南部編 壱章『音を立てずに静かに過ごす』

其の壱

「にゃは~」


 山を抜け草原に出るなり全力で駆けだしたマガミの背に揺られ、機嫌を良くしたレシアが吠える。

 追随し並走する仲間たちを突き放して進む一頭の大きな獣。圧倒的な王者の風格すら漂わせる狼は風を纏って直線で走る。


「もっともっと~」


 巫女様の命令は絶対だ。

 身を深く屈めてより速く走る狼に追いつける仲間は居ない。

 一人と一頭はとても気持ち良く走っていた。

 もう一人の存在を忘れて、とても気持ち良さそうに。




「どうしてあんなに走ったんですか!」


 今夜の休息にと岩場の高台で足を止めた狼から飛び降り、ようやくそれに気づいた彼女の言葉がそれだった。

 グッタリとしている彼は半ば死んでいるようにすら見える。

 真っ青な顔と包帯に滲む出血の様子など、ひと目で相手がただならない様子だと分かる。


 しかし全裸の女性は……とても生温かな視線を慌てる巫女へと向けた。


「走れと命じられたのは巫女様でしょう?」

「あ~っ! でもあれです! 加減です。そう加減して走っていれば」

「ですが『もっともっと』と言ったのは巫女様でしょう?」

「にゃあ~っ! それでもですね」

「それに巫女の前に居た彼の様子を常に見れたのは巫女様です。別に目で見なくても空気で分かるはずですよね?」

「なぁ~ん。ミキ~。助けてくださ~い」


 言葉で完封されたレシアは助けを求めるが、地面に横たわる彼からの救いは無い。

 とりあえず運ぼうとマガミが近づくと、地面に何か書かれていた。


「巫女様。これを」

「うな~?」


 恐る恐る地面を覗き込んだレシアはそれを見て驚愕した。


『あとで尻を叩く』


 短い文章に濃縮された彼の気持ちを察し、マガミはただただ優しく頭を抱える少女を見た。


「巫女様。これを回避する方法が」

「教えてください」


 言い終える前に食い気味で詰め寄って来た相手にマガミは優しく笑った。




「足っ足が……ピリピリして……あふん」


 ずっと彼を膝枕し、一晩明かしたレシアは自力で動けなくなっていた。

 でもこうすれば尻を叩かれないと狼さんに言われ、それを信じてやってのけたのだ。


 と、天幕の入り口が開かれ……大柄な美女が顔を突っ込んで来た。


「お食事が出来てます」

「はぁうん」

「それと……」


 チラッと視線を怪我人に向け、マガミは軽く息を吐いた。

 やはりこのまま灼熱の地である南部に向かうには無理があり過ぎる。


「少し寄り道をしましょう」

「寄り道ですか?」

「はい。まずは彼の怪我を癒さないと、旅など無理にございますしね」

「ですね」


 言ってレシアは自分の服の胸元に手を差し込む。掴んで引っ張り出したのは七色の球体だ。


「朝です。私の荷物を出して下さい」

「……こけ~」


 眠そうな声で七色の球体から背負い袋が吐き出された。


「着替えたら行きます。それとミキの食事は私がやるから余計なことはしないで下さいね」

「はい巫女様」


 いつも通りの会話を交わしマガミは顔を引っ込める。


 背負い袋から取り出した布を纏めて枕とし、レシアは自分の足と枕を入れ替えると震える足でどうにか立ち上がった。

 天幕から顔だけを出して、今日の天気と空気を感じ急いで服を作ると食事へと向かう。


 しばらく……だいぶ経って天幕にマガミが戻って来た。

 手にしているのは焼いた肉を切り分けた物と携帯用の乾パン。そして薄味のスープだ。


「生きてる?」


 覗き込んでみると相手の眼だけがグルッと動いた。


「大人しく寝ていれば治ると思ったんだけど……本当に人間は脆いわね」


 クスクスと笑い乾パンをスープの中に入れゲル状の食事を作る。

 出来た皿に口を付け中身を含んで怪我人に口づけをする。口移しで食べ物を流し込むと次は肉を咀嚼する。


「……それは……」


 この数日でめっきり弱った相手の抵抗など子供以下だ。


 両手で押さえマガミはまた口づけをする。


「ダメよ。ちゃんと食べないと……体力付かないものね?」

「たす……レシ……」

「残念。巫女様は"また"仲間たちに乞われて踊っているわよ」


 クスクスと笑う彼女の言う通り、レシアは数多くの狼を前に踊っていた。

 食後の軽い運動が……気づけば狼相手の披露の場と化している。


 ここ数日同じことを繰り返しているのに、彼女はつい見てくれる者が居ることに喜び踊るのだ。


「はい。諦めて全部綺麗に一欠けらも残さず食べましょうね」


 獲物を見つけた獣のような目を向けマガミは、怪我人の看病と称して彼の唇を蹂躙し続ける。

 たっぷり踊って上機嫌で天幕に戻って来たレシアが見た物は、今にも彼を全裸にして襲いかかろうとしている女性の姿であった。




「がるるっ!」

「狼に牙をむける人間の姿って落ち着いて考えると不思議よね」


 朝の出来事から騎乗を拒絶されたマガミは、仲間たちにその役目を譲ることとなった。

 巫女様を乗せると言う大役に壮絶な争いとなるはずだが、それを回避するために事前に彼女が担当する者を指名した。

 壮大なため息が辺りに響いたが、どうにか次の目的地へと向かい歩き出していた。


 巫女の腕に抱えられ、狼の背に乗る彼の視線がそれに気づいた様子だ。


「本来ならまだ連れてくる予定じゃ無かったのだけれども」

「どこなんですか?」

「……聖地の入り口よ」


 人の姿のまま狼の走りについて来るマガミがそう告げた。




~あとがき~


 南部編スタートですが、実は舞台はまだ中央草原です。

 次章から南部へ向かいます。




(C) 甲斐八雲

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