其の捌
「兄さん大丈夫かい?」
「ああ……うぐっ」
苦痛に顔を歪める兄の背を弟が撫で続ける。
胃の中に入れた水筒の中身を全て押し出し抜き出す作業……出来ない自分には想像すら出来ない苦痛を、兄は今味わっているのだ。
「うげぇ……がはっ! はぁ~」
「大丈夫かい?」
「ああ。きついが慣れても居る」
喉を酷使する芸なので兄の声は酷くガサガサだ。
それでもこの芸を止めないには訳がある。
手渡されたカップの水で口をゆすぎ、兄……アムートはその場に座り込むと一息ついた。
場所は人気のない奥まった路地裏だ。
芸のネタを見せない為に隠れて仕込む必要もあり常にこのような場所に来る。
大きく息を吐いて強い疲労の色を見せる兄に、弟……カムートは何とも言えない視線を向ける。
火の息吹は本当に危険な芸だ。余りに危険すぎて現在やっている者は居ない。
これを教えてくれた師匠ですら死を恐れて手出ししない物だった。
揮発性の強い油を使う都合、少しでも間違えれば炎が逆流して腹の中で爆発する。
それだったらまだ楽な方だ。確実に死ぬのだから。
ちょっとでも息の吹き方を間違えて油が自身に飛び散り引火する。何度も兄はそれを食らい続け全身至る所に火傷を負っている。
「兄さん。今日は休もう」
「そうだな」
「全く……調子に乗って三度も吹くから」
「違いない」
弟の言葉に素直に従い兄は苦笑する。
今日の客の中に確かな目を持った人物が紛れていた。
自分たちとそう齢は変わらないはずだが、その目は鋭く全てを見つめていた。
「あのお客さんはどうだった?」
「ああ。息吹の仕組みを知っているそうだ。でも誰にも言わないってさ」
「そうか。良い客だったな」
「本当に」
と、弟が投げて寄こした物を兄は受け取る。それは綺麗な色をした金貨だった。
「その客がくれたんだよ」
「……これを見るだけで嫌なこと全てを忘れられるな」
僅かに見える日の光に金貨をかざし兄は片目を閉じる。
金貨なんて物を見るのはいつ振りだろうか? 最後に見たのは……仲間たちと一緒のはずだった。
使った道具を全て片付けた弟は、座ったまま金貨をかざす兄に手を伸ばす。
「今日ぐらいは宿を取って休もう」
「そうだな」
「……兄さんが望むなら、その金貨で女を買って来ても良いんだよ?」
「馬鹿を言うな」
生意気なことを言う弟の頭を小突いて兄は笑う。
分かっている。腹を酷使する芸のお蔭で、自分がちゃんとした物を食えなくなったことを弟が悔いているのだと。
だからこうして食事以外で楽しめと言っているのだと。
「もう少しだカムート。俺たちの復讐を終えた時は、腹いっぱい飯を食って良い女を抱いて満足して仲間たちの元へ逝こう」
「そうだね兄さん」
弟は少し悲しげに笑うと兄と並んで共に歩き出した。
「やっぱり肥えたか」
「うにょ~」
全力でクルクルと踊るレシアの足取りが重い。
日々体を動かしていてのこれと言うことは、出て来る結論は体重の増加だ。
「もっと軽く踊れ。床下に響いているぞ?」
「あっは~。もう自棄です~」
踊ることを諦めて彼女は全力で体を動かす。
多少振動はあるが、下手に踊るよりまだ少ない。
トントンッ
「済みませ~ん」
「……?」
動くレシアをそのままにミキは扉の横に張り付いた。
「何か?」
「はい。あの少々振動が……お楽しみでしたら悪いんですけど、少しだけ抑えて貰えますかね?」
廊下から聞こえて来る声は、明確な不満だった。
どこぞの肥えた踊り子が悪いと、ミキは振動から避難し宙を彷徨っている七色の球体を捕まえると、震源地に投げつけ黙らせた。
「これで良いか?」
「あっ助かります。こっちも直ぐに終わるんで少し待ってもらえれば……また続きをどうぞ」
「そう言う訳じゃ無いんだがな」
ちゃんと詫びの一つも入れようと扉を開いたミキは、その場に立つ相手を見て動きを止めた。
相手もミキを理解したのか驚いた表情で固まっている。
「……お楽しみを邪魔して申し訳ないです」
「違うんだがな」
芸人の男が本当に気まずそうな顔で謝って来るのにミキは耐えられない。
「ミキは酷いです。もう少し優しくしてくれてもいいと思います」
「…………本当にすいません」
「だから違うんだけどな」
話を複雑にしそうな肥えた踊り子に向け、ミキは殺気染みた視線を向けて黙らせた。
「兄が次に使う油の分量の調整をしてましてね。揺れると危ないんですよ」
「済まなかったな」
「いえこっちも勘違いして」
終始テーブルに額を押し付けられているレシアをに対し、彼……カムートと名乗った青年は生温かな視線を向けている。
場所は一階にある食堂。お詫びを兼ねてミキは彼を食事に誘ったのだ。
一仕事を終えてから兄も来るそうなので、それまでの間暇潰しに話をすることとした。
「観光ですか? この南部に?」
「観光も目的なんだが……色々とあってこの大陸全てを見て回っている」
「そりゃ凄い。俺なんてこのアフリズムから出たことも無い」
「大抵の人はそうだろうさ。俺だってたぶん闘技場に関わって人生を終えるのかと思っていた」
互いに簡単な自己紹介も済ませ、話しながら過去の経歴なども伝える。
少し顔色を悪くさせている兄のアムートも後から合流し、四人で食事と会話を楽しみ始めた。
(C) 甲斐八雲
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