第705話 私の肉を食べなさい
「イエスは人肉食を語ったの?」
「えっ?」
「ほら、『私の肉』を食べなさい」
「あー、あれかー」
「深意は?」
・・・
言葉を「そのまま」理解すべきだろうか?
確かに、キリスト教も「イエスは天からのパン」という言葉で解説してくれる。
しかし、子供は訊くだろう。
「そのパン、どこにあるの?」
■イエスの教えと重なる日本
日本の民衆も、「鏡のイエス」を食べる習慣を守っていた。
→ イエスは天からのパン
(そして鏡開き)
神の国の正月に「餅料理」が出る。
これこそ、イエスの「肉」である。
行事の終わりに『鏡餅』を食べるが、大多数の人は、その意味を知らない。
それでも、何らかの象徴だと思っているだろう。
それは正しい。
イエスこそ→ 鏡
鏡餅の説明は、以前に行った通りだ。
それ以外にも、「肉」への解釈はある。
■これが「肉だ」!
イエスの当時、標準語は「コイネー」だった。
地方では「ヘブライ語」も使われていた。
ヘブライ語は神事に深く関わるが、「子音文字」なので安々と読めない。
部外者は、「ニクダー」と呼ばれる「肉付け」を必要とする。
ニクダー - Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%AF%E3%83%80%E3%83%BC
イエスの解説が「ニクダー」に相当し、神聖視されて読めない「子音文字」(シオンの表現)を理解する助けとなったのだ。
人々は、イエスの「肉付け解説」を必要としていた。
ところが、当時の人々は拒否反応を示した。
ヨハネ6章(表現への理解不足)
51 わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」。
52 そこで、ユダヤ人らが互に論じて言った、「この人はどうして、自分の肉をわたしたちに与えて食べさせることができようか」。
53 イエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。
54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。
(血を飲む→ 知を呑む)
「人肉を食べるのか?」という反応は、確かに直情的だが、
実は、背後の鬼による「拒否」反応もあった。
鬼の感性に影響されると、言葉を正確に発しない人が許せなくなる。
鬼は、「規則最優先」の生き物であるからだ。
■イエスは門で選別する
「アナログ思考」を蔑視し、少しの間違いも許せない上層部が、力の弱い庶民を虐げる。
それは、当時も現代も同じである。
イエスの求める「温情」だが、頭の硬い賢人たちはそれを許そうとしない。
子供の訴える「舌足らずの説明」でも受け入れようとする人なら、イエスの門が通過できるのだ。
『私の肉を食べなさい』は、その網掛けの一つに過ぎない。
心を暖かく保とう。
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