その地の底にて
――……おい。
――ん? どうしたよ。
――最近、随分と無理矢理な稼ぎをしているな。
――ああ、ちっとばかし金が入り用でな。
――また新しい刺青か?
――……ああ、今回のは少しばかり値が張るもんでな。
――ふん、その内、顔も解らなくなるな。
――はっ、そこまでは彫らねえよ。
――……どうだかな。
〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃
もし今、機嫌を問われたなら、その問うてきた奴を殺す。
そういった気配を隠す事すら無く、クロートは薄暗い酒場の隅にある席で、何も飲み食いせずに座っていた。
「クロート、機嫌直しなよ」
「うるせえ」
向かいの席でヤシリツァが、質の低い酸っぱいエールの入ったジョッキを傾けながら言う。
しかし、当のクロートは不機嫌さと苛立ちを隠そうともせず、右手で胡桃を弄ぶ。
「あんなの、どうしようもないじゃんか」
「分かってんだよ」
元が何か解らない干し肉を噛り、口内に突き刺さる塩味を、酸っぱく薄いエールで洗い流す。しかし、どうにも残る後味に、ヤシリツァがどうしたものかと、自身の懐具合と思案していると、背後から聞き覚えのある呼び声がした。
「〝長尾〟はともかく、〝大爪〟が酒場に座ってるとか、何があったのかな?」
「コーシカ」
ヤシリツァが振り返れば、長く先の曲がった尻尾と、欠けた猫の右耳が目に入る。
俗に〝噂好き〟と呼ばれる猫人の情報屋の女だ。
「何があったじゃないよ、コーシカ。散々な目にあったんだから」
ほら、とヤシリツァがコーシカの眼前に、己の尾の先端部分を見せる。
厚く、幾重にも折り重なった鱗と、硬く鋭い甲殻に覆われた強靭な筋肉と骨の塊。
今、もしヤシリツァが気紛れで癇癪でも起こして、この尾がコーシカに向けて振られれば、ひとたまりも無く、コーシカは二つの肉塊に変貌するだろう。
だが、この恐ろしく、〝長尾〟の俗称の元となっている尾が、一体どうしたというのか。
コーシカが獣眼を凝らして、よくよく見てみれば、鱗の一枚に何か擦った様な跡が、うっすらとあった。
「大溝鼠に噛まれた」
「でも、鼠の牙がヤシリツァの鱗に通る訳ないよね?」
コーシカの疑問通りに、ヤシリツァの鱗や甲殻の強度は、蜥蜴人の常識からかけ離れたもので、大溝鼠の牙では到底、傷一つ付ける事すら不可能だ。
であるならば、この跡が何だというのか。
「昨日休みだったから、一日かけて念入りに磨り上げて磨いたのに、もう跡ついちゃった、しかも鼠の……」
「なら、磨き直せ。今はそれよりも、明日からの稼ぎだ」
「言うけどさ、どうやってあの量の大溝鼠を片付けるのさ?」
「大溝鼠がどうかしたの?」
コーシカがテーブルの皿から、干し肉を一欠片口に放り込む。あ、とヤシリツァが声を挙げるが、知恵を貸すと言えば黙った。
話として、クロートとヤシリツァが、主に縄張りとしている区画がある。上層中層からの直通の水路が幾つかあり、他の区画からも支流が繋がっている区画だ。
獲物である金品が流れ込み易く、流れもそう早くもない為、絶好の漁場でもあるのだが、反面ではヘドロやガラクタもその倍近く流れ込み、発掘の難度を引き上げ、上物を掘り出しても、品質を損なっていたりと、中々に難しい漁場だ。
そして、今日も今日とて、二人はその猛毒の汚水に満たされた水路に浸かり、上から流れ落ちてきた金品を浚っていたのだが、
「何がどうして、何時に無く鼠共が湧いていてな」
普段の餌場からは離れた二人の漁場に、巣の中もかくやと、大溝鼠が徘徊していたという。
「視認出来ただけで、二十から三十。連中が一番調子に乗る数だ」
「気持ち悪かったよー。狭い水路から、あのデカイ鼠がうようよ湧いてくるんだ」
さて、コーシカは考えを巡らせる。
大溝鼠が大量に湧くのは、何もこれが初めてではない。
連中は、餌と塒さえ十分に確保出来れば、際限無く幾らでも増える。だから、何年か周期で、奴らが大量に湧いた事がある。
その度に、下層と表層から有志を募り、殺鼠剤を巣の周辺に振り撒き、生き残りがいないように、まだ息のある大溝鼠を、念入りに殺していく。
普段の仕事より、危険が伴う。だから、報酬も弾む。
「クロートー、セーィフに話聞いてみよーよ。あの様子だと、他の区画も似たようなもんだよ」
「あの守銭奴なら、もう話を詰めてるだろうよ」
そして、その仕事に必ず駆り出されるのが、クロートとヤシリツァの二人だ。
ヤシリツァは蜥蜴人との混血で、鱗と甲殻の頑強さから、巣の近くで適当に暴れさせれば、十人分の働きになる。
だが、クロートは少し違う。
「楽な仕事だ。色々ふっかけてみるか」
クロートにとって、この危険な仕事は、普段よりも簡単な仕事でしかない。
何故か、大溝鼠は余程困窮するか、追い詰められでもしない限り、クロートに襲い掛かる事が無い。
殺鼠剤を振り撒きながら、クロートが巣の近くを彷徨いても、奴らは近付きすらしない。
餌が無ければ、石ころを噛り、共食いすら当然の鼠が、この顔を隠した女だけは、命が尽きるその瞬間になるまで襲わない。
情報屋であるコーシカの好奇心は、その謎に惹かれて仕方ない。
しかし、好奇心は猫を殺すという。コーシカは好奇心に殺される猫にはなりたくない。
「しかし、何で今になって湧いた?」
「コーシカ、知恵貸すって言ったよね?」
硬く重い音で、ヤシリツァが尾で石の床を叩き、クロートの左腕が上がる。
知恵を貸すとは言ったが、さてどうしたものか。
コーシカの抱える情報の中に、関係ありそうなネタが幾つかあるにはある。だが、関係ありそうという、不確定な状態で、商品を売る訳にはいかない。
鉤尻尾を揺らして、コーシカが仕方ないとネタを一つ切ろうとした時、一つの声が三人に転がり込んだ。
「なあ、ちょっといいか?」
「あ? ……ムィーシか」
少し高い、慎重さを感じさせる声の持ち主〝ムィーシ〟。小柄で非力だが人が良く、四カ国の言葉に精通し、文字を書ける事から代書屋として、表層で頼りにされている。
「どしたの? 代書頼む用事は無いけど?」
「あ、ああ、それはいいんだ。それよりもチリパーハ覚えてるよな」
「チリパーハ?」
つい最近、夜に大溝鼠の縄張りに入り、そのまま連中の餌になった《トッシャー》の名だ。
筋金入りの変人で、顔以外が悪趣味な刺青で覆われていた。元はどこぞのお抱え剣士だったという話だが、死人の過去なんぞどうでもいい。
「し、死んだんだよな? 大溝鼠に喰われて」
「ああ、鼠の巣の近くに奴の愛剣が落ちていたらしい」
「だ、だよな。でも見たんだ」
「見たって、何をさ」
ヤシリツァが、軽い調子で続きを促す。
ムィーシは、人が良く頭も良い。だが、必要以上に臆病なのが欠点だ。
中々話が進まない事に、クロートが苛立ち始めると、ムィーシは辺りを警戒する様に見回して、三人にポツリと喋り始めた。
「チ、チリパーハの体が、上層直通の水路から落ちてきたんだ……」
クロートの右手の中の胡桃が潰れた。
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