明日を生きるために

A

第1話

日々生きていると、「気だるさ」なんて言葉じゃ表現できない、そんな感情に陥ることがある。全てのことがどうでも良くなるような、自分を惨めだと思うような。私はそれを、「虚無感」とよんでいる。例えば、小説を読み終えた時。読後すぐは、その小説の余韻に浸ったり、読み終えた満足感を味わうことができるが、ひと度現実に目を向けると、この世はなんて汚いんだろうと思う。小説の中は、綺麗だ。人の心も、世界観も、物語も。それがどうだろう、この世は。他人に怒り、恨み、憎み、争いばかりしている。そんなことを考えていると、学校でのことを思い出す。そういえばあの女子達は、今日も誰かの陰口を言っていたな。陰口は、陰口を言う本人の更なる怒りと、優越感以外、何も生まない。解決なんか、するはずがない。文句があるなら、本人に直接言ったら良いのに。そしたら相手も気を付けることができるし、自分も怒る気持ちを、持ち続け無くて済む。絶対その方が有益だ。まぁ、直接文句を言う勇気が無いから負け犬同士で陰口叩いて傷舐め合ってんだろうけど。あ、そういえば、数学の課題、明日提出だ。やってない、どうしよう。明日朝早く起きて、やろうか。それとも、今やってしまおうか。いや、今日はもうおそいから、明日の朝やろう。そして翌朝、眠い瞼を擦りながら思うのだ。世の中が、小説みたいに綺麗だったらいいのに、と。小説を読んでいる時は、自分が綺麗な世界にいるような感覚を味わうことができる。しかし、読み終えてしまえば、そこからは泥沼なのだ。だからこそ、虚無感を感じる。あとは、カップルを見た時。恋愛がしたいとか、恋人が欲しいとか、愛されたいとか、そういうことではない。ただ、「常に隣に誰かがいてくれる」という感覚を、羨ましく思う。友達がいない訳じゃないし、一緒に遊ぶ人がいない訳じゃない。もっと言えば、「恋人」と呼べる人間が、いたこともある。しかし、そういうことではない。簡単に言えば、「自分」を委ねられる人間がいないのだ。「自分」を受け止め、支えてくれる人がいないのだ。その人が、男友達だって女友達だって恋人だっていい。ただ、「自分」を受け止め、認め、理解してくれる人が、常に隣にいて欲しい。だから、「恋人が欲しい」というのも、あながち間違いではないのかもしれない。ただ、本当に言いたいことは、自分を理解してくれる誰かが、そばにいて欲しいということだ。その「誰か」が今の自分にいないことなど、最初から分かっている。だからこそ、虚無感を感じるのだ。誰からも必要とされない、誰からも愛されない、愛したいのに、愛せない。そんなことを、たった一人、自室で延々と考えている。こんな時、誰かが隣にいてくれたらどうだろう。認めてくれなくても、理解してくれなくても、そこにいてくれるだけで、ずいぶんと楽になるだろう。逆に、誰もいないまま、一人だったらどうだろうか。自殺というのも、一つの選択肢になってしまうかもしれない。自分が大きな存在だなんて思ったことは断じて無いが、ほんとうに自分はちっちゃくて、死んでも周りは何も変わらないだろうな、なんて思ってしまうだろう。そして、死ぬ勇気なんてないくせに、本当に死にたいなんて思ってないくせに、死のうと思うのだ。その時、自分を必要だと思ってくれている人が思い浮かべば、死のうなんて思わなくて済むかもしれない。しかし、そういう人が実際にはいたとしても、そんな人はいないと思い込んでしまうだろう。そして死ぬ直前になったら、どうせビビって、諦め、逆に生きる術を考えるのだ。どうすれば、楽に生きられるだろうか。気に入らない人間を、全員殺してしまおうか。いっそ、誰とも関わらないで生きていこうか。しかし、誰とも関わらなければ、逆に死んでしまうだろう。誰かしらと関わらなければ生きていけない、というのは、綺麗事と思われるかもしれないし、実際、私自身が綺麗事だと思っている。しかし、これは事実なのだ。人が生きるためには、人と関わらなければいけない。だが人は、嫌いだと思っている人の行動は、全て嫌な行動に見えてしまう。または、嫌な行動しか見えなくなる。逆に、自分が好きな人の行動は、全て善意のある行動に見えるか、もしくは良い行動しか見ようとしない。だから私は、自分を嫌う人、自分を必要としない人ではなく、自分を必要としてくれる人、自分を認めてくれる人、自分を理解してくれる人、自分を愛してくれる人、愛させてくれる人を見ようと思うのだ。すると、心が少し軽くなったように思う。この世の綺麗なことが、少しだけ見えてきた気がする。するとふと、外から近所の子供たちの声が聞こえてきた。

「また明日も遊ぼうね」

「ずっと友達でいようね」

「元気でね」

思わず笑みが溢れる。まるで、明日から会えなくなってしまうような、どこかに引っ越してしまうかのような言い方である。実際は、そんなことは無く、明日からも普通に遊ぶのだろうが、そんなことを言えてしまう子供が、あまりにも純粋で、綺麗に見えた。言っている言葉は、大げさだけど、実際、本当にそう思っているのだろう。自分の友達も、そんな風に思ってくれていたら、幸せだな、と思った。背伸びをして立ち上がった私は、明日の自分が、虚無感を完全に忘れてくれていると信じて、「生きる」ことを考える。さぁ、明日は何をしようか。朝は早起きして、散歩に行こうか。その途中コンビニでメロンパンとカフェオレでも買って、家でYoutube を見ながらダラダラ食べよう。そのあとはどうしよう。友達と遊ぼう。ゲームセンターに行こうか、カラオケに行こうか、あ、今はあの映画がやってるな。友達に、明日遊べるかどうか聞いてみよう。そうやって、いつの間にか前を向く。そして私は、明日も生きようと思うのだ。

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