東部編 漆章『過去を知る者』
其の壱
「あの馬鹿者が」
口に咥えていた団子の串を吐き出し、彼は手にしていた
読み始めた時に見せていた機嫌の良い表情は何処かへ行き、今は果し合いの前にでも見せる険しい表情を浮かべている。
故に弟子である者たちは誰も声を掛けられずにいた。
望めば立派な衣装を纏う事すら出来るのに、旅の多い彼はいつもくたびれた衣服を好む。体に馴染んでいる方が何かの時に動きやすいからだ。
そして自身の横に置いていた刀をむんずと掴み、立ち上がりながら腰に差した。
「御師様。何か?」
「
不機嫌に言う彼の言葉に、その怒気に……近くに居た弟子たちは一斉に怯えた。
久しぶりに届いた
「忠刻殿が?」
師匠たる彼の怒りに怯えていてはいつまでたっても何も解らない。
弟子の中で人当たりの良い彼が代表し、貧乏くじを引くのはいつも通りの流れであった。
だから古参の弟子たちも彼には頭が上がらない。
逆らえでもしたらこの不運な役目を譲られてしまうからだ。
「病気だそうだ」
「江戸から医師などは呼ばなかったのですか?」
「詳しいことは書かれていないが間に合わなかったのか……あの人のことだから無駄と悟って呼ばなかったのかも知れんな」
「ですが次期老中と目されていた忠刻様に御座いましょう?」
「だからこその老中候補だ。彼は本当に良い御方だったからな」
そんな人物だったから義理とは言え息子を預けたのだ。
そんな人物だからこそ……あの馬鹿者は追い腹を斬ったのだ。
分かっていた。あの二人は主従として理想的な関係であったのだから。
分かり切っていた。もしこのような事態になれば、このようなことが起きると云う事を。
「
「ですが」
「くどい。ついて来たくなければ置いて行く。今の儂は一人で駆けて行きたい気分だ」
「……」
弟子たちも分かっていた。
彼がどれ程義理とは言っても息子を想っていたのかを。
何かにつけてその名前を口にして気にかけていたことを。
だから皆が理解出来た。
その怒りを堪えて我慢し肩を震わせていることが……きっと剣豪の涙なのだと。
急ぎ引き返すことになったとしても今居る場所が遠すぎた。
放浪癖のある師匠に従い西へ西へと流れていたらこの地まで来ていた。
親しい間柄となった
弟子たちは方々を走り急ぎ船の手配をして皆でその船に飛び乗った。
唯一幸いなのが船の向かう先が播磨であったことだ。
瀬戸内海でも有数の貿易地である播磨は、向かう船も多い。
ただ全員が同じ船に乗ることは難しく
「お客人。この風と波なら問題なく着きまさぁ」
「そうか。だが少し急いでくれ」
「だけんど」
「駄賃は言い値で構わん」
「剛毅なお方だな。分かりました」
船の持ち主との会話をさっさと打ち切り、彼は船の先端に立つとその目を凝らし続けた。
養子とは言え……出来の悪い子であったがその分鍛え甲斐があった。だからこそ可愛くて仕方がなかった。自分が得られなかった嫁を得て、後は子を成すことだと期待もしていた。それが義理の娘となった嫁にどれほどの重圧となっていたのかを知ったのはこの旅に出てからだ。
土産と土産話をたくさん抱え、戻った時にはいつも通りに振る舞って……折を見て娘に頭の一つでも下げようと決めていた。
勿論息子すら居ない二人きりの場所でだ。
頭の中で描いていたことはもう叶わない。
きっとあの
「皆して先に逝きよる」
「御師様。何か申しましたか?」
「いや……」
いつもながらにずけずけと声を掛けて来る弟子の一人が同船していた。
適当に供を選んだ時に外したはずだったが……無意識に選んでいたのかもしれない。
と、彼は懐かしい感覚にとらわれ辺りを見渡した。
この場所は確か、
「お客人。今日は空荷なんで浅瀬を通って行きまさぁ」
「ああ」
やはり懐かしい。
「船頭。この辺りに島は無かったか?」
「ありますぜ。船島って……あれでさぁ」
「ああ。やはりな」
指さされた島を見つめ、彼は自然と胸元で手を合わせた。
経を読んで静かに黙す。
「御師様。あの場所に何か?」
「……昔にあの場所で果し合いをしたことがある」
「あんな場所でですか?」
「ああ。巌流……今にして思えば、アイツの今際の言葉を儂はまだ理解しておらんのだな」
「巌流?」
言われて弟子は気付いた。
師匠たる彼が行った果し合いの中でも有名なのが『船島での果し合い』だ。
長剣を用いる巌流小次郎との果し合いは、民草の間でも広まり彼の名を高める結果となった。
だがそれをよく知る古参の弟子たちは、その果し合いのことを詳しく話したがらない。
師匠たる彼が言うことを厳しく制しているのもあるが。
「御師様」
「何だ?」
「巌流殿は、その……強かったのですか?」
「そうだな。きっと強かったのだろうな」
「きっと?」
「ああ。果たし合うのがもう三十年も早ければ、あそこで屍を曝していたのは儂だったかもしれん」
そう告げて彼……
諸説あるが、船島の決闘の際……二十代の武蔵に対し、小次郎は六十近い老人だったとも伝えられている。
そして彼は……
(C) 甲斐八雲
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