第三十六章 異形の蛇
サミュエル達が通された最初の部屋は、部屋というよりは広大な牢獄とでも言った方が良いような場所だった。特に家具類も何もなく、天井近くに明り取り様の窓がぽつりと一つあるのみ。壁や床は冷え切った灰色で、鉄格子がはまっていたら独房かと思われた。それだけならまだしも、中で待ち構えていたエレボスの“部下”を目にした四人全員が瞠目した。
「キャッシャアアアアアアアア!!!!」
「……あれは……!!」
奇声を上げたのは、九つの首を持つ、黒々とした巨大な蛇。しかも時々翼を羽ばたかせている。紛れもなくサミュエルの目の前でアシュリンを連れ去った張本人、ヒュドラだった。
「エレボスの霊獣・ヒュドラか。噂で聞いていたが、想像していたより禍々しいな」
「ザック、貴方はヒュドラを知っていたのですか?」
「少しだがな。実物を目にするのは初めてだが、今まで起きていた謎の爆破事件や、大量虐殺事件の主な実行犯だとボレアース内では噂されている。凶悪な奴だ。心して掛からねばなるまいな」
「どのような体にしろ本質は『蛇』に変わらないんだろう? 相手してみなくては分からないんじゃないのか?」
素っ気ない言葉でエドワード達の会話を遮ったウィリアムは、ヒュドラの前に一人で歩いてゆく。彼は近寄ろうとするサミュエルを手で制した。
「ウィル……!?」
「……サム、こいつは私が相手する。お前は下がっていろ」
「我、我が主の命により、お前達の命を頂く!!」
「……先日の借りを返すぞ」
ヒュドラは首を傾げた。
「我、初見だ」
「お前がガウリア家に来た時、私も実は居たのだよ。……あの時戦力外だった私は気配を消していたからな。蛇のお前には分かるまい。私が相手してやる。かかってこい」
「小癪な……! 死んで後悔するまいな」
ウィリアムの軽い挑発に乗ったヒュドラは鞭のように大きな尾を振り回す。
ギャギャギャギャギャギャギャッッッ!!!!
びかびかと艶のある鱗が床に擦れ、部屋中に大音響が鳴り響く。あまりのやかましさに一同は思わず耳を抑えたくなる。
「はっ!」
ヒュドラの第一撃を難なくかわすと、ウィリアムは空中で剣を鞘走りさせ、呪文を唱えた。
「焔弾術!! 」
剣を一薙ぎさせると、火の球が発砲した拳銃の弾の如く打ち出される。ヒュドラは火の弾を黄色の食手で全て薙払い、ウィリアムに向かって突進して来る。ウィリアムは跳躍し、ヒュドラの連続頭突き攻撃をひらりとかわした。
ガガガガガガガガガガガガガガッッッ!!!!
九つの首がウィリアムに狙いを定め、次々と攻め込んでくる。着地した途端真横から首が飛んでくる、それを飛んで避ければ斜め上から首が飛んでくる……様々な方向から飛んでくる首が、ウィリアムに反撃の空きを与えない。
「おぉ……っと!!」
不意に飛んできた食手に足を取られたウィリアムは呆気なく壁に叩きつけられる。
「ああ……っ!!」
グオォオオオンッッッ……!!!!
派手な音を立てたが壁に打ち付けられる瞬間、炎色の光が煌めいてウィリアムの身を守る。煙の立つ中、後頭部をかきつつ舌を出しながら彼はゆらりと立ち上がった。衝撃で髪結いが解け、緩やかな蜂蜜色の髪が肩に零れ落ちる。
「……痛てて。咄嗟に“守焔術”を使って大正解。……お前中々やるじゃないか」
「我! 我を愚弄する者を許さぬ。存分に痛めつけてくれるわ!!」
「済まない。先程はちょっとからかっただけだ。本気にするな。それよりもなぁヒュドラ。少し話しをしないか?」
ウィリアムに突然話しを振られ、ヒュドラは首を傾げた。
「……話し……だと?」
「……ああ、話しだ。お前会話が出来るのなら少し位良いだろう? お前に聞きたいことがある」
「……手短に済ませ」
戦闘態勢だったヒュドラが床に降りた。妙に苛立っている。
「数ヶ月前にアルティオで起きた大量虐殺事件、あれはお前も加担したものか?」
「ああ。その通りだ」
「そうか。お前は何故エレボスの手下になった?」
「我が主に恩義があるからだ。昔、危ないところを主に助けて頂いた。あの時主に出会わなかったら、我、既に死んでいた。だから、我が主の為に戦う」
どうやら彼なりの事情があるようだ。心が全く無いわけではなさそうである。
「お前の為に無実の者達が傷付き、死んでも、お前は主の為なら平気なのか?」
黒蛇の声色の変化が少し見られた。表情は分からないが、動揺の色が見え隠れしているのが、微妙に醸し出されている雰囲気で分かる。
「……平気では無い。だが主の命令に背けば我の命が無い」
ウィリアムは嘆息をつく。
「これも縁だから仕方がないのかもしれぬが、もっと良いご主人に出会っていれば、お前は凶悪犯にさせられずに済んだのにな」
「……お前には分かるまい。この国は醜い異形の蛇が生き辛いということを」
「私達龍に頭が増えただけのようなものなのに、そんなに生き辛いのか? 様々な龍族と人間が住んでいるエリウは、差別するような国柄ではなさそうだが」
片眉を上げたウィリアムにヒュドラがぽつりぽつりと話しだした。
ヒュドラが言うに、彼自身生まれつき首が九つと食手を持つ肉体を持って生を受けたそうだ。普通の蛇の外見と異なる為、常に偏見の視線に晒され化け物扱いを受け、忌み嫌われていた。
ある日、まだ幼体だった頃人間に捕まり、的あての標的にされたことがあった。危うく矢で射られようとしていたところ、まだ少年だったエレボスに救い出された。彼は弱っていたヒュドラを屋敷に連れ帰り手厚く看病した。住む場所や食事を与えるだけでなく、魔術で視覚と聴覚を鋭くさせ、コミュニケーションをとれるようにした。当時のエレボスは友人が出来ず、ペットというより話し相手が欲しかったのだそうだ。
それに恩義を感じたヒュドラはエレボスに忠誠を近い、常に彼のの身辺警護をするようになったらしい。そして成長と共に戦闘能力を開花させ、“霊獣”としての位置を確立させてゆく。
エレボスは幼少期は生き物に対して区別することなく憐れみの心を抱く大変優しい少年だった。それがある時を境に変貌し、父親の指導下に動く操り人形状態になってしまった。ただ、幾ら命令に反しても理由があれば処罰を受けることはあまりなかったそうだ。
「へぇ。彼奴が昔は今と正反対の性格だったというのには正直驚いた。骨の髄まで真っ黒な龍ではない訳だな。まぁ、性格が幾ら変わっても、根の部分は不変だと思うが」
「今の我が主しか知らぬ者は、冷酷非情な者に映るだろうな」
「取り敢えず、お前は立場上私と戦い、何らかの形で結果を出さねばならぬのであろう? じゃあ、続きは外でするか? 私も“人外”ならば全力が出せる。此処では狭くて変化しにくい。互いに全力でぶつかったならば結果がどうであれ、お前の主さんは幾らか容赦してくれるのではないか?」
「……良いだろう」
ヒュドラは窓の方へ食手を伸ばし、明かり取りにしてはやけに大きい窓の戸を器用に開けた。その戸より身を乗り出すと、ウィリアムも続いて外に出る。
外に出た瞬間、ウィリアムは龍体に変化した。大きく翼を広げる。
真っ黒なヒュドラと燃えるような赤色の龍。
蒼天の中、二頭の空中戦が始まった。
ヒュドラの身体から何本も伸びてくる食手攻撃の間をすり抜け、ウィリアムは大きく開けた口から大きな火の玉を吐き出す。それをヒュドラは食手で弾き返す。
互いに体当たりして地面に叩きつけ合っては立ち上がり、噛みつきあったり、次第に肉弾戦ともつれ込んだ。
若干疲労の浮かんだウィリアムを食手でぐるぐる巻にして締め上げれば、赤い尾をしならせ、黒い胴体を激しく鞭打つ。衝撃で食手が緩んだ空きを狙って頭突き攻撃を食らわせる。
二頭の闘いは熾烈を極めた。
ぶつかった衝撃で双方弾き飛ばされ、地面に叩きつけられる。立ち上がったウィリアムはふと考えた。
――よく見るとヒュドラの九つの頭の内、良く話す首は一つだけだな。ということは、この首だけを狙って気絶させれば奴の動きを止めることが出来るやもしれぬな。試してみるか。
「どうした? ヒュドラこれで終いか?」
「お前の挑発には乗らぬ!」
ウィリアムはヒュドラの連続頭突き攻撃を避けつつ、勝機を狙い、口を動かした首だけに集中した。
――今だ!
赤く輝く尾を勢いよくしならせ、顎を動かしているヒュドラの後頭部を狙った。
バシッ!!
途端、ヒュドラは身体全身に痙攣を起こし、ドゥッと地響きを立てて地面に倒れた。脳震盪を起こしているようだ。ピクリとも動かない。予測通り、顎を動かせる一つの頭が彼の弱点だったようだ。ウィリアムが人間の姿に戻り、彼の傍に着地した。全身土で汚れ切り傷咬み傷だらけだが、ふわりと風を纏って背に零れ落ちる黄金の髪がどこか優雅さを出している。
「ふぅ……先陣としてはこんなものかな。心配せずともお前の命迄はとっておらぬ。ちょっと眠ってもらっただけだ」
土をはたき落としたウィリアムが呪文を唱えると赤い太い鎖のようなものが何本も出現し、ヒュドラを雁字搦めにした。
「この“火焔緊縛術”はそう簡単には解けない。解けるのは術者自身である私のみだ。見た目燃えているようだが、燃えることは断じてない。悪いが暫くそのままで大人しくしていて貰おうか」
立ち尽くしているウィリアムの肩をポンと誰かが叩いた。振り返ってみると、琥珀色の瞳が労いの色を示していた。
「勝負あったな。このままではあんまりだから、魔術で先程の部屋に転送しておこうか」
「……ああ、そうだな」
「しかし、お前がここまでズタボロになるとは、やはり手強い相手だったのだな」
「色々話しを聞いていると、案外良い奴かもしれんと思ってつい情けをかけたくなった。魔術が使えない且つ武器を持たない相手ならば、こちらも徒手空拳じゃないとフェアじゃないしな。途中から切り替えた分、ちょっと手間取った。これ位傷の内には入らぬ」
「そうか」
「ほらほら、部屋に戻ろうではないか。ヨゼフ殿に結果報告せねば先へ進めぬ」
ウィリアムの顔は、どこか悪戯が成功した悪餓鬼のような表情をしていた。
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