東部編 参章『悲しみ嘆く声は』

其の壱

「ご支度の方は整いました」

「悪いな幸。急な話で」

「いえ。お殿様の命ならば」

「……義父殿の我が儘だったら?」

「拗ねていたかもしれません」


 クスクスと笑う相手に、彼は何とも言えない渋い表情を浮かべた。


 江戸に向かう知人が領内近くを通ると言うことで、急遽一席設けることとなった。

 その準備やらは他の者が務めることとなったが、『三木之助みきのすけ。我の側にて共に話を受けよ』と言う主君の有り難い……そう。有り難い言葉が届けられたのが今朝のことだ。


 何でもその友人とやらは剣術に興味が強く、"義父"宮本武蔵の立ち合いなどを聞きたがっているそうだ。ならば本人に聞けば良いと思いもしたが、弟子たちを連れて行方をくらませている義父が運良く戻って来ることなど無かった。


「気の重いお顔をなされていますね」

「義父殿の話はどれも眉唾物だからな」

「本人に知られたら木刀で打ちのめされますよ」

「その強さに疑いは無い。だが強すぎる武勇伝は、得てして尾びれ背びれが付いてしまう物。吉岡の話などどこまで本当か」

「左様にございますね。お義父様も自分の口で確りと事実をお話になれば良いのに」


 何度かやんわりとそう促がしたことのある彼女だったが、返事は決まっていつも通りだ。


『話に尾びれ背びれが付くのは、それだけ武蔵が強いと言う証拠だ。皆がそうして話をするのなら余計な水を差す必要もあるまい』


 カラカラと笑いそれ以上話を受け付けないので最近などは諦めている。

 武芸者たるもの、自分の武勇伝が広まるのはさぞ気分が良いのであろう。

 それを他人に聞かせる"養子むすこ"の気苦労など一切気にせずに。


「今回は何の話をしてまいるか」

「でしたら初めての試合で有馬何某ありまなにがしを打ち倒したお話などはどうでしょうか?」

「そうだな。殿もその辺りはあまり聞いていないだろうしな」

「はい」


 着物を正し腰の物を持って来た相手から受け取り挿す。

 今一度着崩れが無いか確認した幸は、柔らかな笑みを浮かべてみせた。


「お戻りは明日にございますね?」

「殿がお残りになる以上、自分だけ戻って来ることなど出来まい」

「……なら今夜、わたくしは一人寂しく過ごすこととします」

「棘のある言い方をするな。殿の命なら拗ねないのでは無かったのか?」

「これくらいの愚痴も許されないのでございますか?」

「……悪かった。明日は急いで戻れるよう努力する」


 口では勝てないと理解しているからこそ早々に白旗を掲げる。

 そんな相手の様子にクスッと笑い、幸は自分の心の中のわだかまりを押さえつけた。

 本当ならばもっと甘えていたいのだ。話をし、二人の時を過ごしていたい。


 と、彼は頭を巡らせ……自身が使っている机の上の書物に気づいた。たしかあれは、


「お前が読んでいるのか?」

「はい。お読みしては良くない物でしたでしょうか?」

「そんなことは無いが、屋敷の外では口にするな」

「あれが南蛮の書物を約した物だからでしょうか?」

「お前が読み書き出来ると知られると……周りの者たちが何かと騒ぐのでな」


 この時代の女は、家の仕事と子を産むことを求められる。読み書きなどしている暇があればそちらに励めと言われるのが当たり前だ。

 だが彼は、留守の多い自分の代わりに暇を潰すことが出来るのならばと止める気さえない。

 得たい物を得ることは、男女関係無く悪いことではないと思っているからだ。


「周りの女たちはもう少し学ぶべきだと思います」

「お前ほど賢くないのであろう。義父殿に読み書きを習ってあっと言う間に全てを得てしまったのだからな」

「……そんなに難しいとは思いませんでしたが?」

「子供の時分の俺に聞かせてやりたい話だな」


 時間は差し迫っているが『もう少しぐらい語らうことも出来よう』と、そう思い彼は机の上の書物を手にした。


「これはどんな物だ?」

「はい。お義父様が頂いて来た物らしく、南蛮の兵のことが書かれています」

「南蛮の?」

「はい。南蛮には"騎士"と呼ばれる者が居て、その者たちが"王"と呼ばれるお殿様を護っているそうです」

「俺たちの様な者が遠い地にも居るのだな」


 どんな気まぐれで義父がこの様な本を手に入れて来たのかは……たぶん南蛮の武器でも知ろうとしたぐらいは想像出来た。あとは分からないが。

 その様な物をこの屋敷に置いて行ったと言うことは、後で幸から本の内容を聴くことも容易に想像できる。

 自分以上に養子の嫁を使い勝手良く使っている。実に腹立たしい。


「幸よ」

「はい」

「明日……帰って来たらこの書の話を聞かせてはくれぬか?」

「少々長い話となりますが」

「構わんよ」

「分かりました」


 手にしていた書物を相手に渡し、彼はそっと腕を伸ばした。


「着物がお崩れになります」

「お前が正してくれるだろう」

「もう」


 抱き締めた相手がその身を寄せて甘えて来る。

 心地の良い花のような匂いに気持ちが和らぐ。

 ひとしきりの時を過ごし、彼は手を離した。


「そろそろ行かねばな」

「……」


 ササッと着物を正し、確認した妻は優しく微笑む。


「三木之助様」

「何だ?」

「はい。何でも南蛮の騎士は……女子供をとても大切にする者の様にございます。わたくしのいた人もその様な方であればと願ってしまうのです」

「……はぁ~」


 素直に見送ってくれることは無いらしい。

 ここに来ての愚痴に彼は、改めて渋い表情を浮かべた。


「何か土産の一つでも買って来れば良いのであろう?」

「心待ちにしております」


 その顔に浮かぶ優し気な表情に……彼はつい堪らなくなって相手を抱きしめていた。




(C) 甲斐八雲

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