五匁六分とあと少し
きょうじゅ
供述
堕ろさなければ今ここで別れる、堕ろしたら籍を入れてやるとあの人は確かにそう申しました。
あの人と一緒に暮らし始めたのは先の冬のある日のことでした。わたくしは同棲でなく結婚を望んでおりましたが、あの人はまだ籍を入れたくはないと申しました。子供がまだ欲しくない、君にもまだ仕事を続けてもらいたい、と。
それでわたくしは毎日基礎体温を付けるようになりました。基礎体温を付ければ、安全日が分かります。わたくしはともかくそれをあてにしておりました。それがいけなかったのでしょう。わたしが安全日だと思っていたその日は、実際にはそうではありませんでした。春先のとある日、わたしは妊娠の事実を悟りました。
それを聞かされたあの人の怒ったことと言ったらありませんでした。子供は堕胎しよう、と何度も、何度も言われました。だけどわたくしは嫌でした。何より子供が欲しかったのですし、またあの人と結婚することも望んでおりました。産んでさえしまえば、別れることもできなくなるであろうしやがて籍も入れてもらえる。そう思っておりました。
今にして思えば、その時点であの人から逃げて、どこかでこっそりと子供を産むべきだったのかもしれません。でも当時のわたくしは愚かにもあの人を信じていて、あの人から離れることなど思いもよりませんでした。
そして、あの日。あの人は役場に行こうと申しました。婚姻届を出しにゆくのだと。わたしは喜んであの人の運転する車に乗りました。ですが車が向かったのは、役場ではありませんでした。あの人は、念のため先に医者に診てもらった方がいいと申しまして、わたくしを産婦人科に連れていきました。
わたくしは、病院に行って悪いことがあるとも思いませんでしたので、診察の一つくらいは受けておこうと思いましてその病院についていきましたところ、手術室に通され、手術台の上に座らされました。
そして、医者が現れました。その医者は突然、わたくしに向かって今から人工妊娠中絶の手術をすると申しました。わたくしはこれはとんでもないところに連れてこられた、逃げなくてはいけないと思ってすぐさま手術台を降り、廊下に飛び出しました。
しかしそれ以上逃げることはかないませんでした。廊下にあの人がいて、わたくしの前に立ち塞がって申すのです。ここで堕胎を受けなかったら別れる、受けたらそのあとで籍を入れに行く、と。
わたくしはいやだ、いやだと言って泣きました。だけどあの人は、ならば別れるかと言いつのるだけでした。わたくしはまたいやだ、いやだと言って泣きました。やがてあの人は業を煮やし、わたくしの手を掴んで手術室に引っ張り込もうといたしました。そこに看護婦の女がひとり現れたので、わたくしは助けを求めました。
しかし、女はここまで来て聞き分けのないことを言うものではありませんと言って、彼と一緒にわたくしのもう片方の手を引っ張り、とうとう手術室に連れ込んでしまいました。
こうなってはどうしようもありません。わたくしは観念しました。少なくとも、これで結婚はしてもらえるのだ。それだけを一念に、わたくしはついに手術を受けることを承諾してしまいました。
わたくしは下半身を台の上に固定され、身動きすらできなくなりました。わたくしに触れる金属の鉗子はとても冷たく、ぐいぐいと食い込んでまいりました。鉗子の爪が、わたくしの肉体の中身を、わたくしの大切な赤ちゃんを掻きむしって、引きずり出してゆきます。わたくしは脂汗を流しながら、しかし身もだえすることもできず、台の両側を必死で握りしめておりました。
どれだけの時間が過ぎたのでしょう。よく思い出せはしないのですが、とても長い時間だったように思います。看護婦の女がまたやってきて、夕方までここで寝ているようにと申しました。わたくしはぐったりと虚脱し、とめどなく流れる涙もそのままに、気が付いたら眠りに落ちておりました。目覚めると、すっかり夕日は傾いておりました。そしてまたあの看護婦の女が現れて、一週間ほどは自宅で絶対安静にするように、と言って去りました。
あの人が現れたので、役場に参りましょうと言ったところ、今日はもう閉まっているからだめだ、と言われました。ならば明日参りましょう、きっと参りましょうとわたくしは申し上げました。ですが、翌日になっても、翌々日になっても、あの人は言葉を左右にし続けました。
そして一週間ののち。つまり、わたくしが絶対安静の身の上から解かれたその直後のことです。わたくしはあの人に別れを告げられました。
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