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2022年12月11日 18:53 編集済
ヒロソ様。過去の偉大な文明を作ったのはルシファーであり、人間には文明を創る力は無いと言われています。しかし、ルシファーに任せておくと常に逸脱しサタンの破壊を招きます。ルシファーには任せられない、しかし、人間にはその力は無い…ジレンマに陥りつつ扉を叩き続けました。するとダスカロスの本が気になり始めました。「エソテリック・ティーチング」で躓いていたのですが、この本の前にもう一冊「エソテリック・プラクティス」が出版されている事に気付き、此方を手に取りました。この本で、やっとダスカロスの教えの概要が理解できたように思います。そこに答えとなる箇所を見つけました。以下に記します。因みに彼はイエス・キリストをジョシュア・イマヌエルと呼んでいます。p.44~「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(新訳・マタイ25-35~40)と説明するのですが、これは『共通の自己性』のことをいっているのです。また別の場所で、ジョシュアはこのことについて、「わたしはぶどうの木、あなたはその枝である。」(新訳・ヨハネ15-5)と話しています。わたしたち全員が『キリスト』の体内にいて、同じ場所を共有しているという事実は、最も深淵かつ崇高な真理とだといえないでしょうか?・・・ジョシュアは、「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(新訳・ヨハネ15-5)・・・以上、抜粋。「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(新訳・ヨハネ15-5)と知っていてキリストが人を置き去りにするのでしょうか?物質界=世の神の世界に姿が見えないからと言って私達を置き去りにした訳ではありません。もし、物質界=世の神の世界に、未だキリストがいたとしたら、神輿と私達が隔てられているように、キリストと私達は物質的に隔てられると考えられます。ではキリストはどのようにしたのでしょうか?キリスト霊的体内に私達を移し入れたのです。p.32「彼はすでにそこにいます。いや、それどころか、彼は私たちの心であり、精神そのものだといえるでしょう。」彼をキリストと呼ばなくとも私達は彼と共にいるという事です。キリストの姿が見えないのは私達がキリストの体内にいるからです。大きすぎて認識できないだけです。依然として私達はルシファーの築いた文明を基盤とした世界に生きています。その中で人はキリストと共に先ずは新たな「文化」を築いて行けば良いのだと思います。人単独ではルシファーに敵わなくともキリストの力が補ってくれます。それには、我々が自分の意志で踏み出さなければなりません。ヒロソ様の『それほどの力を持つ神は、どこにいるのだろう?』という問には「あなたと共にいる」とお答えします。それには、「自力」での一歩、つまり、「意志=石」が必要です。
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ヒロソ様。
過去の偉大な文明を作ったのはルシファーであり、人間には文明を創る力は無いと言われています。しかし、ルシファーに任せておくと常に逸脱しサタンの破壊を招きます。ルシファーには任せられない、しかし、人間にはその力は無い…ジレンマに陥りつつ扉を叩き続けました。
するとダスカロスの本が気になり始めました。「エソテリック・ティーチング」で躓いていたのですが、この本の前にもう一冊「エソテリック・プラクティス」が出版されている事に気付き、此方を手に取りました。この本で、やっとダスカロスの教えの概要が理解できたように思います。そこに答えとなる箇所を見つけました。以下に記します。因みに彼はイエス・キリストをジョシュア・イマヌエルと呼んでいます。
p.44~「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(新訳・マタイ25-35~40)と説明するのですが、これは『共通の自己性』のことをいっているのです。また別の場所で、ジョシュアはこのことについて、「わたしはぶどうの木、あなたはその枝である。」(新訳・ヨハネ15-5)と話しています。わたしたち全員が『キリスト』の体内にいて、同じ場所を共有しているという事実は、最も深淵かつ崇高な真理とだといえないでしょうか?・・・ジョシュアは、「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(新訳・ヨハネ15-5)・・・以上、抜粋。
「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(新訳・ヨハネ15-5)と知っていてキリストが人を置き去りにするのでしょうか?物質界=世の神の世界に姿が見えないからと言って私達を置き去りにした訳ではありません。もし、物質界=世の神の世界に、未だキリストがいたとしたら、神輿と私達が隔てられているように、キリストと私達は物質的に隔てられると考えられます。
ではキリストはどのようにしたのでしょうか?キリスト霊的体内に私達を移し入れたのです。p.32「彼はすでにそこにいます。いや、それどころか、彼は私たちの心であり、精神そのものだといえるでしょう。」彼をキリストと呼ばなくとも私達は彼と共にいるという事です。キリストの姿が見えないのは私達がキリストの体内にいるからです。大きすぎて認識できないだけです。
依然として私達はルシファーの築いた文明を基盤とした世界に生きています。その中で人はキリストと共に先ずは新たな「文化」を築いて行けば良いのだと思います。人単独ではルシファーに敵わなくともキリストの力が補ってくれます。それには、我々が自分の意志で踏み出さなければなりません。
ヒロソ様の『それほどの力を持つ神は、どこにいるのだろう?』という問には「あなたと共にいる」とお答えします。それには、「自力」での一歩、つまり、「意志=石」が必要です。