第六課 実戦前夜 その2

 それからというもの、日課はやはり同じだった。彼は学校が終わると、大急ぎで新宿の俺のところにやってきて、俺が課すメニューを文句も言わず(いや・・・・というのはウソだな。文句は言いたかったんだろう。顔を見てりゃその位は分かる。)

 しかし彼としてはそんな不平不満を口に出している余裕なんかなかった。即席とはいえ師弟関係だ。それに”シメられる”という現実が目の前にあっては四の五の言ってる余裕もなかったんだろう。

 黙々と俺の言うとおりに従っていた。

 そしてとうとう九日目になった。

 要するに”明日はそのお呼び出しの日”となった。


 俺はいつものようにその日の”訓練”を終えた後、綺麗に手を洗った新一と向かい合ってから言った。


『いよいよ明日だな。』

『はい、』

『緊張してるだろ?』

『は、はい』

 新一はどもりながら答える。

『無理もない。初陣ういじんって奴は、誰だって緊張はするもんさ』

 俺はシナモンスティックを取り出し、一本咥えた。

『本当なら、ここで一杯出陣前の杯でも交わすところなんだろうが、君はまだ中二だからな。こいつで我慢してくれ』

 そう言って、彼にも勧める。

 一寸ためらった。

 苦笑しながら俺は端をかじってみせる。ビターな香りが鼻の先まで届いたんだろう。

 安心して一本取って咥えた。

『向こうは何人来ると思う?』

『恐らく三人は来るでしょうね。いつも僕にちょっかいを出してくるのはそれだけですから』

『恐らくその景山ってやつも来ると見ておいて間違いはないだろうな。みんな強いか?』

『景山と後の二人は某実戦空手の道場に通っていて確か黒帯だと聞いています。一人はブラジリアン柔術か何かを習っていて茶帯くらいまで行ってるとか・・・・』

『ふん、まあ実戦空手といっても、色んな流派が沢山あるからな。ブラジリアンなんとかだって、一概にウソともいえないだろうが、だからって鵜呑みにするのもどうかと思うぞ』

 そう言ってから、

『さて、帰ろうか。送ってゆくぞ。支度をしろ』

 と、彼を促した。

『いいか、相手はお前よりは確実に強い。これだけは間違いない。だがな。相手に無くてお前にだけあるものが存在する。何だか分かるか?』

 階段を降りながら、新一は不思議そうな顔をして俺を見る。

『分かりません』

 外に出る。都会のど真ん中だというのに、夜空に雲一つない。実に綺麗な、澄み切った星空だ。

しばらく何も言わず、時折そらを仰ぎながら歩く。

『あの・・・・』駅まで歩く途中、彼がまた不安そうな声を出した。

『お前が弱いってことだよ』

『え?』

『向こうは手前ぇの腕に絶対の自信を持ってる。絶対にお前に勝てると思ってる。というより、お前なんか歯牙にもかけてないだろう。それに引き換えお前さんはどこから見ても弱い。だがな、だからこそお前さんは失うものがない。向こうの方が失うものが山のようにあるんだ。これを忘れるなよ』

『宮本武蔵は言ってみればただの田舎兵法者だった。世間から見れば彼はそれほど認められていたわけではない。その彼が吉岡一門に勝ち、そして佐々木巌流にも勝ったんだ。喧嘩や実戦は、強いものが勝つとは限らない。これが真理だと思っている』

 駅についた。俺は改札の前で、新一の肩に手を置く。

『さあ、家に帰って良く寝ろ。勉強のことなんか考えなくていい。明日の夕方、奴らと戦う事だけを考えて布団に入れ、それと寝る前にはいつもの鏡を見る事と腕立てと腹筋、これだけは忘れるなよ』

『忘れません。今ではもう日課になってますから』彼はそう言って歯を見せて笑った。

 もうおどおどした気弱な所はどこにもない。

『そうか、ならいい』

 そう言って俺も笑い返した。

 彼は改札口の前で、こっちに向かって深々と頭を下げてみせた。

 踵を返して、俺は軽く手を振って、そのままネグラへと戻った。

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