし、それも駅前とか繁華街とかに行けば、簡単に客が釣れるしさ。それにあたしは斡旋とか組織とかなくて個人経営だから、規定も決まりもないしね。だからやってるときは適当に喘いでるだけ、ときには面倒な男もいるけど大体はあっさりしてるもんだよ。やばそうなのはこっちから声かけないし」

「それは危ないことだって思わないの? 保身も性病もさ」

「そんなこと言ったらなんだって危ないじゃん。危ないことだらけだよ、生きてくなんてさ。だって普通に暮らしてたって、偶然立ち寄った銀行に強盗が押し入って人質にされるかもしれない、横断歩道を渡っても飲酒運転に轢かれるかもしれない、平和だと思ってたらなにかの流れ弾に頭をぶち抜かれるかもしれない、知らずに癌に侵されているかもしれない。明日を生きてる保証はおろか、次の一瞬であたしは死んでるかもしれない」

 店内のBGM、有線のポップス。私は適当な言葉も見つからなかったので、端的な思いを口にした。

「それは、悲しくないの? 自分が商品になることについて」

 マリはアイスコーヒーを飲み干した。テーブルの上には結露した水滴が紋様を描いていた。彼女はグラスを紋様の上に置くと、上目遣いに顔を舐めるようにして私を見た。そして口元をにやつかせた。

「そんなんだからだめなんだよユカは。悲しいことなんか進んであたしがやるわけないじゃん」

「何がだめなの、私は道徳法則に忠実であろうとしているだけなんだけど」

「だから、それがだよ。二つある。一つは、賃金を得るにはなんらかの技術を自らからモノとして売らなきゃなんなくて、そしてそれがあたしの場合には、性行為だったというただそれだけの話ということ。サラリーマンだってコンビニの店員だって、ここで働く人だってさ」彼女はちらりとレジカウンターで接客している若い女性の方を垣間見た。「誰だってそうだよ。自分の時間を犠牲にして、そのときは自らをできるだけ扱いやすい形に曲げて労働の流れに乗せる。その法則の上ではすべてが平等なわけ。だからユカの考えにはまずバイアスがかかってる。風俗だって人の営みに欠かせない職業だからね。それともう一つは、道徳に従うことがすぐれてるとは必ずしも言えないこと。親鸞の悪人正機説はよく知られてるけど、まああたしは念仏を唱えりゃみんな浄土に行けるってのは流石に虫のよすぎる話じゃないかとも思うけど、とにかく人はどうしても道徳や戒律からはみ出るところがある。それを原点とすると、現存する道徳ってのは遡及的に言って権力でしかないんだ。それは人を都合よく支配して、配置するためのものだ。だからそんなものに従う必要はない」

「でも学校でも習うじゃん、あれは?」

「だから教育機関もおおよそ権力機関みたいなもんなんだよ、あたしに言わせれば。だから嫌いなんだ」私は部屋を出て行ったときのマリのことを思い起こした。「学校とかってさ、あるはずのないものをさも本当のように語っちゃったりして、あれは実際のところ他人に同情していかないと生きていけない人間をつくる工場なんだよ。そして進捗具合があるラインを越えてしまうと、もう人は自分の中にある大事なものを見失ってしまう。それは雛形を与えられる代償として搾取されるものだからさ。まあ確かに、それでいい人は良い。初めから恵まれてる人は良い。だけど全員が全員そんなに信心深く、潔いほどの虚栄心を抱いてるわけじゃない。その上今じゃあ身近な人にしか感情を持てないから、パトリオティズムだとかってのも形骸化しちゃってるしさ」

「じゃあ……」私は言いかけたが、言葉を継ぐことは能わなかった。

「そう、『じゃあ』。だとしたら何をすればいいのか。それが分からないのね、ユカは。ま、要するに先生から教わったことなんて正直馬鹿らしいってユカも思ってるけど、代替のものが見つからないから仕方なく頼ってるだけなんだよね。だってそうじゃなかったら、道徳に沿う行動がそのまま倫理に繋がるはずで、それならそんな浮かない顔をしてるわけがないんだもの。だからこれは心と光の問題なのよ。ユカはゴールラインよりもまずスタートラインを探さないといけないんじゃない?」

 安穏としたミスドの店内でこんな抽象的な会話をしている私たちは一体どんな空気を纏っているのだろうか。そして彼女は、なんて自分勝手で反社会的で無茶苦茶でよく分からない話をするのだろう。けれどそれは、少なくともつまらない精神科医やヒステリーな父親のことや平坦なサオリの声よりも生々しいように私には聞こえた。私が押し黙ると、マリは指を折りながら「羽根を抜かれた烏、あるいは手がサラサラで壁に張りつけないヤモリ、あるいは足がベルトコンベアになった芋虫……」とひとりごちていた。

「なに、それは」私が訊くと彼女も顔を上げた。

「今のユカの状態」

 随分と辛辣なことを平然と言われた気がする。

 排水溝のクリオネ、量産型ネッシーと言ったところで満足したのか、彼女はグラスに溜まった氷解した水で喉を潤すと、言った。

「どうせ暇ならこのあと付き合わってくれない? ちょっと頼まれたことがあって」

「どこに行くの。マリの言ったことは分かる気がするけど危ないことは、私は」

「分かってるって。大丈夫大丈夫、ヤクザをからかいに行くわけでもないし」

 それは絶対嫌だ。

「まあ、それなら」と私が腰を上げると、「ロマンはどこだー!」とマリは天井に右手を突き上げた。恥ずかしい彼女を無視して、私は出口に歩き出した。


 その一時間後、私は白い塀の前で、彼女の作業を訝しげに眺めていた。

「『人間は常にカルマという罰を背負っている。行なうこと、言うこと、思惟すること、すべてがカルマの対象である。それが阿頼耶識に蓄えられ、その罪のために人は輪廻を繰り返す。キリスト教の原罪はメシアを待つが、実際のところ、もう我々に生活は不要だ。我々は母なる大地に回帰することを乞う……』、これは聞いた話だけどさ、死んだらどうなるかなんて死んだ人にしか分かんないわけだし、あたしは考えたい人だけが考えてればいいと思う。それはつまり、そういった甘い幻想を追いかけたいだけなんだしね。ただ、死後を優先する思考様式の元に、現在を蔑ろにして自分勝手に生きることは、自分を納得させるだけなわけであって、そのゆえに他人に何をやってもいいってことにはならないと思うの」

 葉が頭上で擦れあってさざめいていた。

 私たちは涼しげな竹林の中にいた。竹は時折風に揺れて、幹を軋ませカラカラとどこか遠くの方で楽器が奏でられているかのように鳴った。そしてその度にゆらめく太陽を地面に逃がした。

 土の上に置かれた500mlのペットボトルたちは、気温の高さに透き通り、玉の汗をかいて濡れていた。目の前には古色蒼然とした丸瓦が並び、その先にはどれにも三つの球がウロボロスのように円環を為している巴紋が彫られている。火灯窓を花頭窓と呼び換える精神はここにも表れているようで、これは寺院建築の天敵である火災に対してそれを鎮火する渦潮を示しているのだが、この三つの勾玉が並んでいる構図は常々火を彷彿とさせる気がしてならない。ただ、それはこの際どうでもいいと言える。マリはメモにボールペンで何かを書きこんでいた。土の上の八本の炭酸飲料は先ほどスーパーで買ってきたものだった。白壁の向こうからは、さっきまで読経が聞こえてきていたが、今は無音だった。

 私たちは寺の裏側で姿を忍ばせていた。

「今何時?」マリが私を振り返って訊いた。

「えっと三時半かな」

「まあ、丁度いいかな」そう言って彼女はメモをジップロックに入れると、そこらにあった小石を一緒に入れて密閉した。それを丸めてペットボトルのひとつに沈めると、ジップロックはコーラの澱んだ液体に隠れて見えなくなった。

「こういうのはあっちもこっちもタイミングが重要だからね」とマリがペットボトルをひとつひとつ確かめるように手にとってはキャップを取って地面に戻した。どれもちゃんとしたコカコーラに変わりはない。そして私の方を見て、その一つを手渡した。「よしユカ隊員、君はこの一つでいい」

「これをどうするの」

「こうするのさ」

 彼女はポケットに入れていた飴玉のようなものをパッとペットボトルに落とすと、それを壁の向こうに勢いよく放り投げた。ペットボトルは口から炭酸を吹きだしながら綺麗に回転して、ひゅうと宙に弧を描いて、塀を飛び越えた。零れた液体は雨のようにキラキラと私たちにも降り注いで、ひやっとした感覚を落とした。

 咄嗟のことに私が唖然としている前でマリは二個目三個目に飴玉を入れて、どんどんとそれを寺の中へ火炎瓶のように投げ込んでいった。彼女は四つ目を投げたところで私にもその飴玉を渡し「さあ、ユカはそれだけでいいから、さっさとやっちゃって」と促した。飴玉はよく見ると、いやよく見なくてもメントスだった。その頃から「おい!」だの「誰だ!」だのと、憤慨した怒声が天から降って来た。向こうもさぞ驚いていたことだろう。そしてもはや私に傍観している暇はなかった。早く終わらせなくては私も捕まってしまうのだ! 彼女が投げ終わる前にしなくてはと私は焦りつつ、メントスをペットボトルの口に入れた。炭酸が化学反応を起こして噴出する。手が泡まみれになった。私がなんとかそれを投げ入れると、彼女はにやっとして私の手をつかんだ。

「さあ、逃げよう!」

 私は引っ張られるままに、上って来たときの参道ではなく竹藪の中を駆け降りた。上からはざわめきと怒鳴り声が聞こえていた。焦りと緊張が一気に喉にせり上がってくる。目の近くに迫る枝と、足を躓かせる石や根に一抹の注意を払いながら、私も一心不乱に足を動かした。鼓動が耳の傍で鳴り、途切れ途切れに射した陽が瞼の裏でちりちりした。

 息を切らして国道まで出ると、マリは手を離した。

「……いやあ、危なかった」

「……これは……いったい、……なんなの」私は膝に両手をついて肩で息をした。

「さあ、行こう。折角ここまで逃げおおせたのに、見つかってもシャレになんないしね。お礼に団子おごってあげるよ」

「ちょっ、ちょっと」

 マリが歩き出したので私はそれを追いかけた。私たちは商店街で団子を買って、公園で手を洗ってからそれを食べた。汗とコーラでシャツがべたべたしたのでそれも水道で軽く洗った。首を濡らすととても気持ちよかった。その頃には呼吸は沈静を取り戻していたが、血潮がまだ耳元で聞こえるような気がした。彼女は笑いながら、私に満面の笑みで謝った。

「ごめんごめん、一人でやるより、二人の方が楽しいと思ってさ」

「あれは何だったの?」

「仕返し」

「仕返し?」

 マリはパックを膝に乗せ、みたらし団子を齧りながら言った。「こないだの客がさ、めっちゃサディストで気持ち悪いやつだったから、その仕返し」

「ん?」私もパックを開けながら、驚きつつそれに返した。「それってお坊さんが客だったってこと?」

「そうそう。そりゃああいつらだって悟る前の身なんだし、性欲くらい溜まってるんだよ。そいつとは午後過ぎに寝たんだけど、葬儀の帰りだとか言ってたな」

「はあー、昼間にねえ」私は思わず感心した。私の常識では僧侶がシエスタの時間帯に買春をしてるなんてことはなかったからだ。「あっ、でも不淫戒ってなかったっけ?」

「僧は肉食妻帯が許されてるしいいんだってさ。ほら、ムスリムだって日本に来たら普通に肉食べちゃう人っているらしいじゃん。要は人間そんなもんなんだってそいつは言ってた。逆にああいう俗世を変に離れてるやつらの方が精神おかしくしてるかもしれないよね。だからそれに乗ったあたしも悪いんだけどさ」

「ふうん、でも許さないんだ?」

「そりゃそう、あたしは嫌なことされたらし返してやるの。誰もがしたいように生きてるんなら、あたしだってそうする。でも、あの投げたタイミングはばっちしだったと思うよ。一同が座禅を組んでるときに正面の砂紋を引いた庭園に次々コーラが降ってきて、炭酸ぶち撒けたら誰だって驚くよなあ」マリは思い返してクククと笑った。

「でも、あれじゃあお寺のみんなが困るんじゃない?」

「多少はしょうがないさ。でもペットボトルのひとつに客だった男の名前とそのときされたことを事細かに書いてやったから、何となくみんな察するんじゃない? それにあの男の面目丸潰れは間違いないね」

「それは悪鬼羅刹の所業だわ……」

 私がくすりと笑うと、マリもくすくす笑った。

 空は落ちてくるように蒼く澄みわたり、手を翳すとその濃さを増した。

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