月
*
御簾の向こうで、蛍が飛び交う。
喧騒に目を顰める彰子が酒を注いでやると、藤と菊は美味そうに
「藤と菊は、お酒が好きなのね」
彰子は目を丸くした。まるで童のような風体なのに、杯を傾ける姿は様になっている。
「そなたは嫌いか?」
「私は、だめ。美味しいと思えたことがないの」
彰子は御簾を除けることは当然なかった。そして、女房達も含め、人を呼ぶことも。
人を許せば、父に帝との仲を聞かれる。
(御子など……授かるわけがないのに……)
唇を噛み締め、睫毛を伏せる。藤と菊が杯を突き出して来たので、お代わりを注いでやった。
「帝はそなたのことなど見ておらぬ」
その言葉に彰子は耳を塞いだ。
「やめて」
そんなこと、言われなくても分かっている。
入内してから、帝と初めてまともに顔を合わせることができたのは、宮達を引き取るため、挨拶に伺った時だった。
初めて見た夫の顔は、とても8歳も上の男には見えなかった。
帝は彰子の顔を見ると、
「定子にはあまり似ていないのだな」
とだけ言い、顔を隠した。
宮達を引き取ってから帝は藤壺を訪ねてくれるようになったが、それだけだ。
彰子は未だ名ばかりの中宮で、穢れのない、清らかな体のままだった。
「帝の心は今尚、死んだ定子ただ一人の物」
「そなた如き頑是ない小娘が、定子を超えられるわけがなかろう」
藤と菊の辛辣な言の葉が彰子の胸にぐさぐさと突き刺さった。
藤と菊は杯にそれぞれ月を浮かべ、一気に月ごと煽った。
「心とは、金剛石のように、硬きもの。それは望んで変えられるほど、単純なものでもない」
「……」
入内が決まった時――きっと、幸せになれるのだと、彰子は信じて疑わなかった。
一度も、会ったことがない殿上人に囚われた。きっと愛し愛され幸福でいられるのだろうと勝手に信じた。歌さえも貰っていないのに。
(私の気持ちは……どこに行けば救われるのだろう)
彰子の耳朶を何かが震わせた。顔を上げる。ぼんやりと月の光が照らす中に見えたのは、笛を吹く――帝の姿だった。
「…御上…?」
彰子は立ち上がると、御簾を払い除けて庭に降りた。
月の光と菊花が縁取る水面の舞台。鳴り響く音色は、万人が誰でも奏でられる腕前ではない。
彰子はそっと目を閉じた。
空気を滑りながら、音色が体中に纏わり付いて包み込む。
情熱的で、どこか冷たい音色に酔い痴れそうになる。彰子は倒れる前に踵を返すと、部屋へ駆け戻った。
褥の中に逃げ込み、枕の香を目いっぱい胸に吸い込んだ。
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