其の弐
「やめ……ころさ……ないで」
「うふふ。何を言っているの? 誘ったのはそっちでしょう? それに満足したら有り金全部渡すって言ったのもそっちよ」
「わたす……ぜんぶ……だから」
必死に地面を這って男は逃れようと足掻く。
だが背後から近づいて来る女性は、彼を逃す気など無い。
追いついてその背中を踏み動きを止める。
「良く出来た薬でしょう? 貴方には体が痺れる物を飲ませたから」
うふふと笑い女性は彼の背中に腰を下ろす。
全身を血の色に染めた彼女は……手にしているナイフを振り上げた。
「ころさ……ない」
「そう言った女性を貴方は何人殺して来たの?」
「……」
「殺して来たのね? なら情けはかけない」
「あがっ!」
振り下ろしたナイフが彼の背に傷を作る。
何度も何度も振り下ろす度に傷が広がり血が溢れる。
まるで少女が水遊びでもするかのように女性はその血を手に集めて宙へと放る。
「人の命はこんなにも綺麗なのに……どうして心根は腐っているのかしらね?」
笑い、彼女はナイフを振り下ろした。
時は少し戻る。
路地裏の一画。
普段は良からぬことに使われるような、下町に存在する掃きだめのような場所だ。
娼婦らしい女を連れ込んだ三人は、彼女の熱い口づけと抱擁を得て……順番決めをした。
最初は三人で同時にと考えていたが、相手の積極的な姿勢に『無理やり』や『強引に』と言う発想が消えたのだ。なら満足いくまで味わいたい。
折角の幸運だと……はやる気持ちを押さえつけ、力関係から順番が決まった。
荒ぶる股間の息子を早く解き放ちたいと最初に彼女に抱き付いたのは、一番最初に声を掛けた軽薄そうな男だった。
焦る気持ちを噛み締めて汗で濡れているらしい衣装を剥ぎ取る。
と……手にベトッと貼り付く不快な粘液に気づいた。
前の客の物かと眉間に皺をよせ自分の手を見て気づく。
粘り気のある黒々とした液体。それは……凝固し始めた血液だと。
「ひぃぃ」
「あら……もう終わり?」
組み敷かれていた女性が笑う。
笑いながら身を起こして……彼女はこぼれ出ている胸を押さえて男を見つめた。
「おまっ……これは?」
「血よ。前のお客さんの物よ」
「ひぃぃ」
悲鳴を上げて逃げ出そうとするが、腰が抜けたのか足に力が入らない。
必死に助けを求め背後の仲間たちを見るが……彼らも地面に座り込んで口から泡を吹いていた。
「たぶん貴方が最初だと思ってあとの二人には多めに飲ませたから」
「何を?」
「毒よ。私の唾液たっぷりの……この世で最後の接吻。この体で抱きしめてあげるなんて言うご褒美込みでね」
うふふと笑う彼女がゆっくりと立ち上がる。
スカート部分を捲り、太ももに巻き付けてあるナイフを手にすると……男の横を通り過ぎて仲間たちの元へと向かう。
震えて泡を吹く男の上に馬乗りになり、彼女は頭上にかざしたナイフを振り下ろした。
「あがっ!」
「うふふ……。良いわね。この暖かな血液……たまらないわ」
返り血を浴びて彼女は笑う。
何度もナイフを振り上げ振り下ろし……噴き出す血液が弱まるまで続ける。
相手が物言わぬ躯となると、次の男にも同様に馬乗りとなってナイフを振り下ろした。
仲間の二人を失いながら男は地面を這って逃げようとする。
だが……背後に居る彼女はそんな彼に冷たい視線を向けていた。
「大の男が三人でこれっぽっちだなんて」
手に入れた小銭を手の中で弄び、彼女はそっと息を吐いた。
まただ。また悪い癖が出た。
激しく頭を振って彼女は胸の内の不快な思いを吐き出す。
無関係な人間には手を出さないと決めていた。
それでも今夜みたいなことをしてしまう。
これではあいつ等と何も変わらないと……泣き出してしまいそうになる自分の気持ちに活を入れる。
「これだとどっちが悪者か……見て判断に困るな」
「っ!」
突然の声に彼女は慌てて振り返る。
いつの間に来たのか分からないが……彼はそこに立っていた。
「女性が襲われていると聞いたのだが、これは逆だな」
言って手にしている布を投げて寄こす。
反射的に女性は飛んで来た布を掴んでいた。
「もうその服は使えないだろう? 着替えがあるならそれの方が良いが、無いならそれを使え」
「……」
鋭い目つきで睨んで来る彼女に、声を掛けた彼はやれやれと肩を竦めた。
「それだけの度胸があるなら問題無いな? 一人でも帰れるだろう? 気をつけて帰れ。お前は男を食うらしいからな」
告げて立ち去ろうとする彼に、女性はゆっくりと口を開いた。
「逃げられると思ってるの?」
「ああ。俺の方が強い」
「……」
はっきりと告げて来る相手に女性はゆっくりと手を動かす。
スカートを捲ってナイフを掴めば……と、思った瞬間に彼の姿が消えた。
違う。振り向き様に間合いを詰めて、彼女の懐に飛び込んだのだ。
下腹部へと伸びる女性の手を上から掴んで、ナイフごとを押さえる。
「止めておけ。死ぬぞ?」
「……」
明確な死の予感に女性は震えた。
「何してるんですか、ミキっ!」
だが死神の鎌は彼女の首では無く、可愛らしい声と同時に繰り出された蹴りとなって彼の背に見舞われた。
「私と言う妻が居るのに! 妻……うん妻です! 自然と言えてビックリしました!」
「お前は黙ってろ。レシア」
蹴られた背に手を当てながら、踏ん反り返る妻にため息を吐くミキだった。
(C) 甲斐八雲
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます