その地の底から
トレヴァーの病院での話から早数ヶ月、あれからクラカディールの言っていた様な事件が起きる事も無く、ムィーシが見たというチリパーハの死体についても、まったく手掛かりの無いまま、クロート達は普段と変わらず、日銭を稼ぐ為に迷宮水路を浚っていた。
「ねー、クロート」
「黙って手ぇ動かせ」
クロートが鍬を手繰り、刃先に引っ掛かった物を、水路の通路へ引き揚げる。
引き揚げたヘドロの塊を、左の鉤爪で引き裂き、その中身を物色するが、屑鉄と何かの骨の様なものしかなかった。
「ちっ」
「屑鉄でも、無いよりましだって」
クロートが鼻を鳴らして、屑鉄を革袋へ放り込む。
この最近、碌な収穫が無い。
以前にあった中層区画崩落により、蓄えに関してはまだ心配する必要は無いが、何時何が起きるか分からない現状、少しでも用意はしておきたい。
そういう事から、普段はあまり入らない下層の更に下層域に、足を運んだのだが、見事に失敗した。
「……考える事は同じか」
「この辺は、誰の縄張りって決まってないからね」
さて、どうするか。
クロートもヤシリツァも、焦りは感じている。
他の《トッシャー》や《ダウザー》達も、碌な収穫が無い。上で何か起きたかと、セーィフに探りを入れたが、あの情報通の老爺でも、何が起きているのか分かっていなかった。
「コーシカなら、何か知ってるかな?」
「あいつは当てにならん。肝心な時に居ないからな」
先程の屑鉄よりは、少しましな気配のする屑鉄とヘドロの塊を引き揚げ、クロートはそれを通路に置いて、中身を確認する。
「……またか」
塊の中には、何かの骨や布切れ、木の破片の他に、クロートが左の鉤爪で摘まむ金属があった。
二枚の丸い金属が貼り付いたそれの、隙間に鉤爪の先を入れ力を入れる。それだけで、硬い音を立てて、金属は二枚に分かれた。
「また、半溶け小銭?」
「ああ、まったく稼ぎにならん」
言いながらも、溶けて刻印も正しい形も失った硬貨を、クロートは収穫物の中に放り込む。
碌なものではないが、無いよりはまだいい。これと屑鉄で、パンの一つでも買える程度にはなる。
クロートはそれらを袋に放り込むと、水路から上がり、近くに転がっていた壁の破片に腰掛ける。
「何が起きている」
「んー、上がアタシらを干上がらせようとしてる?」
「意味が無い理由が無い。……いや、面白半分でやってる可能性はあるな」
「いやでもさ、アタシら干上がらせて、何するのさ?」
この迷宮水路都市では、富と栄光は上にある。
下にはそのおこぼれと、どうしようも無い現実が転がっているだけだ。
仮に、上の連中が己達を目障りに思っているのなら、〝先触れ〟を出して一掃してしまえばいい。
連中にはそれが出来るのだから。
「ねー、クロート。もう少し下に潜る?」
「いや、今日は引き上げだ。……これ以上潜っても、面倒事が増えるだけになりそうだ」
「りょーかーい」
普段であれば、もう少し中身が詰まっている筈の革袋を担ぎ、二人は迷宮水路の通路を表層区へ向けて進む。
「最近、増えたよねー。がらくたに半溶けのやつ」
「確かにな」
大体、二、三週間前辺りからだろうか。その辺りから、収穫が減り、屑鉄やがらくたと、例の半ば溶けた硬貨等の金属類が増え始めていた。
最初は、また上で何かあったのだろうと、誰も相手にしていなかった。だが、水路で見付かるものが、がらくたばかりになってきてからは、焦りからか根刮ぎ漁り出して、換金屋に無理矢理換金させる者も出始めている。
「クロートクロート、この小銭さ、何があったんだろうね?」
「知らん。だが、まともじゃないな」
「だよね」
ヤシリツァが手に持つ硬貨も、クロートのものと同じく溶け歪み、元の姿を失っていた。
ヤシリツァは捻れ曲がった一枚を、力ずくで元に戻すと、しげしげとそれを観察する。
「クロートー、この小銭ってさ、簡単に溶けたっけ?」
「上の造幣局が、んな手抜きはする訳ないだろうよ」
「だとしたら、ヤバくない?」
上が造る硬貨は、連中の権威を知らしめる為か、他の土地の硬貨に比べ、細かく細工が彫られ、それを保つ為に特殊な合金を使用しているという。
その合金の熱に対する耐性までは知らないが、金属が溶けるには、相当な高温が必要だとヤシリツァにも理解出来る。
「遊びか権力争いか、何れにしてもオレ達を巻き込むなよな」
「本当だよね。アタシらを巻き込むなよー」
ヤシリツァが腹立ち紛れに、手にした硬貨を自分達の進む方角とは、逆方向に勢いよく投げ捨てる。
クロートは、ヤシリツァの稼ぎが減るだけであり、半溶けの硬貨を投げ捨てた事は、気にもしていなかった。
そう、投げ捨てたという事だけは。
「……ヤシリツァ」
「クロート、聞こえた?」
ヤシリツァが硬貨を投げ捨てた方向は道が崩落し、更に下層へと汚水が流れ込むだけで、先程の様な金属が金属に当たった様な、甲高い音を響かせるものは無かった筈だ。
「クロート」
一番強力な武器である尾を立たせ、ヤシリツァがクロートの前に出る。
根拠も何も無い野生の勘だが、あの光の無い闇の中には、良くないものが居る。
硬く分厚い甲殻に覆われた尾を撓ませ、腰を落とし、何時でも飛び掛かれる様に、全身に人外の膂力を満たした。
ヤシリツァの膂力は、正に人外のそれであり、全力の突進なら、成人と変わらぬ大きさの大溝鼠を、二、三匹は轢き殺せる。そして今は、愛用の鋤も手にしている。
闇の中に隠れているものが、何かは分からないが、ヤシリツァの力に対抗出来るものは、そうは居ない。
溜めに溜めた蛮力が解き放たれようとした瞬間、闇の中ではっきりと光が瞬いた。
「っ……! クロート!?」
「ヤシリツァ、何を……?!」
判断は一瞬だった。
解き放たれた蛮力は、闇ではなく水路の壁に向けて放たれ、ヤシリツァはクロートの襟首を掴むと、破壊された壁の穴へと飛び込んだ。
「お前、何を考えてやがる?!」
「今はそれよりも逃げるよ……!」
クロートの抵抗を無視して、ヤシリツァが彼女を担いで、壁の向こう側の水路を走り出す。
クロートには、ヤシリツァが何を感じたのか理解出来ない。しかし、この野生の勘だけで生きてきた娘が、一目散に逃げを選ぶ時は、大抵、碌でもない事が起きる前触れだ。
そして、その前触れは当たり、先程まで居た水路から、有り得ない熱が二人に届いた。
「ヤシリツァ……!」
「合点!!」
クロートを担ぎ上げたヤシリツァが、右へ左へ迷宮水路を駆け回り、時に致死性の毒の淀みを飛び越えて、あと少しで表層区が見えてくるといった所で、ヤシリツァの足が止まった。
「……嘘でしょ?」
表層区へ続く通路、その一つである階段は、何故か崩れ、通路としての機能を失っていた。
「階段が……、いやいや、何でさ? 崩れたなら、誰か気付いてる筈でしょ?」
「……浸水、はしてないな。さっき崩れたのか? というより、降ろせヤシリツァ」
「クロートが走るより、アタシが担いで走った方が速いよ」
「……ちっ、たまに頭が回るな」
だが、事実だ。
元の運動能力が違い過ぎる上に、クロートは巨大な左の義腕が大きな枷になっている。
腹立ち紛れに、軽く小突いてやろうかと、義腕を動かすと、何故か一つの瓦礫が目についた。
「おい、ヤシリツァ」
「ん? どったのクロート」
「ちょっとこれ見てみろ」
クロートが鉤爪で指し示すものは、崩れた通路の瓦礫だ。しかし、何か違和感がある。古い時代に造られた、今では再現不可能と言われる、異様なまでに耐水性と耐魔力性を持った煉瓦と目地材の塊。
その中で目立つ一つを拾い上げ、ヤシリツァの眼前に出す。
「ただの瓦礫じゃん。て言うかさ、今はそれよりも別の逃げ道を……、てか、これやけにツルツルしてない?」
「だよな」
熟練という言葉が、裸足で逃げ出す様な職人達が、焼き上げ削り積み重ねた壁だが、その材質上、指が滑る様に滑らかな手触りになる事は無い。
材料と加工次第では、それも可能だろうが、迷宮水路にはそれは必要無い。
「ちょっと待って、こっちもツルツルしてる」
「まさか、斬ったのか?」
いや、そんな芸当が出来るのは、クロートが知る限りでクラカディール、若しくは
「……チリパーハ」
石材を鏡面の如く斬り裂ける人間は、この迷宮水路に二人以外に居ない。
しかし、チリパーハは既に居らず、クラカディールには通路を破壊する理由が無い。寧ろ、奴は警邏としては、とても真面目で真摯な男だ。
ならばと、クロートが考えを巡らせている最中、ヤシリツァが唸った。
「ぐ、る……」
「ちっ、来やがったのか」
撒いたと思っていたが、そうではなかった様だ。
水路の曲がり角から、姿を現したのは、人ではなく熱の陽炎を舞わせ吐き出す鉄塊。
それは鉄の管に鉄板を幾重にも張り合わせ、一種の槍の様にも見える。しかし、それには切っ先も刃も無く、先端には触れる者全てを焼き焦がすであろう、熱と陽炎が舞っている。
クロートの知識の中にある、銃に姿が近いが、違うと判る。
「…………」
「……金魚鉢か?」
しかし、その異物を構える主は更に異形と言えた。
ずんぐりむっくりと、その言葉を指し示すかの様に、分厚い布とも革ともつかない、白い衣服と胸当ての様な防具に覆われた体、背には鉄塊に続くチューブに繋がる人一人分は有りそうなタンク。
そしてクロートの呟きの通りに、硝子の球に金属のカバーを後ろに嵌め込み、フレームを這わせた頭は、どこを見ているのかまるで判断出来ない。
だが、はっきりと判る事はある。
「ヤシリツァ……!」
「合点!」
ヤシリツァが尾で壁を破壊すると同時に、金魚鉢が鉄塊を二人に向ける。
そして二人が隣の水路に飛び込むと、先程までの水路を紅蓮の焔が飲み込んだ。
「クロート」
「いいか、バカ娘。あれは敵で、得体が知れん。だから、分かるな?」
ヤシリツァは頷くと、己の自慢の尾を揺らす。
全力で振り抜けば、成長しきった
あの金魚鉢の体は、よく分からないもので覆われている。だが、頭は割れやすい硝子だ。
「……来るぞ」
重々しい足音が聞こえ、硝子の頭が視界に入った瞬間、ヤシリツァは全力で尾を振り抜いた。
煉瓦壁が砕け、金魚鉢も弾かれた様に焔がまとわりつく水路へと弾き飛ぶ。
「……っ! 、逃げるよ、クロート!」
「おい待て、まさか?!」
赤い赤い焔の中、白い腕がぬぅっと伸びた。
ヤシリツァに担がれ、上下に揺れる視界で、クロートはヤシリツァの尾の一撃で、破壊されず立ち上がる生物を目撃する。
「ヤシリツァ、オレの指示通りに走れ!」
「分かってるよ!」
寒気すら覚える熱気に、背を焼かれながら、二人は再び迷宮水路の深部へと向かった。
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