地の底見えぬ底
変化、というものは一瞬だった。
「うわ、ホントに出たよ……」
愛用の鋤を槍の様に構えながら、用心して進んだ水路の途中で、ヤシリツァは金魚鉢に出会した。
全身を鈍色の装甲で覆い、硝子の様な物で出来た兜も中身を窺い知れない。
全体的にずんぐりとしたそれは、何を言う事も無くヤシリツァを確認した瞬間、手にした機械をヤシリツァに向けた。
後は引き金を引くだけで、ヤシリツァを炭にする事が出来る。
しかし、そのつもりだったそれの行動は、ヤシリツァの行動で中断した。
「やーいやーい、ばーかばーか! ここまでおいでー!」
金魚鉢が構えた瞬間、ヤシリツァは鋤を水路に突っ込み、その馬鹿力任せに汚水を巻き上げ、水の壁として叩き付け、その隙に逃げ出した。
感情の読めないそいつも、襲い掛かってくると思ったヤシリツァの、まさかの行動に一瞬止まったが、すぐにヤシリツァを追い始めた。
「のろまー! 鈍亀鈍足……、えーとなんだっけ? あ! 前髪スカスカー!」
以前、コーシカから教わった挑発の言葉を、ヤシリツァが口にした瞬間、金魚鉢の速度が上がった。
感情が読めない筈なのに、ヤシリツァにはそいつが怒っている様に感じ、更に速度を上げた。
「相手の動きを止める言葉だって言ったのに、コーシカの嘘つきー!」
ヤシリツァは更に速度を上げて、迷宮水路の中を疾走する。水路の地理はクロートに徹底的に叩き込まれている。故にヤシリツァがこの階層で迷う事は無い。
上へ下へ、時に力任せに壁を破壊してヤシリツァはクロートの元へ急ぐ。
──急げアタシ……!
この作戦で一番危険なのは、囮であるヤシリツァではなくクロートだ。
奴の装甲には、己の力も尾も効果は薄い。だから、クロートは奥の手を使う事に決めた。
ヤシリツァは勿論反対した。クロートの奥の手は、以前に一度目にしている。
同業者との縄張り争いでクロートはそれを使い、左肩の脱臼と裂傷、そして傷口の悪化を招いた。
使ってほしくないが、奴を止めるにはあれしかない。
己の無力に歯噛みしながら、ヤシリツァは迷宮内を駆け抜ける。
先程から、奴はあの厄介な炎を放っていない。これも、クロートの予想通りだ。
奴は動きながら、炎を放つ事が出来ない。
恐らくだが、腰を据えなければあの機械に力負けしてしまうのだろう。
だから、ヤシリツァは足を止めず、しかし奴に自分を見失わせない様に、闇雲に迷宮内を走り回る振りをにして、奴を誘導する。
「おっそーい!」
現在地は五層下部、若干だがヤシリツァの息も上がり始めてきた。しかし、奴の様子には変わりは無い。
疲れも焦りも無く、ただヤシリツァを見失わない程度に、距離を保ったまま追い続けている。
防毒面の奥で乱れた息を整えながら、ヤシリツァの内心で焦りが膨らむ。
奴は気付いている。こちらに自分を倒す術が無いに等しい事を。そして、自分がこちらを倒す事が容易だという事に。
だが、それもクロートは予想していた。
クロート曰く、あれに人並みの知能があるなら、必ずこちらを舐めて掛かってくる。
奴にとって、目的は分からないがこれは狩りなのだ。
抗う力の無い弱者を嬲り狩る。遥か昔から続く貴族の遊戯のつもりなのだろう。
最後、脳内マッピングで破壊する壁をぶち抜き、目的地と直結する吹き抜けのフロアを駆け降りる。
この吹き抜けは階層一つ分を貫いており、五層から七層のクロートが待つ貯水槽に直通している。
壁沿いに走る螺旋階段を駆けながら、背後を見れば奴は変わらぬ距離で、こちらを追っていた。
良いペースだ。階段から叩き落としてやりたいが、奴の手札が分からない以上、クロートの指示通りに動くべきだ。
しかし、クロートは不意討ちで仕留めると言っていたが、あの貯水槽に隠れられる場所はあっただろうか。あそこには汚水を潤滑に流す為の誘水路と、排水の為の排水路しか無い。
「おにさんこちら、手の鳴る方へー!」
今はそんな事を考えている暇は無い。
目的地は目の前、ヤシリツァは焦りと違和感を隠して、足を前に進めた。
「…………」
「……何にも言わないってのが、こんなに気味悪いのね」
階段を降りきり、貯水槽に降り立ったヤシリツァは奴と対峙する。
ヤシリツァの記憶通り、この貯水槽に隠れられる場所は無い。だが、クロートの姿も見えない。
作戦の決行場所はここで間違えていない筈だ。
まさか、クロートの身に何か起きたのか。
ヤシリツァのそんな困惑を見透かすかの様に、奴は機械の引き金を絞った。
「うわぁっ……!!」
溜めも無く、一瞬で吐き出される炎の鞭を転げる様にして回避し、ヤシリツァは辺りを探る。
辺りには〝がらくた〟と汚水の溜まった水路と、貯水槽を支える巨大な柱しか無い。
「クロートに何しやがったお前!?」
「…………」
答えは無い。しかし代わりと、炎が吐き出される。
状況は最悪の一言に尽きる。
逃げ回るヤシリツァだが、徐々に体力の限界が近付いている。そして、奴は疲れた様子すら無い。
──考えろアタシ、奴だって無敵じゃない
クロートは言っていた。完璧な防水は存在しない。必ず何処かに穴がある。
なら、力尽くで汚水の溜まった水路に突き落とす。
ここは七層、生存限界点である八層の手前にある。つまり、奴の背後にある水路に溜まった汚水は、致命の猛毒の池だ。
やるしかない。あの炎は驚異だが、こちらには分厚い甲殻と鱗があり、力も拮抗している。即死はまず無いと判断したヤシリツァが、一気に腰を落とし、奴に肉薄しようとした時だった。
奴の背後に溜まったがらくたが動いた。
「……上出来だ。バカ娘」
汚水とがらくたに塗れ、水路から姿を現したのは、クロートだった。
クロートは振り向こうとした奴の後頭部を、左の鉤爪で掴んだ。
「クロート……!」
もがくそいつにクロートは振り回され、水路から引き摺り出され、あちこちに酷く打ち付けられ、手にした機械で強かに打ち据えられるが、義腕の拘束は緩まない。
「驚いた。てめえにも感情があったとはな」
「…………!?」
「だがな、てめえはオレらの邪魔をした。だから殺す」
クロートの義腕には、いくつかの機構が備えられている。
その最たる機能が汚水を圧縮し排出するものであり、それら全てはクロートの魔力によって機能する。
そして、その最たる機能には一つ、隠し玉がある。
それが、クロートの致命の一撃であり、諸刃の剣となる機能だ。
「っ……!?!」
「クロートっ!」
奴が最後の足掻きと、背中に貼り付くクロートに向けて無理矢理銃口を向けた瞬間、鉄を引き絞る様な耳障りな不協和音が貯水槽に鳴り響いた。
「あ、が……」
クロートは衝撃で投げ出され、石造りの床に背中から落ちた。クロートの奥の手は非常にシンプルなもので、過剰圧縮した水を推進剤とし、義腕のノズル詰めた弾頭を射出するというものだ。
ただの瓦礫でも出来るが、今回は違う。瓦礫ではなく、異様に頑丈な義腕の中でも、最大硬度を誇る鉤爪。それの予備を弾頭にした。
そして、その効果は確かなものだった。
「クロート! 水路に潜るなんて、なに考えてんのさ!?」
「やか、ましい。水は飲んで、ない」
「当たり前だよ!」
最早泣き声となったヤシリツァの怒鳴り声に、クロートは途切れ途切れに返事をする。
立ち上がる事も難しくなる反動の中、クロートはどうにか動く右腕だけで身を起こし、倒れた標的を睨み付ける。
「……大丈夫、死んでるよ」
ヤシリツァの言う通り、奴は頭部が消失し、胸や肩周りの装甲も捲れ上がる様にしてひしゃげていた。
辺りには赤い液体と塊が散乱し、その赤を薄める様にして、薄く黄色みがかった液体が奴から漏れ出てていた。
「それよりもクロート。ほら、防毒面外すよ。ああもう、濾過器までダメになってる。予備の付けるから、大人しくしてよ」
「あ、ああ」
ヤシリツァは慎重にクロートの防毒面を外していく。
そして、違和感に気付いた。クロートの防毒面は特製で、片腕のクロートでは難しい部分の整備は、ヤシリツァが担っている。故に気付いた。
クロートの防毒面には無い筈のパーツ、L字型のノズルがあった。濾過器に直結したそれはクロートが水中に隠れていたなら、先端は水面の上に出ていた筈だ。
「ちっ、インチキ技師め。やはり、転生者は、信用ならん」
「これ、もしかして言ってた装備? こんなの無理に決まってんじゃんか」
時たま出てくるクロートの無鉄砲さに呆れながら、ヤシリツァは水分を含んで柔らかさを増した傷口を、慎重に防毒面から引き剥がす。
左腕も心配だが、今はこっちだ。クロートに毒の類いが効かない事は知っているが、それでも迷宮水路の汚水は危険だ。
迷宮水路の汚水は毒というより、最早呪いの類いに近い。いくらクロートでも、そんな中に頭まで浸かればどうなるか。
とにかく今は、防毒面を新しく取り替え、顔と左腕の傷口を清潔な布で保護しておかなければ、また傷口が悪化してしまう。
「トレヴァー先生の所に急ぐよ。あ、その前に肩を嵌めないと……」
「待て、奴を……」
「そんな事言ってる場合じゃないよ! ほら、嵌めるよ」
「がっ……!」
義腕を外し、外れた左肩を半ば無理矢理嵌める。痛みに呻くクロートを押さえ付けて、顔と左腕の傷口に布を巻き付け、その上から予備の防毒面を取り付け終えた。
だが、クロートはまだ奴の装備を諦めていなかった。
「それに、クロート背負いながらあれを運ぶのは無理だって」
「オレは自分で歩く」
「無茶言わないでよ。ほら、帰るよ」
「待て。ならせめて、あの機械と背中のタンクは引っ剥がす」
「……りょーかい」
諦めないクロートに、とうとうヤシリツァが折れ、クロートの指示に従い奴の装備を引き剥がしていく。
「これ、本体はどうすんの?」
「……仕方ねえ、捨てるぞ」
「その必要は無い」
「え?」
目当ての装備を引き剥がし、残った死体をどうするか。
その算段をしていた最中、突然背後に現れた声に振り向いた瞬間、ヤシリツァの体から斜めに赤い色が吹き出た。
斬られたのだ。
「ヤシリツァ!?」
「ほう? やはり硬い」
倒れるヤシリツァを庇う様にして、突然の襲撃者とクロートは対峙する。
それは倒した奴と似た様な姿をしていた。
「〝プラーミャ〟の回収に来たのだが、まさか倒されるとは……」
「てめえ……!!」
全身を装甲で覆っていた奴とは違い、装甲に覆われているのは頭部だけで、姿はクラカディール達警邏隊が近い。
クロートは痛む肩を無視して、義腕を振りかぶるが、易々と回避される。
そして、
「かっ!」
「安心しろ。無用な殺生はしない主義でな」
鳩尾に突き刺さる柄頭と、顎に打ち込まれた打撃で、元々限界近かったクロートの意識は刈り取られた。
「クロート!?」
「もう動けるのか? ふむ、これは驚いた」
なんとか立ち上がったヤシリツァだが、内心では混乱していた。
あの一瞬で、反応も出来ずに袈裟懸けに斬られた。斬られた事なら今まで何度もある。だが、この自慢の鱗と甲殻を斬られたのは一度も無かった。
「しかし、血が出過ぎているな。まあ、君なら死にはしないだろう」
「お前ら、なんなんだよ?」
「何者か、その答えは私は持ち合わせていない。だが名乗るなら〝ミェーチ〟、そう呼ばれている。……っと、もう聞こえていないかな?」
「であるならば、離れてもらおう」
片刃の軍刀を鞘に納め、倒れ付した巨体を軽々と持ち上げるミェーチ。
歪む視界と意識の中、ヤシリツァが聞いたのはそんな余裕を感じさせる声と、聞き覚えのある大嫌いな声だった。
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