黒いキャンバスに色彩を

@ryu2040

黒いキャンバスに色彩を

「                        」虹矢が、両手をせわしなく動かした。

 目の前の視界には、薄く霞がかかっていた。紫のような、紺のような空が、広がっている。

「みんなは、学生時代をよく、青春って言うよね。だってさ」天馬が、彩瀬に伝えた。

 冷たい空気が、そこら中を満たしている。鼻に抜ける冷気が、不思議とチクチクしているように感じた。

「確かに、青春っていうのは、俺たちくらいの年のことだよな」彩瀬は、相槌を打つ。

「でもさ、俺らがここに入る前なんて、青春なんて言葉、幻想だったよ」虹矢は、両手を動かして、話す。

 青春なんかじゃない、”黒春”だと思ってた。虹矢は手で表現する。きっと口調は、おどけていたに違いない。

 青春というのは、文字通り、青い春。青草のように若々しく、青空、青い海。太陽にきらめく雫が、生い茂った葉っぱの上で踊るイメージだ。

 三人には、それがどうしてもイメージできなかった。三人からすれば、青い春ではない。

 黒い春だ。

 どこに行っても居場所がなく、三人の心に悶々と残る影のように、黒く、離れてはくれない。真っ黒のカラスが不気味に泣いている様子さえ浮かんでいた。

「でもさ、案外悪くなかったよね」

 虹矢は、笑顔を見せた。薄暗い空が、照れたように赤くなってきている。

 他の二人も、虹矢の考えには同意した。

 悪くない、むしろいい。黒い春ではなく、青い春。いいや、青じゃ足りない。もっと、晴天の空に現れた、彩り豊かな虹のような、そんな春だ。

 昇ってきた朝日は、三人の顔を容赦なく赤く染めた。



「なに、笑ってるんだよ」

 そう言われて、笑っていたことに気が付いた。

「別に、なんでもない」言いながら、身体を起こす。思ったより身体はだるく、頭も痛い。

「夢でも見てたのか?」

 部屋は、しんと静まり返っていた。発せられた声だけが、真っ直ぐに進み、壁に当たり、消えていく。

「いや、夢というよりは、記憶かな。寝てるときに、過去の出来事を体験してた。」

「いつの記憶?」物腰柔らかい彼の声は、耳触りがよく、聞きやすい。

「高校生だ、確か、三年の二学期の前」

「二学期って言い方が、懐かしいな。」

 男は二人で笑いあい、同じ記憶を脳の中から取り出した。

「二学期の前と言えば」

「もちろん一つしかないだろ」

「だよな」

「あ、悪い」そこで一人が椅子から立ち上がった。これからする思い出話に水を差すように、携帯電話が鳴った。男は短く言葉を返し、電話を切った。

「呼び出しだ。行くわ」

「続きはまた話そう」

 一人になった部屋は、さらに静かになった。残った男は横になり、二人の弟を思いながら、目を閉じる。


 窓の外から、昼の光が差し込んでいた。時計を見ると、あれから二時間ほどたっている。あれというのは、男が呼び出され、部屋から出ていった時だ。

 枕元のサイドテーブルに置いてある、ラジカセを手に取る。慣れた手つきでスイッチを入れ、音声を流す。

「次のはがきは、こちら。」

 毎日聞いている、軽薄さが滲み出ている声が耳に入ってくる。

「ラジオネーム、シミズデラヲ。十五歳です。ジミー・ガムさんは、昨日の代表戦を見ましたか。僕は見ました。あんなの、僕は納得できません。この気持ちを、どうにかしてください。」

 昨日の代表戦とは、何のことだろうか。

「ああ、あれね。ガムさんも、見たよ。」話すと歌うの中間のような口調で、ジミー・ガムさんは話す。

「大人になると、ああいうことって、きっとよくあるよね。そういうときって、どうにもならないからさ。だから、どうにもならないって思いながら、それでも戦うことが、ガムさんは大事だと思うな。世の中って、不条理でどうしようもないことだらけだから」

 そうだ。どうにもならなくても、戦え。

「それでは、シミズデラヲ君には、ガムさんから、オリジナルのチューインガムを送っておくね。虫歯にならないように、気を付けてね。じゃあ、ここで一曲。」

 ガムさんの声から、低く響く声の英語に変わる。ガムさんの選曲は、今流行っているものを流すわけではなく、自分がいいと思うものを流すという特徴があった。自由で縛りがなく、大空に羽ばたいていく鳥を思い起こさせた。

「おお、起きたか」

 そこでドアが開き、男が入ってくる。

「寝すぎると、時間を無駄にした気がする」

「それは同感だ。」

 男は椅子に腰かけた。

「ひと段落着いたのか?」

「一応な。いつ呼び出されるかはわからないけど」そう言い、男は窓の外を眺める。

「昨日って、なんかの代表戦があったのか?」

「あったよ。サッカーの。知ってたのか?」

「今さっき、知った。」そう言い、ラジカセを指さす。

「なんて言ってた?」

「少年が、納得いってないようだったな」

「あれは少年はもちろん、青年でも、大人でも、親父でも納得できないなあ」男は笑い、顎をさする。

「何があったんだよ」

「ほら、覚えてるか?僕達が決勝まで行って、応援来ただろ」

「ああ、あれな。」


🎷

 こちらを睨むように、強い陽光が照り付けてくる。アスファルトはからからに乾き、セミが自分の存在を知らせているのか、大きな声を出していた。

「起きなさい」桃佳は、川の字で寝ている三人に声をかけた。一人は揺すり、目を覚まさせる。

 食卓の上には朝食が並び、一番に席に着いたのは、長男の彩瀬だ。目は閉じたまま手を合わせ、食べ物を口に運んでいく。

 少し遅れて次男の天馬、三男の虹矢と続いた。

「食器はよろしく」桃佳はぶつくさと言うと、自室へ戻っていった。

「いただきます」

 彩瀬は動かしていた手を止め、一つ息を吐く。肩に力が入っていた。姉でありながら、毎日自分たちの食事を作ってくれていることに、頭が上がらない思いだった。

 三人は無言で手を動かす。居間にあるのは、食器と箸が当たる音と、みそ汁をすする音だけだった。

「ごちそうさまでした」一番に食べ終わったのは、天馬だ。食器を重ね、台所に行く。

 他の二人も続き、三人で食器を洗った。

「着替えたら、行くよ」彩瀬は声をかけ、三人は制服に着替えていく。

 制服に身を包んだ三人は、玄関に向かった。玄関の横にある部屋が、桃佳の部屋だ。

「姉ちゃん、行ってくるよ」彩瀬と天馬はそろって言い、虹矢は手を振った。ドアを開けると、外からの光に目を細めてしまう。三人は蒸し暑い空気を感じながら、外へ出ていく。


 道に出ると、三人は手をつないだ。

「手汗、すごいよ」天馬が、彩瀬に言った。舌を出し、顔をゆがめる。

 三人は、家の外と学校の外では、いつも手を繋いで移動していた。文字通り、手を取り合って生きてきたのだ。

「仕方ないだろう、暑いんだから」彩瀬は手でそれを言う。

「あ、自転車。」

 天馬は一人呟き、後ろの彩瀬の手をつまんだ。彩瀬もそれに続き、後ろの虹矢の手をつまむ。この、手をつまむという行為は、三人の中では危険が迫っていることを意味していた。三人はそうして、互いに危険を知らせていく。

 自転車が通り過ぎ、三人はバス停についた。

「バスまであと何分?」

「もう来るよ」

 彩瀬がそう言うと、バスがちょうど停まる。ため息を吐くようにドアを開き、三人は乗り込んだ。

「ママ、見て」

 車内は込み合っており、彩瀬と天馬は吊革につかまりながら、立っていた。間の虹矢は二人と手を繋いでいる。それを見て、一人の男の子が指さした。

「どうして、あの人たちは手を繋いでるのかな?」

「見ないのよ。」その母親は、見てはいけないものを見せないように、男の子の目に手をかぶせた。

 これは、三人の日常にはよくあることだ。手をつなぐ三人の姿を見て、いけないものを見るように目を背け、困っていても声をかけることもなく、過ぎていく。

「俺だって、かわいい女の子と手をつなぎたいぜ」

 そこで、天馬は声を出した。男の子はぴくっと動き、母親は気まずそうに苦笑している。

「絡むな。降りるぞ」

 バスは三人の降車するバス停に着いた。

「今日の試合、勝てるかなあ」

 天馬はさっきのことなどなかったように、軽い声を出した。学校へと続く坂道を、三人は昇っている。海沿いの大通りから一本わき道に入り、その坂道の先に、学校がある。

「             」

 虹矢は手を動かし、二人に伝える。

「虹矢は、勝つって言ってる。」

「まあ、勝っては欲しいけど」

「彩兄は弱気だからダメなんだよ、だってよ。」

 右には広い海面が揺れ、左には校舎が見えてきた。校舎の前には数台のバスが止まっていて、それに乗って、試合の応援に行く。

「まあ、明平は頑張るってよ」

 三人は、同じクラスの友人の、明平の試合を見に行く。サッカー部に入っていて、夏の大会では九年ぶりに決勝に進んだ。これに高校全体が盛り上がり、全校生徒での応援が決まったのだ。

 校内では、サッカー部が英雄のような扱いになり、精悍で、整った顔立ちをしている明平が、その中でも目立った。

 十という数字を背中に背負い、準決勝ではゴールを決めたこともあり、県内メディアからも注目されていた。


「あの時、暑かったよな」

「よく来てくれたよ」

 明平は、唇の端にしわを作りながら、言った。精悍さは今も健在で、年齢を重ねて出てくる渋みも増し、今でもいい男だった。

「俺は見られなかったけど、あの雰囲気を聞けたのは、よかった。」彩瀬は静かに言い、微笑んだ。


🎷

「今日は、応援するぞ」

「武藤先生、気合入りすぎ」彩瀬は声だけで人物を判断し、言った。

「楽しみなんだよ。こんなこと滅多にないだろ」

 武藤は、三人の担任を務めて、三年目だ。三年連続な理由は、武藤が三人の父親と親友であり、それは三人がこの高校に入学した理由でもある。

「早く、乗りましょ」

 バスは出発し、三十分程度で試合会場に着いた。降りると、熱気が体を包み込んできて、汗がじんわりと出てくる。

「どんな感じだ?」彩瀬は、他の二人に周りの様子を聞く。三人は応援席に入っている。

「ふかふかな芝生が広がってるよ。ここから正面側に、おっきなスタンドがある。ここと、スタンドが挟む形で、グラウンドがある。左右にゴールがあって、結構広いな」

 天馬は見た景色を説明した。彩瀬はそれを想像する。

「広いのかあ。明平はどこにいる?」

「兄貴の体の向きから見ると、斜め右だね。あ、こっち見たよ」

 天馬と虹矢は手を振り、明平はそれに笑って答えた。彩瀬も遅れて手を振る。


 試合が始まるまで時間があるので、数行使って、三人の説明をしていこうと思う。

 まず、この三人は三つ子である。これまで三人で手を取り合って、生きてきた。そして、ここが重要なのだが、三人にはそれぞれに、人が持っているものを持っていない状態だった。

 長男の彩瀬には、視覚がない。黒い世界で生きてきた彩瀬は、音に敏感だった。声を聴くだけで心の機微を察知し、周囲の変化を音で読み取ることに長けていた。

 次男の天馬には、聴覚がない。周りのことを認識するには、見て、触ることが重要だった。周りをよく見て、物事に対応するのがうまかった。

 三男の虹矢には、発声する力がない。自分のことを表現するのに、一番の方法である声が使えない虹矢は、何かを描くことで気持ちを伝えるのが上手だった。

 三位一体。三人で一人。この言葉がふさわしい、三兄弟だ。


 ウォーミングアップが終わり、仰々しい音楽とともに、選手が入場してきた。

「来たぞ、明平。来たな」武藤は興奮した声で、早口でしゃべった。

 オレンジ色のユニフォームは、芝生の緑に映えていた。メインスタンドにも空席はほぼなく、その中に立っている友人を、三人は誇らしく思う。

 全身黒ずくめの男が、腕をぴんと伸ばし、笛を口にくわえた。甲高い音を鳴らし、試合を開始させる。

「始まったか」彩瀬は呟き、ボールが蹴られる音を聞く。

 試合の相手は、毎年全国大会に出ている、文字通り強豪校だった。強豪校で、絶対王者だ。そして今年は、その中心選手に普段以上の注目が集まっていた。

 名前を光源と言い、こっちの明平との組み合わせで、新聞やネットで源平の戦い、と名付けられていた。

 始まって数分で、相手はチャンスを作り、慣れない舞台で苦戦している明平たちのゴールに迫った。光源は、宙を舞う蝶のように、華麗にディフェンスを交わしていく。

 それにいちいち反応する武藤は、メガホンを握りしめ、彩瀬に注意もされていた。


「相手のエース、うまかったらしいね」

「今は日本代表だよ」

「それは、出世したもんだ」

「こんなのに勝とうとしてたんだって、自分が馬鹿だと思えるくらいに、今はすごくなってるよ」

「今は、かあ。」彩瀬は含みを持った言い方をし、明平に顔を向けた。

「勝てると思ったよ、あんときは」

「でも、邪魔が入ったな」


🎷

 序盤の相手の攻勢はやみ、前半の中盤には互角の勝負になってきた。武藤の応援にも熱が入り、虹矢も天馬も夢中で見ていた。

「え?」

 そこで困惑の声をあげたのは、武藤だった。それから周りの生徒たちがざわつき始める。

「何があった?」

 彩瀬は周囲の異変にいち早く気づき、二人に聞く。

「審判の判定が、ちょっとな」

「          」

「そうそう。素人の俺たちが見てても、あれはこっちのボールだってわかる」

 二人の話によると、審判の判定に偏りが出てきたということだった。審判も一人の人間なので、そう言うこともあるのだろうが、それにしてもひどいらしかった。

「確かに、笛の音も、力が入ってる。」一つ一つの笛の音に、威圧的な印象があり、有無を言わせない雰囲気を、彩瀬は感じていた。

「それはおかしいよ」

 少しすると、笛の音の後に、応援席から誰かが叫んだ。声から、彩瀬には誰が叫んだかわかる。大森だ。一年生の時に同じクラスで、いろんな女子と付き合っているという男だった。衝動的に自分の行動を決めることが多く、考えるより先にしゃべるタイプだ。

「今言った奴、誰だ」

 その声は、彩瀬の知らない声だった。審判がこっちに来てる、と天馬が耳元で囁く。

「出てこれねえんなら、言うんじゃねえよ」

 乱暴な口調で言い残し、審判は離れていく。

「あー、ビビった」

 大森が小さく言ったのを、彩瀬は聞き逃さなかった。


 昨日の代表戦での話題は、どうやら主審の判定が中心のようだった。

「あの時の審判を思い出したな」

 明平は苦いものを食べたように、顔をしかめた。

「代表戦にも、そんな審判がいるのか?」彩瀬は代表レベルの試合はもちろん、サッカーの試合のことはあまり知らなかった。聞いていても、実況の言うことは的確で、間違っていないのだろうが、自分の知らない選手たちのことは、うまくイメージができないのだ。

「まあ、あるにはあるけどな。久しぶりに見たよ」

「あの試合以来か?」

 彩瀬は笑い、明平もつられて笑う。


🎷

 試合は前半を終え、スコアに動きはなかった。審判のジャッジは完璧に相手に寄っていたものの、何とか失点をせずに持ちこたえていた。

「後半は、もっと面白くなりそうだな」武藤は、あっけらかんとした口調で言う。

 ほどなく選手たちが出てきて、それぞれのポジションにつく。審判の笛が鳴り、ボールが動く音がした。

 後半になり、こちらの緊張はほどけてきていたが、それ以上に、光源の調子が上がっていた。ボールを持つと迷わずゴールに迫っていき、周りもそれに呼応して動く。

 後半も始まって十分、犬の鳴き声のような短い笛が鳴り、試合は止まった。

「カードかあ」天馬が、肩を落としながら口にする。どうやら、こちらの選手にイエローカードが出たようだった。

「あの審判、やっぱり嫌な感じだ。」虹矢が手を動かして言い、天馬も口に出した。

「審判があれじゃ、選手たちがかわいそうだな」武藤は気が気でないのか、落ち着きがない。

 変わらず夏の日差しは強く、セミの声が、焦燥感を煽ってくる。

 試合が動いたのは、後半の半分が過ぎた時だ。これまで集中して守っていたディフェンス陣だが、光源が遊ぶように交わしていき、ボールをネットに突き刺した。先ほどカードをもらった選手が、思い切りを持って当たれないということも相まった。

 試合はそのままずるずると進み、審判の独裁者感も増していった。試合終了間際にかけての反撃も適わず、試合は一点差で終わった。

「頑張ったけどなあ」武藤の口調は、明らかに悔しがっており、見たこともないのに、唇をかむ姿が目に浮かぶようだった。


「ああいう人って、たまにいるよな」

「あの審判みたいな?」

「そう」

 自分の立場を利用し、理不尽にこちらを押し付けてくる。

「自分にかかる重力を、周りに分散させるみたいな」

 明平は、今でも悔しそうな表情をした。右の拳を左の手のひらにぶつけ、ため息をついた。

「昨日の日本代表も苦労したのか」

「あの時の俺ら以上にな。まあ、中東でのアウェー戦ではよくあるんだろうけど」

「日本の一つの県でも、あったけどな」

 明平は相好を崩す。

 窓からは薄暗い光が入ってきていた。いつのまにか、空には雲がかかっている。

「あの決勝の後は、楽しかったけどな」

 彩瀬は言い、笑みをこぼした。明平も目を閉じ、同じ景色を思い浮かべた。


🎷

 決勝は終わり、応援団は学校に戻った。少し遅れてサッカー部もつき、それぞれがそれぞれと会話をしていた。

「応援ありがとう」明平は、三兄弟に近寄ってきて、話した。しっかりと両手を動かし、手話も付け加えた。

「お疲れさん」

「暑かったなあ」

「何なんだよ、あの審判」

 三人はそれぞれ言い、明平を困らせた。

「でもまあ、ゆっくり休めよ」彩瀬は、明平の肩に手を置く。その動きはスムーズで、目が見えている人の動きと、大差はなかった。

「休むけど、今日はこれから、伝統行事があるんだ。よかったら来ないか?」

 明平は三人に言う。

「伝統行事って、なんだよ。おれたちがいたらだめだろ」

「もちろん、参加するぜ」

 彩瀬が言ったのと、虹矢が手を動かすのが、同時だった。

「それじゃ決まりだな。泊まりになるけど、大丈夫か」

 三人は頷く。

 明平は虹矢と、手を合わせた。油が跳ねるような、小気味良い音がした。

「お父さんには、武藤先生から言っといてもらおう。お父さん経由、姉ちゃん行きで」虹矢は一直線に、武藤のところへ向かった。

「電車みたいに言うなよ、乗ったこともないくせに。」天馬は笑い、彩瀬は少し不安になった。


 三兄弟と明平と、他の数人の部員は、砂浜に来ていた。正面には海があり、振り返って見上げると、校舎が見える。

 太陽がゆっくり落ちていくのを、みんなで眺めていた。こちらを照らす色が鮮やかで、顔を染める色が、ユニフォームと同じオレンジ色だった。

「伝統の行事って何なんだよ」虹矢は、夕陽から目を離さずに、手だけ動かした。明平は、ちゃんと見ている。

「行事ってことでもないんだけどな。夏で部活を引退する人は、ここで花火して、あそこに寝るんだよ」明平は流暢に両手を動かす。あそこと言って示したのは、今は使われていない海の家だった。

 海を眺める数人の高校生と、波が打ち寄せる音と、沈んでいく太陽がそこにはあった。

「楽しかったなあ、部活」

 部員の一人が、少しかすれた声を出した。なにも関係のない三兄弟がいても、文句を言わない辺りは、心が広いのか、良い部員が多いという印象が残った。


「関係ない奴がいても、他の人たちなんも言わなかったもんな」

 彩瀬は自嘲気味に話す。

「俺がすることは、たいてい許されるんだよ」明平が、明るい声で言う。嫌味に聞こえないのが、不思議なところだ。

 明平はサッカー部では、特別な一人だったらしい。歴代の選手と比べても、技術はあり、人望も人一倍だった。クラスでは気が付けば周りに人があふれており、絵にかいたような好青年だ。

「でも、海の家は汚かったけど」彩瀬は見えていないが、見たように言った。


🎷

 陽はすっかり暮れ、空を黒い色が覆っていた。

「花火したことあるか?」明平が三人に聞く。

「したことある気もするんだけどなあ」

 天馬が顎を触りながら、言う。

「綺麗なんだよ、それなりに」

「それなりにって、なんだよ」彩瀬は言わずにはいられない。

「だって、そんなに期待させてもよくないだろ」

「まあ、失望しないためには、期待しないことだけど」

 三兄弟はすこし顔を下げる。三人は、これまでの人生で期待することは、あきらめていた。特に、周りの人間に対する期待は、ほぼ捨てていた。助けてくれると期待しては、笑われ、冷ややかな目を向けられることも少なくなかったからだ。

「これ持って、火をつけるだけ」

 明平は手を引いて、教えてくれた。簡単な説明だが、口調は穏やかで、柔らかい。

「綺麗だな」虹矢と天馬は、目で見て、感じた。

「いろんな色が出てる。俺たちの人生も、こうなったらいいな」天馬は花火を見つめながら、言った。

 鼻の奥がツンとなる独特の匂いがして、窓の隙間から入ってくる細い風のような音が、弾けながら耳に入ってくる。


「おれも見てみたいよ」

 その後から今まで、何度か花火大会にも足を運んだが、爆発するような大きい音と、雨が地面に打ち付けるような音を、聞いただけだった。

「そういえば、あの時天馬が言ってたことって、どういう意味なんだ」

「言ってたこと?」

「俺たちの人生も、いろんな色が出ればいいなって。」

 外には雨が降り出していた。弱い雨が窓に当たり、外の木は風に揺れている。

「ああそれは、俺たち三人の、生きる方針みたいなもんだ」

「なんだ、あの後言ってたことか」


🎷

 花火は無くなり、全員は海の家に向かった。木でできているうえに、潮風にさらされ、家はだいぶ古くなっていた。それでも毎年この時期に、サッカー部員を泊めるくらいには、形も頑丈さも保たれている。三兄弟と明平は、海の家の入り口から左に進み、外に突き出た場所に、寝転がった。天井は抜けており、そこから広く漆黒の夜が覗ける。

「今日の審判は、どうなんだ?」天馬は、手元の木のくずをいじりながら言った。

「あれは、稀だよ。運が悪かった」明平は、不公平な判定にも文句を言わず、毅然とした態度で戦っていた。今も、表情を変えることなく空を見上げている。

「高校最後の試合は、あっけなかったなあ」

 同じサッカー部の、渡辺が言った。寂しげに、頬を緩める。

「それは、もう楽器を演奏できなくなる、その直前の演奏みたいなもんか?」

 三兄弟は、自分たちに当てはめて、考えていた。

「そんな感じだよ、実感はないけど、虚しい。」明平は笑い、三人の演奏を聴きたい、と呟いた。

 三兄弟は、幼少期から、楽器に触れていた。目の見えない彩瀬は、それを超越するように、楽し気に楽器と戯れる。天馬は耳が聞こえないが、ピアノを弾くのが上手で、声もいい。三人の中では歌い手を務めていた。そして虹矢は、ギターを操り、自分のことを表現する。指が弦の上を踊り、縦横無尽に動いていく様は、圧巻だ。

「いつか見せるよ。」彩瀬は静かに言う。

「今度は、俺達の番だね」

 サッカー部の他の生徒は、いつの間にか寝息を立てている。目を開けているのは、三兄弟と明平だけになり、波が動いている音が、目立つようになった。

「暗いなあ」天馬は言い、手も動かした。

「俺は、いつも暗い。」彩瀬は、軽く言った。潮風が、足元から顔の方に上がってくる。

「俺たちの世界は、暗いよなあ」

「暗い?」明平は、素直に疑問を口にした。

「そう。いつでも暗かった。」

「暗いっていうか、黒いっていうかな」天馬は声を出して笑った。周りの人が起きないか、不安になるくらいの、大きさだった。

 明平は、何も言わずに聞いていた。彩瀬が、口を開く。

「俺たちはさ、今まで生きてきたけど、みんなよりは黒い世界だと思うんだよ。」

「真っ黒、まっくろくろすけだよ」虹矢が手で言った。

「みんな、生まれたときに、真っ白なキャンバスを渡されるんだ。自由に、人生を描いて行けって。」

 周辺は静かな空間が広がっていた。夏の片隅に取り残されたような、そんな心細さが満ちていた。

「でもな、俺たちの渡されたキャンバスには、もとから黒い絵の具が付いてるんだよ。」

「なるほどな」明平は少し息を吐き、伸びをした。

「俺たちが生きてるのは、黒いキャンバスに色彩を溢れさせるためだ。」彩瀬は三人の代表として、たくましく言った。

 一定のリズムで迫ってくる波の音と、寝転がって見える逆さまの星が、静かにそこにいた。明平は三兄弟のその考えを、何も言わずに受け入れ、自分も一つの色彩を与えたいと思った。


 窓外の雨は一層強くなっており、アスファルトには水たまりができていた。

 二人は向き合って、思い出話に花を咲かせている。

 彩瀬は、サイドテーブルの上に置いてある、金色の楽器を持った。

「俺からは、勧められないぞ」明平は言うが、彩瀬は従わない。

 彩瀬は軽快なリズムを、金管楽器の口から出し始めた。思わず体を揺らしてしまうような、こちらを挑発してくるような音で、この部屋を満たした。

 辛そうに息を吸い、音を繋げていく姿と、目をつむり、音に先導されるように吹いている姿は、目を引くものがあった。

「お前ら三人の、あのライブ思い出すな」

「それは、これから話そうとしてたことだろ。」

 彩瀬は呼吸を荒げながら言った。

「その前に、少し休め。だからやめとけって言ったんだ」

 彩瀬はその言葉には従い、頭を枕に着け、目を閉じた。


🎷

 決勝が終わり、明平のサッカー人生が終わっても、一学期の残りの授業は続いていた。

「ていうか、なんでサッカーやめるんだよ」天馬は、口を尖らせ言った。明らかに納得がいっていないようで、そう思っているのは、天馬だけではないのは明白だった。

「俺は、医学部に進むんだよ。サッカーは夏までって決めてたんだ。」

 明平は、スポーツもでき、そして学力も兼ね備えている人間だった。三兄弟からすれば、明平は生まれたときには、何色もの色がキャンバスにのっており、そのうえ何本も筆を持っていて、絵の具まで豪華だ。誰が見ても、鮮やかな人生を送っていた。

「俺は、リベンジしてほしいぞ」天馬は明平の気も知らないで、簡単に言った。

 あの決勝の夜、睡魔に襲われても最後まで残ったのは、明平と彩瀬だった。天馬も虹矢も寝た後に、明平は言った。

「俺だって、リベンジしたいって気持ちが強い。でもな、それはたぶん一瞬なんだよ。」

 今度は彩瀬が、黙って聞いていた。

「寝たか?」

「寝てないよ」

「そうか。じゃあ続けるけどな。俺、光源を前にして、同じピッチに立って、ああ、これは無理だ、って思っちゃったんだよ。」明平は頭の下に両手を重ねて入れ、あくびを一つした。

「周りのみんなには言えないけどさ、こういうやつが、もっと上に行くんだなって。ラッキーでここまで来た俺とは違う、絶対的な差を感じてさ。だから、俺の決めていた気持ちは間違ってなかったって、そう確信した。逃げるみたいだけど、でも、もう終わりなんだ。」

 彩瀬はその夜を思い出し、何も知らない天馬が、哀れになるくらいだった。

「リベンジは、後輩に任せよう」明平は天馬の肩に手を置き、その場を収める。

 それから、武藤がホームルームをはじめ、いつも通りの授業へと入っていった。

 三兄弟は、公立のこの高校でも、難なく過ごしていると言えた。生きていく上でのハンデを抱えた人間が、なぜこの高校にいるのだという声も、当然あったが、それは校長と武藤と、三兄弟の意思と、その父親が関わっていた。


 三兄弟は、中学までの間、特別な支援のある学校に通っていた。が、高校に上がるタイミングで、三人の父親が言ったのだ。

「お前ら、公立の高校に行ってみないか」

 彩瀬はそれを聞き、考えられる不安を想像し、天馬は関心がなさそうにあくびをし、虹矢は目を輝かせた。

 父親は、三人の反応を見て、続けた。

「お前ら、そろそろドラマチックに生きてもいいと思うぞ」父親は手を動かしつつ、言葉を発する。

「ドラマチック?」

「そうだ。お前らの進むその目の前の道、そこにドラマはあるのか?」

 父親は、目の前を道があるように見据え、目を細めた。

 三人は顔を見合わせ、意思を確認しあう。みんな、お互いの考えは手に取るように分かる。

 こうして父親の考えのもと、公立の高校に進むことを決めた。三人も、嫌々通っているわけではなく、楽しんで通っているところがあり、そこが変人の血を引いている証拠だった。

 父親は、校長に直接話に行き、担任を親友である武藤に任せるということで、校長は入学を許可した。三人の学力ももちろん申し分ないレベルだった。


 三人は入学し、この場所で過ごして三年目に入っていた。校内を歩くときは、目の見えない彩瀬でも、自分がどこにいるかをわかったし、教師の特徴やクラスメイトとの関わり方もよく学んでいた。

 それでも三年になると、面倒が起こることもある。虹矢は自分の意志が強く、末っ子ということもあり、わがままな一面が周りとの確執を生む原因だった。その一番の相手が、数学の教師というのは、予想外だったけれど。

 この日も数学の授業があり、窓際の前から三つ目の席に、虹矢は座っていた。その前の席に天馬、一番前に彩瀬が座っている。

「じゃあ、この問題を、虹矢君。やってくれます?」数学の教師は、語尾にマスという言葉をつけるのが癖だった。

 数学の教師が、語尾にマスをつけるなんて、冗談でも笑えない。

 彩瀬は、数学教師の指名を聞き、心配そうに後ろを振り返った。彩瀬の後ろの天馬は、机に突っ伏す形で寝息をたてている。それにも関わらず、数学教師は、虹矢を指名した。

 彩瀬は、虹矢が席を立ち、黒板に歩いていくのを、音で感じ取る。

 まっすぐに歩き、毅然とした態度で黒板に向かう。向かう途中、彩瀬の肩に触れ、ぎゅっと優しく握った。

 彩瀬はそれで肩の力を抜き、一つ息を吐いた。

「大丈夫、心配ない」握るという行為は、三人の中でそういう意味がある。

 虹矢はチョークを持ち、黒板に当てる。誰もが数式を書くと思いきや、虹矢はチョークを寝かせ、太い線を描き始めた。

 彩瀬は、字を書く音がしなく、不安になったが、すぐにそれも取り払われる。周りの生徒の空気が、変わり始めたからだ。息をのむ音がし、一瞬全員の呼吸音が無くなり、数学教師は慌てて振り返る。

 でも、もう遅かった。

 数学の参考書に夢中だった数学教師は、止めるタイミングを逸し、壮大な黒板アートを完成されてしまった。

 横に長い長方形の黒板の、中心には、一本の桜の木があった。鮮やかな桃色で、ところどころから花びらが散っている。桜のすぐ後ろに、壮大な富士山がある。左上には三日月が描かれ、右上には太陽がある。太陽側の桜の木の奥に、七色の虹があり、昼と夜が混在している不思議な絵だった。

 虹矢は、鳥の羽が落ちていくように、ゆっくりと席に戻る。彩瀬は頬に笑みを作り、天馬と虹矢は手のひらと手のひらを合わせた。

 いつの間にか起きていた天馬は、虹矢とハイタッチをして、満足げに笑っていた。


 授業は終わり、数学教師は逃げるように教室から出ていった。

「あんなに慌てて消さなくてもなぁ」天馬は手を動かし、目を細める。

「あの慌てようは、足音だけでも伝わったよ」彩瀬は、絵を見たかったな、と付け加えた。

「また、標的にされるよ」虹矢はうんざりといった様子で、手をあげた。

「わかっててやったのかよ」そこに入ってきたのは、明平だ。「あの絵、すごくよかったよ」

 虹矢はその言葉に笑い、二人は握手をした。

「富士山、二学期前のあれだろ?」明平は、両手で虹矢に投げかける。

「そう。楽しみなんだ。」虹矢は言い、兄二人を見る。

「俺たち三人は、富士山に登るためにこの学校に来たって言っても、良いんだよ」天馬は、胸を張った。

 この高校では、二学期が始まってすぐ、一日の登校日の後に、三年生の希望者のみが参加する富士登山があるのだ。これはこの高校の創立から続く伝統行事で、なぜ富士登山なのかは様々なうわさがあった。

 受験の前に、難関を乗り越えることで、受験を楽に感じられるようにするだとか、高校最後の思い出作りだとか。三人はこの行事を、人一倍、いや、人三倍に楽しみにしていた。

 高校に入学するときに、父親から言われたことがもう一つある。

「日本の頂点に、立ってみたくないか」その口調は、いつもの父親を考えると、深刻な雰囲気に満ちており、三人はその言葉を馬鹿にせずに受けとった。

 父親と武藤は、この高校で親友関係にあり、富士山にも登った。その当時の担任が、今の校長だった。

 そのころから続く行事を、息子である三人が体験できるのは、特別なことであり、重要なことでもあった。


 目を覚ますと、雨は上がっていた。窓ガラスを抜け、太陽の光が入ってくる。

 椅子には誰も座っていなく、部屋には一人だった。

 身体を起こし、目をこする。後頭部の髪の毛がはねていた。

 彩瀬は、頭の中に記憶を映す。脳内の記憶倉庫から、高校三年の夏休みという

ラベルが貼られた引き出しを開け、そこを開く。

 すると、彩瀬の周りには、葉が生い茂る木の重なり合う音が溢れる。湿気を持った風が頬を触り、木の濃い影が揺れるのが、怪物がうごめく様子を思わせた。


🎷

「暑い、暑すぎる」

 天馬は、犬がこちらを見上げる時のように、舌を出し、だらりと腕を下に伸ばした。

 今年の夏は、去年より暑い。これは毎年思うことだった。

 背中を汗がしたたり落ち、シャツを張り付け、不快感が広がる。

 三人がいるのは、家から十分ほどの、駅前の広場だった。地元の人はよくいく商店街や、デパートがあり、ロータリーでは人同士がぶつからないように歩いていた。

 夏休みに入り、三人の日常には変化があった。大小で言えば、大の方であり、詳しく言うと、家族が増えたのだ。

「こいつ、本当に利口だよ」虹矢は、足元にいる黒い物体を触りながら、手話で言った。

 三人の家族に加わったのは、一匹の真っ黒い犬だった。

「ニューファンドランド犬だっけ?」

 足元で地べたに突っ伏している犬は、ニューファンドランド犬という犬種で、父親が連れてきた犬だ。


「この犬はな、人を助けるって本能があるんだよ。いいやつだろ」父親は、犬を撫でながら言った。同年代の子供のようにじゃれあっていて、三人は黙ってみているしかなかった。

「なにか質問は?」父親の言葉に、三人は尋ねる。

「名前は?」

「どうして急に犬?」

「姉さんが黙ってないって。」

 三人はそれぞれに言う。

「名前はジミー。お前たちを助けるためだ。俺が家を空けることも多いし、こいつは盲導犬の訓練も受けてる。いても悪くない。そして、桃佳にはしっかりと許可を取った。」

 父親は胸を張り、鼻を鳴らした。

「ジミーか、悪くないね」

「確かに、助けにはなるんだろうけど」

「姉さんが良いって言ったなんて」

「これからよろしくな」そう言うように、ジミーは短く吠え、こちらを見上げた。


「姉さん、犬好きなのかな?」

「どうだろう、パソコンで動画は見てたりするかもな」彩瀬は笑い、言った。

 桃佳は普段、自室にこもっている。三人の食事を作り、部屋に入り、コンピューターに向き合う。桃佳の部屋には、壁一面に電子的な画面が並んでいて、よくわからない文字たちが走って横切っていた。桃佳は、祖父から学んだ株を回し、大きな損失を出すことなく運営していた。それ以外にもコンピューターには強く、人並み以上に機械を扱えた。

「そろそろ、行くか。」

「そうだな」ジミーは答えるように吠え、しっぽを揺らした。

 三人の目的は、ビルに入ったデパートに行くことだった。音楽ショップに行き、その後にペットショップにもいく。

 外を歩くと日差しに刺され、血のように汗が出てしまうので、三人は駅構内を進んだ。正面入り口を入ると、目の前に電車改札があり、右に続く道が、デパートに建物内からいける通路だった。左にはカフェ、右には居酒屋や薬局があり、カフェの隣、少し開けたスペースに、大きなグランドピアノが置いてある。

「今日は、誰も弾いてないな」彩瀬が、誰もいないスペースに耳を向けて言う。

 そのピアノは、ストリートピアノと呼ばれ、道行く弾きたい人が、思い思いに音楽を発散させられる場所だった。

 三人はピアノの横を通り過ぎ、デパートに入っていく。

 すれ違う人々が、三兄弟と真っ黒の犬を一度視界に入れ、また目をそらす。いつもの反応なので三人は慣れていたが、ジミーは不思議そうにきょろきょろしながら歩いていた。

「こいつ、見られるの慣れてないのかよ」天馬はジミーを見て、頬を緩める。

「俺たちは、見られるのは慣れてるからなあ」彩瀬は苦笑する。

 三人はこれまで、怪訝な目を向けられ、人から避けられて生きてきた。明平のような親切な人間は少数派で、ほとんどの人間は、三人を見ると、なるべく関わらないように、行動する。

 人に見られるという意味ではそれとは別に、三人には人前に立ったという記憶があった。脳の隅っこに、薄くこびりついている感じだ。そしてこれをはっきり思い出すのは、今から数時間たったころだ。

 三人とジミーはデパートに入り、音楽ショップに向かうため、エスカレーターに乗る。盲導犬の入店が許可されているのに、歩く人々は顔をしかめる。

 四階に位置する音楽ショップは、CDショップと楽器店がフロアの多くを占めており、あとは端に音楽教室があるくらいだった。

 まずCDショップに入った三人は、最近流行している音楽を見始めた。ジミーは始めてくる場所に目を輝かせ、そこら中に鼻をつけていた。

「最近の音楽は、洒落てるな」彩瀬は言いながら、CD のパッケージを手に取る。形を探るように、触った。

 店内には、目立たぬように、それでも耳に入ってきてしまう、音楽が流れていた。彩瀬は聴き入り、天馬はCDのジャケットを見定め、虹矢はエアーで腕を動かし、ギターを弾く真似をした。

 ジミーは飽きたのか、それでも何かに引っ張られるように、ふわっと動き始めた。リードを持つ彩瀬も引っ張られる。

 ついたのは、試聴機の前だ。そこには目を閉じ、耳にかけたヘッドホンを抑え、外界のすべてを閉ざすように、音を感じる男がいた。黒いスーツに身を包み、隣にいるジミーとの組み合わせがよかった。外は雨も降っていないのに、傘を持っている。

 彩瀬には見えていないが、何か不穏な空気を感じ取った。ジミーはそこから離れようとはせず、居心地がよさそうにあくびも出ている。

「なんだよ急に」虹矢は言い、天馬もうなずく。

「わかんないけど、くつろいでるだろ?」彩瀬は言う。

 天馬と虹矢も、ジミーを見てそう思った。

 それからどれくらい時間がたったのか、店内に流れる音楽が何周もし、三人の足がを疲労を感じたころだ。黒いスーツの男がゆらゆらと試聴機から離れ、ジミーもむくっと起き上がった。

「行く気になったみたいだな」

 三人はそれから楽器店に立ち寄り、好きに楽器に触れ、一つ下の階のペットショップに向かった。

 エスカレーターで滑るように降り、ペットショップに着くと、その前に知った顔があった。大森だ。応援席から審判に抗議し、自信なさげに隠れた生徒だ。胸を張って咲いた花が、数日後には萎れ、首を折って下を向いているような、そんな場面が思い浮かんだ。

 大森の隣には、華奢で、髪を現代風にカールさせた、女の子がいた。まさしく女の子と呼ぶにふさわしいような、溌溂とした印象がある。

「おお、楽しんでるか?」大森は手を挙げ、近づいてくる。三人はまともに会話をしたことがなかったが、大森が近づいて来るに連れ、親しく感じてくるのだから、不思議だった。

「可愛いね」隣にいた女子は、ひざを折り、ジミーの頭を撫で始める。

「そうだろ」天馬は得意げに声を出す。

 女子が口をパクパクさせたのを見て、天馬は虹矢に目を向ける。虹矢が手を動かし、天馬に女子の言葉を伝えた。

「名前はジミーっていうんだ。」

 女子はジミーに夢中になり、三人は大森と向き合った。

「お前らは、彼女は居ないのか?」大森は三人に目を向ける。嫌味をこめてはいないのだろうが、見下す雰囲気が出ていた。

「そんな余裕はないよ」彩瀬が穏やかに言った。二人も頷く。

 それを聞いて、大森は体を反らせ、大袈裟に驚いて見せた。

「生きるのは、恋をするためだろう」大森は、全世界の人間がそうであるように、当然のことであるように、言い放った。

 柔らかな髪がふわっと揺れ、爽やかな笑顔が、弾けた。大森は続ける。

「人間は、恋のために生まれてきたって、聞いたことないか?幸せな家庭を築いて、幸せな生活をするために、生きるんだよ」

 三人は、大森とは別の世界で生きていることを知った。人はそれぞれの世界を持っていて、大森の世界と自分たちの世界は明らかに違うことを悟った。

「どうして、いろんな人と付き合うんだよ」天馬は一矢報いる思いで、口にする。大森はいろいろな女子と付き合っているという噂が石ころのようにあり、天馬はそのなかの石ころを拾い、投げつける思いだった。

「運命の人を見つけるためだよ。」また、大森はすぐに言う。きざなセリフだが、大森が言うと違和感を感じない。

「人と、付き合わないと自分との相性って、わかんないんだよ。一人ひとり首にぶら下げてくれてるんなら、良いんだけどな。この人は友達、この人は結婚って。でもそうじゃない。それだったら、確かめるしかないだろ。気になることは、確かめないとな」

 大森は言い切り、隣の彼女の頭を撫でた。三人がジミーを撫でるよりも優しく、柔らかく頭に触れた。

 それから少し言葉を交わし、別れた。天馬は並んで歩く二人の後ろ姿に、舌を出し、ベえとやった。


 今思うと、大森の考えにも一理あるのは、悔しいが確かだった。人の心は見えないし、考えていることもわからない。そのうえ警戒心があり、他人に自分をさらけ出せる人も少ない。それで人を知るには、親しくならなければ無理だ。

 しかも、大森は案外悪くない奴だ。

 自分は生きているので精いっぱいで、音楽を発し、自分を表現することぐらいしかしてこなかった。

 大森が羨ましいというわけではないが、一度はそんな生活もしてみたいと、今更ながらに思ったりもした。

 また、記憶に戻る。


🎷

 ペットショップではジミーの服や首に巻くスカーフを買い、早速首に着ける。

 三人は駅構内から外に出て、広場の中心にあるベンチに腰を下ろした。

「大森、モテるんだろうな」

 柔らかな髪、透き通るような頬、筋が一本通った鼻。表情は豊かで、人を惹きこむ魅力がある。

「あの外見ならモテるんだろうけど、感じ悪いぜ」天馬はジミーを撫でながら言う。

「幸せな家庭かあ」虹矢は、デパートが入ったビルを見上げながら、両手を揺らす。

「ずっと、前から思ってたことがあるんだけど」

 彩瀬は声を絞るように口にする。太陽に雲がかかり、辺りに影が多くなった。

「母さんのこと?」

 天馬の先回りした声に、彩瀬は頷く。二人もジミーも心なしか、神妙な面持ちになった。

「母さん、交通事故で無くなったって聞いてるけど」

 三人には、物心ついた時には、母親がいなかった。記憶には父親と、姉の姿ばかりあり、母親の姿はない。父親からは、交通事故で死んだと聞いてはいたものの、彩瀬は、三人は違う考えを巡らせていた。

「俺たちを産んだ時に、死んだんじゃないかなって」天馬も虹矢も、何も言わない。

 彩瀬はこれまで、この考えを浮かばせては、自分で掻き消してきた。実際にそうだとしたら、それを受け止めることができるか不安だったし、知ったところで、自分の存在がどういったものかわからなくなると思ったからだ。

「そんなの、俺も思ってたよ」天馬は、軽く言ってみせた。虹矢も、手を動かし、俺だって、という。

 彩瀬は、二人に顔を向ける。目が見えていたとしたら、まじまじと見つめ、目を見開いていただろう。

「俺らは三人で一つなんだよ」天馬の声には抑揚がなく、少し居心地が悪そうに言った。照れ臭さを隠すように、鼻を掻く。

 三人で、一つ。

 彩瀬はその響きを頭の中で反芻し、ふっと笑みをこぼした。

「三人で、一つ。いいな、それ。」

「     」虹矢は無音で言う。広場を行き交う人たちの足音が、伝わってくる。

「三位一体だ、ってさ。」

「それだ!」ジミーがそう言うように吠え、何人かの歩行者がこちらを見た。

「確かめるか。」気になることは、確かめるしかない。

「気になることは、確かめるしかないらしいしね。」天馬の声と、虹矢の手話が、ほぼ同時だった。

 やっぱり、俺たちは三人で一つらしい。


 三人で、一つ。それは今まで生きてきた中で、中心に位置していた事柄だった。それはこれからも変わらずに続いていく、はずだ。

 そこでドアが開き、明平が部屋に踏み入れてくる。

 ベッドの横の椅子に座り、こちらを見た。

「お目覚めか」

「だいぶ前にな」彩瀬は両腕を上にあげ、伸びをした。

「体はどうだ?」

「悪くないよ、良くもないけど」

「良かったら、ここにいないだろ」明平は窓を見ている。正しくは、窓の外の空だろうか。

「晴れてきたな」太陽を隠す雲が無くなり、街全体を陽の光が照らしていた。

「あの日も、多分、今の空と似てるよ」彩瀬は目に見えないためか、推測する口調で言った。

「お前は、目が見えるやつよりも、大事なことが見えてるよ」明平は本音で言ったのだが、彩瀬は冗談と受け取り、なんだよそれ、と笑った。

 明平は頭の中に、高校三年の夏を思い浮かべた。


🎷

 三人と一匹は、駅から家に、バスに乗って帰った。陽は傾き、車窓からオレンジ色の光が差し込む。

 ドアを開け、桃佳に帰ったことを伝える。相変わらず部屋にいて、気だるそうな声が返ってきた。

「今日、父さん帰ってくるか?」

 三人の一番の懸念材料はそれだ。父親は、仕事と言い家を空けることが通常で、家に帰ってくることが異常だった。

 確かめることを決心したにも関わらず、そこから間が空いてしまうと、決心した心がだんだんと削られていくんじゃないかと、不安だった。

 三人はその不安を押し込むように、音楽を鳴らした。虹矢がギターを操り、弦の上を指が躍る。天馬は白と黒の鍵盤を押し込み、力強い音を出した。彩瀬は金の大きな口から、伸びがいい腹に響く音を発散させる。

 三人の音は重なり、重厚なハーモニーを完成させる。

 彩瀬はこのころから、普通の人にはできない吹き方を実践していた。

 普通が何を示すかは余りに広すぎるが、この吹き方をしているのは、有名なところをあげれば、ラサーンローランドカークくらいだった。彼は盲目のサックス奏者で、そうとは思えないほどに達者に楽器を操る。

 独自の吹き方として、彼は鼻の息で吹いたり、一度に何本もの楽器を咥え、様々な音を奏でた。

 彩瀬はそれを父親や天馬から聞き、見様見真似ならぬ、聞き様聞き真似をしてみせているのだ。彩瀬のやるそれは、ラサーンローランドカークと遜色はなく、見ていて楽しい演奏だった。

「彩兄、うまくなったね、だってよ」天馬が虹矢の言ったことを、伝えた。

 胸を上下させている彩瀬は、頬を緩めた。体にかかる負担は大きいらしく、息を整えるのに苦労していた。

「帰って来なかったらさ、姉さんに聞いてみようよ」天馬はピアノの速弾きをはじめ、すぐにでも行きたい様子だった。

「この時間に来ないんだったら、帰ってこない気もするけどな」彩瀬は時計を見る。夜の七時を越えるところだ。父親が帰ってくるときは、三人が学校が終わり、帰るころには家にいて、だから今日は、期待が薄かった。

「じゃあ、行く?」天馬は言い、ピアノの前から立ち上がる。

 三人は居間から抜け、玄関に続く廊下の右の、部屋の前に立った。彩瀬がドアをたたく。

「はーい」桃佳が中から返事をした。

「入っていい?」彩瀬は尋ねる。

「うん」

 返事があり、彩瀬は手に力を込める。ノブを回し、ガチャっという音が鳴る。

 開くと、左には壁一面のモニターがあり、正面に、椅子に座る桃佳がいた。画面に向いていて、顔が青白く、照らされている。

「どうしたの?」桃佳は画面から目を離さずに言う。机にはキーボードがあり、スマートフォンやガムが、乱雑に置かれている。古い折り畳み式の携帯電話もあり、現代のものと古風なものが混在し、時が重なっているようだった。

「いや、聞きたいことがあって」

「なに?」

「お母さんのことなんだけど」彩瀬は、後ろに立つ二人の思いも背負い、一息で言う。

「ママが、どうしたのよ」桃佳の口調は優しかった。

「お母さんが死んだのって、もしかしたら、俺たちが原因なのかなって、思って。」

 彩瀬は言い、桃佳の反応を聞く。

「ねえ、なんか変なこと言ってるんだけど。ママ」桃佳は、声を弾ませて笑い、モニター横の写真立てに向かって、話しかけた。

「変って」

「そんなわけないでしょうよ」桃佳は平然と言い、こちらに目を向けた。あんたたち馬鹿なの?とでも言いたげな目だ。

「え、でも」彩瀬は顔を下げ、声を小さくする。後ろの二人も同じ雰囲気を醸し出す。

「あんたら、信じてないの?」

 なにも返せないのが、肯定しているようなものだった。

「そんな嘘ついて、どうすんのよ」桃佳は三人をまじまじと見つめる。なによその顔、と桃佳は射貫くような視線を送り、三人を睨んだ。

「わかった。待ってなさい」

 桃佳は、誰かにスイッチを押されたように椅子から立ち上がり、スマートフォンを耳に当てた。ジミー、と呼び、黒い毛をまとった犬が、桃佳に駆け寄っていく。

「あ、お父さん?」桃佳の声に、三人は顔をあげる。どうして、父親に電話しているのか。

「うん、約束。今使うわ。」

 約束?

「今すぐ家に帰ってきてよ。最速で」桃佳は、有無を言わせない勢いで言い放ち、電話を切った。

「ほら、リビングに行ってて。」三人は言われ、無言で従う。ジミーは桃佳に思った以上に懐いていて、三人は面食らってしまった。


 リビングのソファに腰掛け、三人と桃佳は向き合っていた。ジミーは桃佳の足元にうずくまっている。

「姉さん、犬好きだったんだ」

「うん」桃佳はすぐに返事をする。

「あんたたち、大きくなったね」こうして顔を合わせるのは、すごく久しぶりの状況だった。

「もう、高校三年だから」三人は互いに、顔を見合わせる。何ら変わりのないパーツたちが並び、笑みがこぼれる。

「そう言えば、おばあちゃん近くに引っ越してきたみたいだから、会いに行ってあげな」桃佳は紙をテーブルに置きながら言った。

 紙には、詳細を書いた地図がある。ここから歩いて行っても、十五分ほどで着く辺りに、祖母の家はあった。

「最近会ってないね」

「色を取り入れなさい。って、よく言われたでしょ。」桃佳は三人に言う。虹矢に向かっては、手を動かした。

「言われたね。」

 色を取り入れなさい。生きていくうちに、いろんな人たちに出会うよ。その人たちから、色をもらって、自分の色を出しなさい。色は、あなたたちを守ってくれる。

 祖母の、落ち着いた声が耳に浮かび、心に入ってきた。祖母の言うことは、押し付けるわけでもなく、心にすうっと入っていく。耳から心に入り、身体の一部へと浸透していく心地よさがあった。

「たっだいまー」父親が、足音を鳴らして居間に入ってくる。額には汗がにじんでいた。

「おかえり」子どもたちは言い、ジミーも吠える。

「どうしたんだよ、急に」父親はジミーを撫でながら、聞いた。

「私の弟たちが、よくわからないこと言ってるの」

 桃佳は両手を広げ、手のひらを上に向けた。

「変なこと?」なんだなんだ、と父親はなぜか活き活きとし始めた。

「ママのこと」

「茉由さんが、どうしたんだよ」父親は母の名前に、さんをつけて呼ぶ。

「三人が、ママが死んだのは、自分たちを産んだ時じゃないかって」

 桃佳が言うと、父親は大声を出して笑った。三人の悩みを簡単にふき飛ばしてしまうような、そんな笑いだった。

「苦労してたけど、三人を見てるときの茉由さんの顔って言ったら、そりゃあ優しかったぞ」

 父親は言い、少し遠くを見据える目つきになった。目線を下げ、一点を見つめた。

「ていうか、二人の約束って?」彩瀬は空気の重さを感じ取りながら、尋ねる。

「ああ。桃佳が、強引にな。」

「どっちがよ。ジミーを飼うって強引に言うんだから」

「私の言うことを一つ必ず聞くって、約束させられたんだよ」父親は笑顔になりながら、髪を触る。

「そういうところ、すごく茉由さんに似てる。」

 父親に言われ、桃佳は目を細めた。柔らかい笑顔で、空気が温かくまとまった。

 そこで、父親のスマートフォンが、ポケットから音を出した。短い機械音で、自分の存在を知らせているようだ。

「メールだ」そう言い、画面を見ている。え、と口に出し、そのまま動きをとめた。

 天馬と虹矢はそれを見て、なになに、と覗き込むが、彩瀬にはメールの主が分かっていた。横で、桃佳が笑いをこらえられず、肩を揺らしていることに気が付いたからだ。

「姉さん、何したの」彩瀬は顔を桃佳に向け、声をぶつけた。

「別に、何も」桃佳の声色は、いたずらをした後、相手の反応を楽しむ少女のものだった。

「これ、何。あの世からのメール?」父親の言葉の響きは滑稽で、彩瀬は内容を聞く。

「え?あ、茉由さんから、メールが来たんだよ」

「お母さんから?」

「桃佳、何したんだよ」父親は桃佳を見る。その目は真剣そのもので、力強い視線が向けられていた。

「なによ、その目。早く開いてみれば?」桃佳の平然とした口調、余裕のある目、少女のような無邪気さ。その姿が父親には、茉由と重なって目に映っていた。

 言われるがままに、父親はメールを開く。自由奔放で予測不能の父親だが、茉由の、しっかりとしているのに無邪気で、それでも正しいところに、いつも叶わなかった。

「動画だ。」メールには動画が添付されていて、それを開く。


 画面には、体育館のステージのような、小さな舞台が映されていた。周りは薄暗く、間接照明がところどころで光っているだけだ。

「楽しみだねえ」女性の声がした。芯のある、それでも尖っていない飾らない声だった。高揚感もうかがえる。

「ねえ、何するの?」もう一つ、声がする。舌足らずの少女の声で、活発に走り回りたくて、うずうずしているさまが浮かんだ。

「いまの、私」桃佳が横から口をはさむ。四人の男が、一つの小さな画面をのぞき込んでいるところに、声を投げた。

 三人の、うっすらとした記憶の靄が晴れ始めていた。忘れかけていた、砂の奥に埋もれているものを、引っ張り出す気持ちだった。

 ステージの裾から、三人の小さな小さな男の子と、一人の男が出てくる。

「俺たちだ」天馬が呟く。

 三人の子供は、体よりも大きいくらいの楽器を持っている。子供用なのだろうか、通常のものよりは小さいのだが、それでも三人の子供が持つと、バランスが悪く、転びそうな危うさがある。

 彩瀬はトランペット、天馬は、父親が設置した小さなピアノ、虹矢は小さなギターをそれぞれ持ち、カメラの方に向かって立った。

「みんなかっこいいねえ」茉由の声がする。漏れるように、小声で言った。

 父親はアコースティックのギターを持ち、三人の少し後ろに立った。動画には、観客二人の拍手が入っている。

「今日は、お越しいただき、ありがとうございます。」父親が気取った態度で言った。

「何あれ。いつもと違う」桃佳が隣でぶつくさ言っている。

「いいじゃない。頑張ってて」茉由が桃佳に言った。隣を見たのか、画面が少し揺れる。

 三人もお辞儀をし、楽器を持った。父親が後ろから耳元に声をかけ、三人は動き出す。ねじを巻いた人形のように唐突に、楽器を鳴らし始める。

 楽器を鳴らすというのは文字通りの意味で、三人は訳も分からずに音を出していた。彩瀬は切れ切れに息を吐きだし、金管楽器特有の伸びる音を出す。天馬は鍵盤をでたらめに叩き、自分の行為が音を出していることに感激しながら、楽しんでいた。虹矢は重い楽器に苦労しながらも、弦を触り、綺麗な音を出している。

 三人の無造作で、自由な音に、父親がギターを重ね、音楽にしていく。散り散りに飛んでいる音の欠片を集め、一つの楽譜に押し込めていくような、そんな音楽だった。自由な部分と、統制されている部分のバランスがよかった。

「いい、音色だね」

 茉由が笑みをこぼしながら言ったのが、入っていた。

 三人と父親は、涙を堪えながら、動画を見ていた。三人の記憶には、この光景が、この時の緊張感が、ずっとあった。誰かに見られるという経験はこれが初めてで、これが記憶の下地として残っていた。

 演奏は十分ほどで終わり、三人はステージの裾に消えていく。と思いきや、楽器をその場に置き、ステージ端の階段を恐る恐る降り、カメラに向かって走ってきた。

 声ともならない茉由の息遣いが動画から漏れ、画面は止まった。


「はい、これでおしまい。わかった?」桃佳はあっさりと言い、三人を見た。

「懐かしいなあ」父親は言い、どこで見つけたんだ、と桃佳に問う。

「ママの昔の携帯にあったの。」桃佳は顔の横で、折り畳み式の携帯をひらひらとした。パソコンに繋いで、画質もよくしたの。と、平然と言った。誰にでもできるでしょとでも言いたげな表情だった。

「姉さん、ありがとう」三人は頭を下げ、自分たちが考えていたことが恥ずかしくなり、笑った。

「まあ、別にいいんだけどさ。あんたたち、成長した姿、見せなさいよ」

 桃佳は三人を試すように、意地悪に笑い、目を輝かせた。

「何かたくらんでるときの桃佳は、茉由さんにそっくりだなあ」

 父親は呟き、目を細めた。頬には涙が伝い、それを隠すように、笑っていた。


 部屋の壁はオレンジ色に染まっている。二人が窓を開けると、緩い風がカーテンを揺らした。

「高校最後の夏休み、俺は勉強ばかりだったよ」明平はなぜか、自供するように言った。小さく息を吐いて、外を見た。

「お前は、結構いつでも勉強してた。」彩瀬は、明平のシャープペンシルがノートの上を走る音を思い出す。スケート選手が氷上を自由に滑るように、滑らかな曲線を描いている。

「まあ、あの頃があったから、今がある。」

「そうだな」

 当たり前のことだが、今の自分は過去の自分が作っている。過去は今につながり、今はこれからに繋がる。

「でも、勉強一色の俺に、光がさした。」

「それは、よかったよ」

 彩瀬と明平は、勉強一色のキャンバスを思い浮かべる。イメージとしては、暗く、陽の目に出ない陰湿な雰囲気がある。


🎷

 桃佳からの言葉を、三人は頭の中で考えていた。

「成長した姿を見せなさいよ」

 命令口調で言われた三人は、反射的に頷く。

「成長した姿って、なんだよ」天馬は口と手を動かし、眉をひそめた。

「さあ。あの動画からは、成長したよな?」虹矢は自分の姿を見、二人に確かめる。

「よし、ライブしよう」彩瀬はしっかりとした口調で言う。

 決まりだ、と言いたげにジミーは吠え、尻尾を振った。

「あそこのピアノ使えばいいのよ」桃佳があそこと言ったのは、駅のストリートピアノだ。

「勝手に?」

「勝手に弾いていいピアノなんだから。楽器もって、ちゃちゃっと。三人で」簡単に言う桃佳を、三人は目を丸くして見た。

「不安もあるだろうけど、やって来いよ」父親も三人の肩を押した。

 さっきの力強い言葉をだした彩瀬も、二人の勧めには尻込みしたが、それでも後ろには引かない気持ちを保っていた。

「いつやる?」いや、いつできる。彩瀬は尋ねる。

「それは、いつでも。夏休みだし」

「それもそうだな」

「じゃあ、来週の今日ってどうだ」父親は提案し、三人はそれに乗った。俺も見に行きたいからと、目を輝かせている。

「じゃあ、来週の今日で」

 三人はそのまま、それぞれの楽器を触り始めた。

 楽器に触れた瞬間、脳の中にはさっきの動画の記憶が溢れ、心が幸福で満たされる。

「いい音色だね」茉由のその言葉を反芻し、三人は、音にも色があることに気が付いた。世界は色であふれていて、彩瀬には見えなくても、聞くことで色を感じることができた。

 宵も深まり、空の白い月が、半分欠けて出ていた。夏の蒸し暑さには拍車がかかっており、秋はまだ、遠くにいることを知った。


 それから一週間はすぐに過ぎ、三人は昼前に出かけた。時間はあっという間に流れた。楽器に触れ、ジミーの散歩に行き、学校の課題を片付ける。

 そうして日々を過ごし、日が経つにつれ、緊張は高まっていた。自分たちの演奏を家族以外に見せるのは初めてで、何をどうしたらよいかも、正解が何かもわからなかった。

 まず、見てくれるかも不安だ。道ですれ違う人は目をそらし、少し過ぎてから振り返る。正面から向き合う人は、ほとんどいない。 

 駅に向かうため、バスに乗り込む。最寄りのバス停から駅は終点で、三人は後ろから二番目の席に座った。彩瀬と天馬が座り、虹矢はその横に立つ。

「ほら」天馬は虹矢に声をかけ、手を出す。楽器を持っていない天馬は、虹矢の楽器を受け取り、膝の上に置く。

 バスは一つ一つ、いくつかのバス停を通り過ぎながら、進んでいく。まるで誰かがサイコロを振り、出たマス目に従って、進んでいるようだった。

 何個目かに停車したバス停で、一人の女性が乗ってきた。バスにはすでに乗客が詰まっており、女性が見渡しても座れる場所がない。

 女性と言っても、年齢はいっている方で、世界に目を向けるというよりは、自分の近所の噂や愚痴に敏感なタイプで、プライドも高そうだった。その中年の女性は、ヒールが高めの履物を、かつかつと鳴らして、三人が横並びになっている、一つ前に立った。

「発車しまーす。ご注意ください」運転手が事務的に言い、バスは動き出す。中年女性は足元が揺れたことにより、よろよろとして、支えの棒につかまった。不細工なリズムで、ヒールが音をならした。

「大丈夫ですか?」彩瀬は後ろから声をかけた。中年女性が振り返る。良かったら、座ってください。と立ち上がった。

 バスの外を街が走っていた。彩瀬は席を空け、そこに促す。中年女性は、三人をうやうやしく見て、席に重く腰掛けた。天馬はぎょっとして、隣を見る。

「あなた、席を譲るのはいいけど、人と話すときはそれ、外したら?」中年女性は、彩瀬の顔を指さす。

 彩瀬は外出するとき、必ずサングラスをかけていた。学校でもそうだ。

「外してもいいですけど、みんな怖がるから」彩瀬は自嘲気味に言い、頬を吊り上げる。

 中年女性は、馬鹿にされていると思ったのか、少し顔を赤くして、言った。

「外しなさいよ」周りの視線のことなどお構いなしで言う。この中年女性は、彩瀬より見えていない。

「いいですよ」

 彩瀬は冷静に言い、サングラスを外す。

 中年女性は目を見開き、自分を恥じるように、目をそらす。彩瀬の目は、黒目がちだが、焦点は合っておらず、左右違う方向に目線が向いている。

「早く、それ掛けなさい」中年女性は手を慌てて振り、行動を急かす。

「何があった?」天馬は隣で、両手を動かして聞く。

「彩兄がこの人に席を譲ったんだ。そうしたら、サングラスを外せって。」虹矢も手話で答える。

「兄貴、なんで譲ったりするんだよ」天馬は彩瀬を見て、続けた。

「              」

 天馬が手を動かすと、虹矢は笑顔になる。天馬も声を出して笑う。

「なんだ、どうした」彩瀬は何があったのか、気にする。

「何、笑ってるのよ」中年女性も、気にした。

 虹矢が間に入り、二人の会話を繋ぐ。

「聞かない方が、良いと思うけど」天馬は言う。中年女性を気の毒そうに見た。

「言いなさいよ」中年女性が催促する。落ち着きがなく、せかせかしたおばさんだった。

「兄貴、なんで席を譲るんだって、言っただけだよ」

「それだけ?」

「なんだよ、ぴちぴちのギャルがよかったよ、それも言ったかも」天馬は窓の外を見ながら言い、彩瀬はそれを聞いて、声を出して笑った。


 それから中年女性は無言になり、口をつぐんで、不機嫌さを醸し出していた。居心地が悪そうにしながらも、それを隠そうとしない辺りに、図太い神経が感じられた。

 バスは終点の駅に着き、そそくさと中年女性は降りていく。三人も降車し、太陽の日差しの下に出る。

「あ、これから、やるんだ」

 ふと三人は気が付き、手には汗が滲んできた。心臓は大きく跳ねはじめ、呼吸が荒くなってくる。

 駅構内に入り、一度、ストリートピアノの前を通り過ぎてみる。誰も弾いてはいなかったが、その存在は確かにあった。黒く大きな箱が、口をこちらに開いて、何かを叫ぼうとしているようにも見えた。

 人通りはそれなりに多く、様々な人たちが行き違い、波打っているようだった。三人もその波に入り、まずはそのまま通り過ぎた。デパートの入り口辺りで振り返る。クーラーが効いた店内は心地よく、背中にかいた汗が、じんわり冷えていく。

「じゃあ、やろうか」彩瀬は平静を装って言ったが、声はかすれていた。

 三人は元の道を戻り、人の波に漂流し、そこから外れ、ピアノの島に行きついた。黒い諸島は綺麗で艶めいていて、上品なたたずまいでいた。

 天馬は我慢ができない様子で、ピアノと向き合った。カバーをあげると、つやつやした鍵盤が顔を出した。グランドピアノを触る機会はほとんどなく、天馬は見るからに興奮していた。

 楽器を出す他の二人を急かすように、鍵盤を押す。その音で何人かの通行人はこちらを見たが、すぐに前を向いて、歩いて行った。

 天馬は止まらない。手元に小動物を飼っているように、忙しなく、それでも正確に指が動いていた。大きく開けた口から、駅構内に、世界に、音が広がっていく。

 彩瀬は天馬の音を聴き、微笑む。夢中で、それでも心が静かで、洗練されている。彩瀬は口に金の管を咥え、音を放つ。虹矢も、エレキのギターを持ち、アンプから鋭い音を出した。

 通行人は、眉をひそめて、音のする方を見る。楽器を操る三人。それぞれが自由に弾いているようでいて、統一された音。お互いがお互いを思い、通じている音だった。

 天馬は、指を動かしながら、周りを見た。虹矢のギターと、彩瀬のトランペット。その動きを見て、タイミングを計り、声を合わせる。

 天馬が、歌い始めた。彩瀬と虹矢は、楽器を操りながらも、歌声に聴きいる。ビートルズの楽曲を歌う天馬は、英語の発音がよく、自分でこの声を聴けないと思うと、二人にはとても惜しく感じられた。

 虹矢は、弦の上で指を躍らせ、前を見た。

 そこには、大勢の顔があった。全然知らない人の顔。名前も、性格も、その人がどう生きてきたかも。そんな人たちが、こちらに顔を向けていた。真正面からこっちを見て、誰もが困惑したような、それでも目を輝かせ、口を半端に開いて、こちらを見ていた。

 いろんな色がある。そこにいる人が着ている服たちの色。こちらを見る顔色。その場を満たす、音色。今この瞬間、三人の周りにはたくさんの色彩が溢れていた。

 左の奥の方に、こちらをカメラに収める女の人がいる。桃佳だ。一番前の列の右のほうに、目を輝かせて笑いかける顔がある。父親だ。母親の遺影を持って、二人でこちらを見ている。左から歩いてきて、開いた口がふさがらないのは、大森だ。この間一緒にいた女子と、お揃いの顔をして立っていた。そして、人混みの真ん中。こちらに手を振り、歯を見せている、明平がいる。

 三人の演奏は、だんだんと加速していく。彩瀬はおもむろに、他の金管楽器も取り出し、口に同時に咥えた。一度に三本の楽器を器用に吹いて見せる。

 観衆は息をのみ、楽しそうに楽器と触れ合う三人を、いつまでも見続けた。


 演奏は、それから何分か続き、三人は楽器を置いた。狭い通路に、はち切れんばかりの拍手の音が響く。

「俺らの、勝ちだ」天馬が、小さく呟く。いや、小さかったんじゃなく、周りの音が大きかったのかもしれない。

「なに?」彩瀬は聞き返す。

 天馬は、虹矢にもわかるように、手話と同時に、言った。

「道を行く人は、俺らを避けて、見ないようにすれ違ってたでしょ。そんな人の足を止めて、正面から、こんなにまじまじと見させるなんて、これは、俺らの勝ちだよ」

 三人は肩を組み、お辞儀をした。

 ぞろぞろと解散していく人の中に、かつかつとなる、不細工なヒールの音があったのを、彩瀬は聞き逃さなかった。

 これは、勝ちなのかもしれない。彩瀬は心でそう思う。なにかと戦っていたわけでも、勝敗を争っていたわけでもないけれど、それでも、これは勝ちなんだ。

 彩瀬は小さくガッツポーズをし、三人は顔をあげた。


「最高なライブだった。あの頃は、音楽はあまり聴かなくて、知らなかったけど、良いってことはわかった」

 明平は、三人が演奏している光景を思い浮かべているのか、遠くに視線をやった。目を細めて、かすかに微笑んでいる。

 空は暗くなっていた。太陽はほぼほぼ隠れ、部屋の中がだいぶ暗くなっていた。明平は立ち上がり、壁にあるスイッチを押した。

 蛍光灯の無機質な灯りが、部屋に広がる。

「今でも、ちゃんと思い出せるよ。あの日、聴いた演奏だとか、周りの人の顔とか」

「それは、良いな。俺も目の前の人の顔が、見たかった」

「みんな、驚いてた。なんだ、あの三人はって。友達なんだって自慢したいくらいだった」

 明平の記憶の中に、このライブが鮮やかに残っていた。日常で、時折鮮明に思い起こされる、フラッシュバックのような場面の一つになっていた。

 そういう記憶を思い出し、心が軽くなって、暖かくなる。そんな一場面だ。

「そろそろ、山登りか?」

 明平は言う。二人の、高校での記憶の旅は、終盤に差し掛かってきた。

 山登りというのは、二人が通っていた高校の最後の行事である、富士登山祭りのことである。


🎷

 夏休みが終わり、登校日がやってきた。教室に入ると、風に吹かれた水面のような空気が、教室全体を漂っていた。落ち着かず、それぞれが個々に揺れ、止まることがない。

「久しぶり、焼けたね、元気だった?」

 様々な声が教室内を飛び交う。

 富士登山祭りは、夏休み終わり、一日登校して、そこから三日間の休みに入り、その間に行われる。

「富士山、明日だね」

 どこかで、日本一の山の話をしている生徒がいる。

 始業式や、いくつかの授業を今日はやり、その後に放課後となる。富士登山に参加する生徒は、そのまま残り、明日からの注意事項などを確認する集会に参加する。

 一同は、会話が止まらないまま、体育館へと流れ込んだ。

 体育館の中は一段と気温が高く、息をするのもためらってしまうような空気だった。窓から、太陽の光が惜しげもなく入ってくる。

「どうして始業式とかって、みんな集めるんだろうな。別に、放送とかでもよくない?」天馬が、そこそこに大きい声で嘆く。舌を出し、息をはあはあとさせる様子は、ジミーとあまり変わらない。

「みんなの顔でも見たいんじゃないか。よく先生言うだろ、元気な顔で会いましょうって」

「だけどさあ、顔、見てるとも思えないんだよなあ」

 天馬は頭の後ろで手を組み、気だるそうに周りを見渡した。

 教員の列から、教頭が抜け出し、マイクに声を出す。始業式が始まり、同時に高校三年の二学期の始まりだった。

「では、校長先生、お願いします。」

 教頭は物腰柔らかく、校長に登壇を促した。よっこいしょ、そう言いながら、校長はステージに上がり、話し始める。

「皆さん、二学期が始まったよ。」校長は、まぎれもない事実を、まず話す。

「なんだか例年に比べて、今年は浮足立っている様子だね。」校長はこちらを広く見渡し、ほのかに笑った。頬に刻まれたしわが姿を見せ、優しい笑顔になる。

「一、二年生と、三年の不参加の人は、明日から休みだからねえ、それはそうなるよね」

 なんとなく緩んだ空気が、体育館に充満している。頬にまとわりつくような熱気と相まって、全員の意識が形ないものとなり、ゆらゆらと浮かんでいるようだった。

「ただし、明日からの勝負に参加するものは、この空気に呑まれてはいけないよ」

 校長は、にっと口を横開きし、いたずらな笑顔を見せる。笑顔は見せたが、目は真剣そのもので、こちらを射貫くような視線が飛んでくる。

 一瞬、空気が締まり、行き場もなく浮遊していた埃が、すっと地面に落ちていくような、そんな空気になったのを、彩瀬は感じ取った。

 それでも、富士登山なんてどこ吹く風、行かない生徒が大半のこの体育館には、緩んだ空気がすぐに舞い戻ってきた。偉そうに、胡坐をかくように、体育館の天井近くにいる。

 校長は、続ける。

「明日からは、それぞれに勝負をしてほしい。人生は、勝負事の連続だ。ある者は、友とのテレビゲームでの勝敗。ある者は、どれだけ布団の中にいられるかの勝敗。そしてある者は、日本一の山に、登頂する勝敗。」

 校長は真面目に言い、胸ポケットから眼鏡を出す。それをかけ、一枚の紙に目を落とした。

「それでは、明日から富士登山に挑戦する人を、発表するよ。」

 毎年、二学期の始業式で、富士登山祭りに参加する人の名前が呼ばれる。明日からの休みにテンションが上がった人や、その場のノリに流される人が少なからずいて、挑戦者を応援する。

「一組、江島 清孝。」校長が、一組の生徒から順に呼んでいく。「江島さーん。よっ、江島さん」一番目に呼ばれた、江島さんのことを煽る声がする中、どんどん呼ばれていく。

「三組、明平 朝陽。大森 南。清水 彩瀬、清水 天馬、清水 虹矢。」

 校長が、三人を連続して呼んだのが、彩瀬には嬉しかった。他の二人も、きっとそうだろう。

 それから数十人呼ばれ、体育館全体から声援ともやじともつかない言葉を投げかけられた。雨のように言葉が降り注ぎ、傘をさしてもそれは防げないものだった。

「それでは、明日からの勝負、頑張ろう。」校長は穏やかに言った。さっきの言葉たちが投げられたものなら、こっちはそっと、風に乗せて飛ばす紙飛行機のように、心が込められたものだった。


 始業式は終わり、生徒はぞろぞろと教室に帰っていく。

 富士山に挑戦しない人は、今すぐにでも帰りたいところだろうが、これから二コマ授業があった。

 国語の授業は難なく終わり、次は数学だった。教室に入ってきた数学教師は、雰囲気が少し変わっていた。夏のバカンスを楽しんだのか、肌の色は焼け、一学期よりも健康的な印象になっていた。

「明日からの富士登山、行く人は頑張ってください」入ってくるなり、数学教師は言う。眼鏡の蔓を触る癖はそのままだが、話すスピードがゆっくりになった気がした。忙しない印象から、落ち着いた、地に足がついた余裕が見て取れる。

 これには虹矢が反応を見せた。

 先生、心を入れ替えて、大人になったのかな、と上から目線で評価した。

 虹矢は油断し、ふうっと息を吐いたが、その油断はすぐに打ち消された。腕に衝撃が走ったのだ。前の席の天馬が、虹矢の手首近いところをつねった。天馬を見ると、親指で、彩瀬をさしている。

 彩瀬から、回ってきたのだ。

 三人の中で、つねるのは危険が迫っているとき。

 危険?本当に?

 疑問はあるが、彩瀬の感じ取ったことなら、信じることができた。

 びりびりとなる腕をさすっていると、上から声が落ちてきた。

「虹矢君。これ、解いてくださいます?」

 声が落ちてきたと思ったのは、虹矢が首を下げていたからで、顔をあげると、数学教師がまっすぐにこちらを見ていた。

 眼鏡の奥の細い目が、さらに細く絞られ、こっちを凝視している。

「これは言ってしまえば、テストです。あなたが、夏休みにさぼっていなかったかをチェックするための。お分かり?」

 数学教師はこちらを見下ろしてくる。虹矢は目を合わせず、黒板の数式に目を向けた。

 さっぱりわからない。

 これが、虹矢の胸に浮かんだ唯一の言葉だ。黒板の数字が何かの暗号にも見えてきて、頭が混乱した。彩瀬が事前に危険を教えてくれたけれど、これにはお手上げだ。

「あと三十秒待ちます。解けないのならば、明日から補修します。」

 数学教師はにんまりと微笑み、腕時計を見た。腕を曲げたときに、半袖の下から二の腕がこちらを覗いた。日焼けした部分とそうじゃない部分がくっきりと分かれ、二層構造のプリンが思い浮かんだ。

 数学教師は時計から目を離さない。虹矢はどうしたものかと逡巡しながら、何もできずにいた。明日からの補修はともかく、富士登山に前の二人といけないという事実は、考えたこともなかった。三人での目標はこの富士登山にあり、ここで二年間待ち続けたことだった。

 脳みそはいつも以上に回らず、問題解決の糸口も見つからない。脳みそが回ったところで解けるのかも疑問だなあ、と人ごとのように思っていると、横から机に何か滑り込んできた。

 見ると、ノートで、数式がずらりと並んでいる。

 隣には、こっちを見て神妙に頷く明平の顔があった。こいつ、かっこいいなあと、関係ないことも浮かんだ。

 そこからは早かった。虹矢はすっと立ち上がり、ノート片手に黒板へと向かう。天馬と彩瀬の横を通り過ぎる時に、肩を優しく握った。

 黒板にすらすらと問題の答えを書いていく虹矢の姿を、数学教師は何も言わずに見ていた。

 虹矢が解き終わって席に戻ると、数学教師は「解けるのね」と小さく言い、丸もつけずに消し始めた。黒板の上に、白く伸びたチョークの跡が、空に浮かぶ雲のように見えた。

 ノートに目を落とす。感じの良さがにじみ出ている字で、これのポイントは二重構造だ、と書かれていた。

 虹矢は目を丸くし、自分の勘も侮れないな、とうぬぼれた。


 その日の授業は終わり、富士登山祭りの参加者は、再び体育館に集まった。全校生徒で入るときに比べて、一人一人のスペースが広く、風がよく通っていた。

 蝉は、外の木に引っ付き、まだ鳴いている。

「いやー、まだまだ夏だねえ」

 校長は、手で自分の顔辺りを仰ぎながら、入ってきた。後ろには数人の教員たちが続く。

「さて、早速明日の話をしようか」校長はマイクのスイッチを入れるなり、声を出した。数十人が、肩をぴくっと反応させる。

「まずは、楽しもう。この中で、富士山に登ったことがある人はいるかい?」

 数人の手が挙がる。

「いつもより多いね。これは期待だ。助けあって、頂上を目指すことが重要だよ。これから先重要になるのは、人と人とのかかわりだ。」

 彩瀬の頭には天馬と虹矢が思い浮かび、その後に明平が浮かんだ。

「どうか、誰かを助ける強い人であってほしいし、助けられることを受け入れられる人であってほしい。差し伸べられた手を、邪険に扱わずに、ありがたく受け入れられる、そんな人に。」

 手を差し伸べることは勇気が必要だが、それと同じように、その手を握ることも勇気が必要だ。

 校長は僅かに笑みを浮かべ、全体を見渡す。

「では、明日からの富士登山祭りを楽しもう。」

 校長はそれから、事務的な連絡を述べ、一人でこの集会を終わらせた。

「なんでこの行事って、富士登山祭りなんだ?祭りって、なんだよ」

 教室に戻る途中、そう呟いたのは虹矢だ。

「俺も、祭りはないよって思ってた。」天馬が続く。

「祭りって付けとけば、楽しそうになるからじゃないか?」

 彩瀬も言い、三人は会話をする。虹矢は手を動かし、天馬がそれを声で彩瀬に伝え、彩瀬は手話を使い、二人に話す。

 三人の会話は、やり取りが多いながらも滑らかに成立していた。


 次の日は、日が昇り始めたころに起床した。残暑の早朝は、少しひんやりするものの、太陽の陽が暖かく、ちょうどよい気候だった。

 出発まではまだ時間があり、それぞれが高揚か緊張かで起きてしまった。三人は素早く、二度寝することを決めて、また布団に背をつける。

 次に目が覚めたときには、準備するのに最適な時間だった。

 今日は、父親が車で学校まで送ってくれる。同じ高校を卒業した父親は、もちろんこの行事も参加済みで、張り切って送迎をした。ハンドルさばきは軽快で、通勤する車ばかりの道路を、颯爽と走った。

「じゃあ、行って来い。無理はするなよ」

 学校の駐車場に着き、父親に見送られ、三人は集合場所である昇降口前に向かう。

 気温と共に、太陽がじりじりと上がってくる。雲はちらほらとあって、澄んだ青の空が、両腕で抱えきれないほどに広がっていた。

「おはよう。三人とも来たかー」

 武藤は、重装備で立っている。リュックは背中を覆うほど大きく、派手な赤色のジャンパーを着て、顎にかかるまでファスナーをあげていた。

「そりゃあ、来ますよ。」彩瀬が返す。

「三人は、これ。いい色だろ。」武藤は、三着、登山用のジャンパーを渡してくる。

「派手だなあ」

「派手なのか?」

「     」

 三人はそれぞれに受け取り、言う。ちなみに虹矢は、「悪くないね」と手で言った。

「いいだろう。三原色だ。」

「ほお、三原色」彩瀬は呟いたが、見えてはいない。

「三原色ってのは、それぞれ混ぜ合わせると、どんな色でも表せるってやつだ。色のもとだよ。」

「それは知ってるけどさ。先生これ、色の三原色だよね」天馬が、声を出す。武藤が言った内容は、彩瀬が手話で天馬に伝えた。

「色の三原色?三原色は三原色じゃないのか。」武藤は、知らないらしい。

「三原色はさ、色と光があって。色の方は全部混ぜると黒になるけど、光の方は白になるんだよね」

 武藤はわかりやすく口を開け、目を見開いて驚いた。

「合わせるなら、白のほうがいいか。」すまない、と武藤は続けた。

「ってわけでもないんだけどさ。」彩瀬が笑いながら言った。「俺達はどちらかというと、黒いい人生だったから、悪くないと思った。」

 混ぜ合わせれば、どんな色でも作れるというのは、悪くないどころか、良い話に思える。三人で、どんな色でも作って、キャンバスに描ける。そういう意味に感じ、三人は微笑む。

 受け取ったジャンパーに、袖を通す。年季の入った服だが、着心地は悪くない。

「なんだか、歴史を感じる香りがするよ」

 彩瀬は呟く。綺麗に洗われているのはわかるが、それでも少しはカビやほこりを感じてしまう。

 登山に着ていく上着や、リュックは学校から貸し出されたものだった。歴代の先輩たちがこのジャンパーを着て、背中に同じリュックを背負ってきたのだ。使用感はあるものの、どれもいい味を出しており、嫌悪感はない。この行事の歴史を感じられる良い一面だった。

「忘れ物はないかー?」武藤は、誰に言うでもなく、呼びかけた。それぞれがその言葉に反応し、リュックを開け、中身を確認している。

 三人のリュックの中身は、父親が準備をした。一リットルペットボトルから始まり、タオル、行動食である簡単な食料、ライト、そしてポリ袋。

「これは何の役に立つのか。」天馬はリュックの中から文庫本を出し、掲げた。

 父親が、これだけは持って行けと、念押ししたものだった。

「ほお、文庫本か。誰の本だ?」彩瀬は天馬からそれを受け取り、手で触って、呟いた。

「恩田陸って人の、夜のピクニック」

「どんな内容?」

「高校生が、夜通し歩き続けるんだよ」

 彩瀬はそれを聞き、あながち遠くない内容だと感じた。

 これから始まる富士登山の予定は、バスで三時間ほど揺られ、富士山の五合目に着く。そこで昼食を食べ、いざ出陣。一時過ぎから登り始め、四時ころには山小屋に着く。そこで夕食や睡眠をとり、起きるのは深夜一時。そこから山頂を目指して昇り、ご来光を見るという流れだった。

 夜通し歩くわけではないが、どこか共通点を感じる内容でもあった。

 みんなの会話もそこそこに、校長が全員を集めた。一言二言話し、バスに乗り込む。ちなみに、この行事には毎年校長も参加しているらしかった。


 バスが動き出す。窓からは日差しが煌々と照ってくるが、虹矢はカーテンを閉めずにいた。窓外に見える海岸が美しかったからだ。光が砂浜と海の境界線に反射し、海岸線を鮮やかに縁どっている。

 バスの中は、走り始めたときこそ、あちこちから会話が聞こえてきたが、数十分も経つとそれも無くなっていた。適度な揺れとカーテンを越えてくる日差しの程よい温度で、眠気が増幅され、ほとんどの瞼が落ちている。

 それでも虹矢は外の景色から目を離さず、天馬は文庫本を開き、彩瀬はイヤホンを耳に、音楽を楽しんでいた。

 武藤は時折、最前列の席から後ろを振り返り、生徒たちの様子を確認している。何をもってそうするかはわからないが、満足そうにゆっくり頷くと、また前を向き直す。それを繰り返していた。

 一度目の休憩で寄ったサービスエリアは、広い駐車場があり、お土産類を置く店が充実していた。再び出発してからは、寝息を立てるものもいなくなり、期待と不安が入り混じった空気がバス内を占めた。

 走り出して一時間、あと三十分ほどで到着というところまで来た時、武藤が車内アナウンスを始めた。武藤の声が、いつもより重く、慎みのある雰囲気なのを、彩瀬は敏感に察した。

「皆さん、あと三十分くらいで、富士山五合目です。校長先生から、お話をいただきます。」

 校長がマイクを受け取る。何か大事なことは、校長が話す決まりなのだろう。

「いよいよだよ。準備はいいかな。あっちに着いたら、まずははぐれないように。仲間の存在がカギだよ。手を取り合い、助け合える仲間から離れないで。そうしたら、君たちはここで大事なものを手に入れられる」

 校長の言葉はいつも、その場の空気をまとめる。緩んでいた靴ひもを結ぶように、医師が手術前に手袋をはめるように、これからが本番だということを知らせてくれる。

 バスは五合目に着いた。降りると、商業施設のような、木造の建物が連なっている。そこに食事処が入っており、大勢の人でにぎわっていた。

 気温は低く、バスの中の熱気を感じていたせいか、身震いがするほど寒さを感じた。

 昼食は、温かいうどんを食べた。天馬は入念に息を吹きかけ、うどんを冷まし、虹矢は勢いよくすする。彩瀬は美しく、流れるように箸を動かした。

 それを見た明平や、大森が目新しい反応を見せるが、彩瀬には慣れっこだった。目が見えないからと言っても、食事は目が見えない期間と同じくらいしているわけで、すでに不自由なくできる。

 昼食を終えた後は食休みを少しとり、いよいよ登山開始だった。


盛大な見送りも、スタートを知らせる立派な門もなく、いつの間にか登山はスタートした。彩瀬は、生まれてきたことと同じだな、と思った。

 自分の人生はいつの間にか始まっており、人と人とが比べあう世界に放り込まれる。ましてや、彩瀬たち三兄弟は、そこにハンデも加えられて、スタートした。

 道は、砂利や細かい砂で覆われていた。靴は、軽量のトレッキングシューズを履いているので、まだ登るのにきつくはない。

 顔にふわりと、冷たい空気が触れる。湿った、顔に張り付くような風だ。

 周りでは、話し声が多く聞こえた。まだ始まって数百メートル。みんなの体力はフルに近く、声を発する余裕がある。靴底が砂利と擦れ合う音も、一定のリズムを刻んだ。

 彩瀬は、両脇から中央に向かって生い茂る木々の、葉と葉が擦れ合う音に、耳を澄ました。森が、判別できない何かを囁いている。ひそひそ声で話すそれは、なんだかとても重要なことに思え、世界の秘密を語り合っているようにも聞こえた。

「彩兄、手冷たいな」

 虹矢は後ろを振り返り、片手で言った。

 普段の生活と変わらず、三人は手をつないで歩いていた。三人の中での危機管理はできるものの、躓いたりしたときに咄嗟の対応をできないのが、欠点だった。それでも三人は手を離さない。お互いがお互いを信じていて、それを共有している証が、繋がれた手と手だからだ。

「学校はあんなに暑かったのに、ここはこんなに寒いなんて、不思議だな」

 天馬は素朴な疑問を呟く。

「確かに、太陽に近づいてるのに」

「太陽が近くても、太陽の光が当たるところが少なければ、温度は上がらないんだよ」明平は淡々と言い、前を見据えて歩く。

「この、物知り野郎め」天馬は吐き捨て、眉間にしわを寄せる。文武両道、頭脳明晰。明平のそういうところに嫉妬しているのだろう。

 右はコンクリートの壁、左はたくさんの木が生えているがけのような場所を歩く。前や後ろに、廊下ですれ違ったり、昇降口で見かけたりする顔がいて、今は同じ場所を目指して歩いている。

 そのほかにも登山者は大勢居て、追い抜かれたり追い抜いたりをする。ここにいる全員が、同じ場所を目指していると思うと、不思議と力が湧いてきて、身体のうちに秘められた、これまでは反応してこなかったところが、動き始めた気分だった。

 まだまだ平坦な道を、三原色は歩いていく。頬に当たる風は冷たく、少しずつ体温をさらっていく。

 気が付けば、左の視界が晴れていた。山肌に沿うようにうねった道を曲がり、少し進んだあたりからだった。

 目線と同じ高さに、薄い灰色の雲がある。天馬と虹矢はここにきて、自分たちはいつもいるところよりも、高い位置にいるということを知った。彩瀬は左側からの風が急に乱暴になったのを察し、開けた場所に出たということを理解した。

「吸う空気が、気持ちいいな。」

 歩きながら、彩瀬は言う。鼻と口から大きく息を吸った。他の二人も真似をして、息を吸う。

 息を吸って、吐く。空気が肺に入り、その代わりに元々身体にあった空気が、外に出ていく。身体に新鮮な空気が入り、不思議と心が落ち着いていく。

自分たちは今、富士山に登っている。高校生活も、あと少しで終わる。高校生活最後の行事が、もう始まった。

 三人は当然のことを胸に浮かべ、それを再確認する。当然のことだが、当然のことだからこそ、それに気が付けないこともある。

 三人は進み、他の生徒も進む。

 足元が石畳の道に代わり、先を見据えると分かれ道がある。泉ヶ滝分岐点だ。富士山山頂と書かれた看板がさす坂道へと、列は入っていく。


 道にはみ出た太い木の間を抜けると、視界はまた開ける。変な方向に伸びた木は、孫悟空の乗る筋斗雲のようにふわりと曲がっており、できれば乗せて欲しいくらいだ。

 澄んだ空気が頬を撫でて、靴が砂利を踏みしめる音が鳴る。疲労は少したまっているが、それでもへたり込むほどではないので、筋斗雲型の木を横目に、通り過ぎる。

 木のトンネルに入り、幹と幹の狭い間を抜ける。

「ゲームの主人公の気分だ」天馬は、ちょうど木の間を抜けたときに言った。

「冒険してる気分か?」虹矢は手を動かして返す。

 三人は、緩やかな傾斜を歩く。天馬は自分を、ゲームの主人公と重ね合わせ、冒険を楽しんだ。

 道に、大きな石が埋まっている箇所が多くなった。左には転落防止のロープが張られ、蛇の体のようなカーブが続く。三人は、注意して道を進んだ。石畳の道になり、覆いかぶさるように生える木の間から、陽光が降り注いでいた。

 周りの生徒が、心なしかほっと息を吐き、心の警戒を緩めるのを、彩瀬は感じた。足音や声の響きが変わり、コンクリートのトンネルを抜ける。

 変わらずに、歩き続けた。道は狭くなったり、砂利になったり、石畳が敷き詰められていたり。

「ああ、着いた。」天馬がそっと呟いたのが、聞こえた。それからは無言で、下を向き、大きくそびえたつ山を見上げ、歩いていた。

「六合目か?」人々の統一されないざわめきが、耳に入ってくる。公衆トイレに並ぶ人や、ドアの開閉音。素早く駆けていく、元気な風。

 それぞれに腰を下ろし、ため息を吐く。まだまだ長い道のりが残されていることに愕然としながらも、目の前の景色を見て、ハッとするように目を見張る。

 手すりの向こうに見える、目線の高さの山脈。薄く靄がかかり、一つの風景画のような、遠い景色。雲は空を軽く浮遊し、溜まった疲れを忘れさせる。

 三人で並んで腰かけている隣に、明平が来た。並んで腰かけ、一息吐く。

「疲れたか?」明平が聞き、三人は無言で頷く。

 肩と首のコリが顕著に出ていた。普段背負わない重さのリュックを、長時間持ち続けていることもあるし、慣れない道を歩くにも、不自然に肩に力が入る。

「明平は、まだ余裕?」彩瀬が聞き返す。

「少し疲れた。まだまだあると思うと、頑張らなきゃって思うけど」

 会話が続かない。始まった直後からの興奮と緊張が消え、シンプルな疲労を感じずにはいられなくなっている。標高との関係で酸素も薄く感じ、丁寧な呼吸を心掛ける。

「でも、いけるさ。登るために来たんだから」彩瀬は明るい声で、虹矢と天馬の肩に手を回す。

 登りきる。人生の一ページに、富士山山頂に立ったという事実を。

 三人はその思いで、立ち上がる。休憩の甲斐もあり、足はそれほど重く感じなかった。

「俺はいつでも助けるから。言ってくれよ」明平も立ち上がりながら、言った。

「頼もしい奴だ。」

「出発だー」武藤が声をかけ、次の段階へと歩き出す。


 乾いた喉も休憩で潤し、呼吸を整えて歩き出す。

 幅の広い階段状の道を上がっていく。右へ左へと振られながら、着々と進む。転がる石はごつごつとして、重たそうだった。

 体が斜面に合わせて斜めになり、バランスをとるのが難しい。雲が視界のまっすぐにあり、身体を前のめりにして歩く。

 数十分歩くと、道の雰囲気が変わった。稲妻を描くように、一定の距離を進んだら曲がり、また進んだら逆に曲がる。そんな道だった。下から見ると、天に昇る龍のようで、龍のせなかを 駆け上がる気持ちで、昇っていった。

「ああ、果てしない」

 彩瀬の横で、息のような声が出た。見てはいけないと思いつつ、長く続く龍の背中を見上げてしまい、ため息とともに出したような声だった。

「大森、元気なさそうだね」彩瀬は、足元を気にしつつ、声を出した。虹矢と天馬は前と後ろにいて、変わらず手を繋いでいる。

「ここで元気があるのは、あいつくらいだろ」

 大森は少し前を見据えて言うが、彩瀬には見えていない。それに気づき「あ、あいつって、歩のことな。」と付け加えた。

 歩という生徒は、父が登山家であり、山に登ることが得意であり、好きである生徒だ。

「得意なことを見せられる機会なんて、そうそうないからね」

「誰もあいつのことなんて見てないんだよ」大森はぶっきらぼうな上に、雑な言い方を重ねて言う。

 彩瀬はそのわずかに込められた素っ気ない響きを読み取り、大森の元気がない理由は、疲れだけではないということを悟った。

「恋人と別れたとか?」

 彩瀬は、ためらうこともなく聞いた。その辺はためらいなく突っ込むのが、この状況では得策であり、効果があると思われた。

「いいや。」大森は素早く否定した。別れていないとなると、今付き合っている彼女とは結構な期間付き合っているということになる。「どちらかというと、その逆なんだけどよ」

「逆?」別れることの逆っていうのは。

「うんー、いや、なんだかな」

 大森は歯切れが悪くなり、喉元にある言葉を出していいものかと悩んでいる。

「まあ、話したくなったら言ってよ」そんなに悩んでいることを、無理やりに話させる必要もないと思い、そう声をかける。

 大森は、なんだかなあ、と一人で言いながら、彩瀬たちを追い抜いて行った。

「大森にしては、別れてないってすごくねえか?」後ろの天馬が言う。彩瀬が今の話を手話で伝えたのだ。

「確かに。噂がたったころから数えると、怖いくらい長い。」まるで、この龍の背中みたいに。

「本気なのかね」

 この歳で、本気になれる相手を見つけられたんなら、それはきっとすごいことなのだろう。彩瀬は漠然と思い、大森の声を思い返す。

 素っ気なさと、何か切実さが込められた声。その声は周囲の風に溶け込み、一緒に流れていった。


 果てしなく続くと思われた龍の背にも、ひと段落着きそうなのが、視界に入る建物で分かった。七合目にある、山小屋が見えてきた。

 足元は非常に悪く、岩と岩で道ができているようなものだった。山の斜面から浮きだつように建てられた山小屋は、見るからに異質な存在だった。

 登山を開始して三時間が過ぎた。途中休憩をはさんだものの、足には着実に疲労がたまっている。太ももが張っていて、足の裏がじんじん痛む。

「あそこの小屋で休憩なー」

 武藤が、少し先から声を下ろしてくる。唇の間から白い歯を見せ、余裕の表情で手を振った。

 空はまだ明るく、白い雲が迫力をもって存在している。眼下には森林が見下ろせて、澄んだ風が通り過ぎていく。風と共に、疲労も過ぎていけばいいのに、と、天馬は思った。

「岩場に入るよ」

 休憩をする小屋は、七合目の中盤にある。そこまで行く道が、岩場に変わったのだ。

 左右に鉄の鎖があり、ラグビー選手の筋肉のように盛り上がった岩を、踏みしめていく。

「兄貴、うまいね」彩瀬は、靴先で岩を探り、転ばないよう注意しながら登っていく。他の二人がサポートをし、不安要素はほとんどなかった。

 岩場がひと段落すると、石の階段がある。そこを上がれば、もう小屋だった。


「休憩は一時間」

 武藤が言い、周りの生徒は息を大きく吐く。

 話し声はしなかった。一人のもの以外は。風で揺れる引き戸の音が、室内にこだます。戸が小刻みに震え、休んでいる心を急かしてくる。

「ここは、標高二千七百メートルくらいだ。体調崩してる人?」武藤は、努めて明るい声を出す。きっと、毎年と言っていいほどこの行事に参加しているのだろう。表情には余裕がうかがえる。

 ここでは、誰の手も挙がらなかった。誰か一人が挙げると、芋づる式に手が何本も挙がるのかもしれないが、みんな、まだそこのプライドは保っていた。自分が一番初めにリタイアしないという、意思がある。

 そもそも、本当にきつければ挙げるだろうから、まだプライドを守る余裕もあるということなのだろう。

 空気は時間とともに、重みを増す一方だったが、一人はしゃべり続けていた。ジャンパー同士が擦れ合う音、意味もなくリュックの中身を確認する人、手に息を吹きかけ、感覚を取り戻す行為。その中に、早口でしゃべる声が混ざり込んでいた。

「そんなのも知らないの?」男子としては少し声が高く、相手を見下すように話す声だった。

「僕はそんなの小学生から知ってるんだ。君が今知らないっていうのは、小学生の僕以下だっていうことだよ」

 饒舌に、周りの空気もお構いなしに話し続けるのは、江島さんと同じクラスの、野沢歩という生徒だ。江島さんにこれでもかと山の知識を披露し、何も知らないと言った様子の江島さんを、キラキラとさせた目で見ている。傍目から見てもこんなに感じが悪いと感じるなら、江島さんは相当ストレスが溜まっているに違いない。

 その状況を見ている誰もが、江島さんに助け舟を、そんな気持ちでいるが、教師の武藤と校長は外で話し込んでいるし、下手なことを言うと、歩の披露会に拍車をかけてしまいそうで怖い。

 歩の独壇場は止まらないまま、みんながうんざりしていた中で、やっと誰かが口火を切った。

「首がぽきぽき言って、すげえわ」

 声を出したのは、大森だった。誰に言うでもなく、空気の中にぽんと落とすような、そんな話し方だった。それが逆に功を奏し、歩がぽかんとする隙ができた。

「確かに。こんなになることはないな」

 その声を拾ったのは、明平だ。首を回しながら、相槌を打つ。

 その会話が火種となり、そこからはいろんな場所から話し声が涌いた。歩の話は途切れ、全員がほっと息を吐いた。

「頂上まであと、どんくらい?」天馬は、読んでいた文庫本を閉じて、話した。歩の話は、耳が聞こえないため、何一つ聞こえていない。

「さあ、想像もできない。こんなに歩いたけど、まだまだありそう」

「こんなに疲れたことなんてあるかあ?」

 虹矢は弱々しく手を動かし、机に頬をくっつける。呼吸に合わせて、背中が大きく上下した。

「きつかったら、無理はするなよ」彩瀬が優しく言うが、虹矢は何も答えない。その代わりに、虹矢は手を出し、机の上の彩瀬の手を握った。

「大丈夫」

 彩瀬はしっかりと握られたその手から、虹矢からのメッセージを受け取った。


「よし、しゅっぱーつ」武藤に続き、ぞろぞろと生徒が出ていく。心なしか風は強くなっていて、雲が空をせわしなく動いていた。

 ここからは本格的な岩場が待っていた。明平は何も言わずに、三人のそばにいて、彩瀬をサポートしていた。

「足元悪いなあ」気が付くと、すぐ近くに大森がいた。独り言のように呟いている。

 確かに登りづらい道で、足元もおぼつかない。休憩はしても、軽くなるのは休憩をしたという事実を得た心だけで、本質的な疲労はとれていない。足の裏が、岩を踏むたびに反応して、ピリピリする。

「頑張らなきゃな」彩瀬は一人呟く。

 休日を返上してまで、どうして自分は参加してしまったんだろう。そう思っている生徒もいるに違いない。今頃あいつは、今頃あの子はという想像が止まらなくなり、こちらの道を選択した自分を呪っている人も。

 でも、と彩瀬は思う。でも、休日に、そこらへんで遊ぶことはいつでもできるけれど、富士山に学校のみんなと登れる機会なんて、これっきりで、もうない。

 そう思うと、後悔した自分を、後悔できるんじゃないだろうか。その場のノリと勢いで、申込書を提出した自分を、許せるんじゃないだろうか。

 岩場を越え、山小屋。岩場を越え、山小屋。この繰り返しを越えた先に、小さな赤い鳥居があった。鳥居荘と名付けられた山小屋の入り口で、くぐるときは、なんとなく神聖な気持ちにさせられた。

 なんとなく自分を許し、今遊んでいるだろう友達も許した。虹矢は、いつも嫌がらせをしてくる数学教師を許した。

 富士山は、いつもより少し寛大になれる場所だと、虹矢は気づいた。


 変わらず、山を登っていく。重力に反し、上へ上へと歩を進める。岩場は一層本気を出してきた。

 地面からせせり出た岩は、足の裏をがしがしと押してくる。足の指で岩をつかむ思いで、一歩ずつ進む。きついが、続けるしかない。

 振り返れば、これまでに登ってきた道を見渡せる。ここで戻るのには、もったいなさすぎるくらいに、上まで来た。

「ここからもっと注意な」明平が、彩瀬に語りかける。

 目の前には、傾斜がきつい岩場が現れた。両足と手にある登山杖を使い、慎重に登らなければ、上には進めない。

「確かに、一段と岩だね」彩瀬は慣れた手つきで、杖で岩場を探り、この先の形状を確認した。

 明平が彩瀬を先導し、導いていく。天馬も虹矢もそれに続いた。

 途中にある山小屋を横目に、また岩の登山路に入っていく。ここからは一向に気は抜けない。警戒心の糸をぴんと張り、あらゆる危険に敏感になる。富士登山祭りに参加している生徒の列は、しっかりとした緊張感を持っていた。

 集中を崩せば、一気に疲労と危険にさらされる。

「みんな、余裕ないね」

 前の方から、声が降ってきた。こちらを見下ろす形で、発せられた声だ。その声には冷たさと、少しの笑みが含まれていた。

「また、登山好きの歩君がなんか言ってらあ」大森が、うんざりといった様子で後ろから呟いた。天馬と虹矢の後ろに、へばりつくような歩き方で、大森は居た。

 彩瀬は大森の声が、疲労でいっぱいなのを感じとる。

 こんなに長時間登り続けても、歩は余裕を見せていた。いいや、もしかしたら歩にとっては、こんなの長時間に入らないのかもしれない。とりあえず、嫌な感じでこちらに声を振りかけてくる。

「先生、もう少しペース上げてもいいですか?」わざと周りに聞こえる大きさで言ったように、彩瀬は思った。

「お前は、何のためにこれに参加してるんだ」

 武藤はいつもの口調からかけ離れた、冷静な声で言った。

「何のためって、そりゃもちろん、頂上に行くためですよ」歩は、何を当然のことを聞くのだと、ため息交じりに答えた。実際に、当然でしょ、と付け加えた。

「頂上に行くのは、それは大事だ。」武藤は、息を乱さずに話す。

 でもな、と武藤は続ける。

「でもな、一人で先に行くってのは、違う。この行事の意味とはかけ離れてる。一人で先に行く力があるのなら、それを他の人のために使う。高校が終わっても大事になるのは、そういうところだ」

 武藤の言葉に、歩は反応を見せない。ひっそりとスピードを落とし、列に加わったが、釈然としない顔をしている。

「あいつ、勉強も運動も悪くないけど、一番じゃないからな。自分の得意分野が来て、テンション上がってるんだな」大森が下を向きながら言った。

「大森は、意外と知ってるんだよな」明平が、意外とというところを強調した。大森が、うるせえと短く返す。

 意外と知っていると言った明平は正しいと、彩瀬は思った。周りは気にせず、自分の思うように行動する。一見そんな感じの大森だが、周りのことはよく観察していた。他人の表情を読み、心の機微を察する。それができるからこそ、いろんな人と付き合えてきたともいえる。

 変わらず先頭にいる歩が、なんだか不思議と、可愛らしく思えてきた。やっと自分の番だ、やっとこの時が来たんだと、この登山を心待ちにしている場面を想像する。クリスマスまであと何回寝るのかと、指を折って数える子供のように、無邪気に待っていたと思うと、笑みすらわいてくる。

 大森に、歩をフォローする意図はなかったかもしれない。それでも一言で、嫌な印象の人を無意識に許容させてしまう。大森は、周りのイメージとはずいぶん違う人間なのだ。

 温かい心とは裏腹に、富士山の気温はぐっと下がっていた。頬に当たる空気が冷気を帯び、頭上の雲の量が増えている。

 八合目の山小屋が近づいてきた。それにつれて、足元も少しは整備され始める。

 列が、呼吸をしている。

 息を吐いて、吸う音が一定のリズムになって、耳に入る。石が階段状に積まれ、それを昇っていた。

「今日泊まるのは、あそこなー」

 武藤の声が降ってくる。武藤が指さす先は、まだまだ上の位置にある建物だ。見ようとすると、首をだいぶ曲げなくてはいけないくらい、上だ。

「先生、まだまだじゃん」大森が後ろから叫ぶ。

「そうだなー。頑張ろう」手をメガホンの形にして、武藤も叫ぶ。声が白くなって、空中に消えていく。


 半紙に滲んだ墨のような、淡い黒色の雲が、空に浮かんでいた。

「雨の匂いだ」

「雨の匂いだな」

「      」

 三兄弟は、空からのメッセージを受け取る。天候の変動には同じくらい敏感な三人が、同じタイミングで言ったことだった。

「降るのか?」聞きながら、明平は空を見上げる。

 曇天、という言葉がぴったりの空だ。

「なんか、黒い絵の具を倒して、汚しちまった画用紙みたいだなあ」大森は呟く。

「ああ、それはなんとなくわかるな」

 彩瀬は言い、見えないけれど顔を空へ向ける。

 いつの間にか平坦な道を歩いており、上を見上げても危険じゃない道になっていた。

「この天気で、明日大丈夫かな」明平は疑問を口にする。

 今日はあと少し、八合目の後半にある山小屋に泊まり、明け方に合わせて、頂上に向かう。頂上では日の出を見る予定だが、この天気では、景色がどうなるかわからない。

「まあ、大丈夫じゃねえか」大森が言い切った。「と思って登るしかないだろ」

「それもそうだな。登るしかない」

 至ってシンプル。一言で片付くことだが、だからこそ余計な思考も入ってきてしまう。大森は、本当にそれしか考えていないのだろうか。

 日の出の景色に思いを馳せ、真っ直ぐにそこに向かっているのだろうか。

 彩瀬には大森が、何かを考えないように、無理やりに言い切っているように感じられた。

「着いたぞー」

 彩瀬が話そうとしたところ、武藤が声を出した。どうやら、山小屋に着いたらしい。


 窓から見える景色は闇に沈み、窓枠が風に揺られて音を立てていた。

 夕食は、冷えた体に染み込むカレーライスだ。始まってから歩き続けた身体が、喜んでいるのが分かる。

「うんめえ」

 とめどなくスプーンを動かしながら、大森が言葉をこぼす。確かに、今日の夕食はいつもに増して、絶品だった。いつもと変わらない、贅沢と質素の中間のような食事で、何も特別なものは入っていない、それにも関わらずこんなにも美味しいのは、この環境があるからだろう。

 きっと、テレビに出ている大富豪も、三ツ星レストランの味になれた美食家でも、この状況のこの料理は、最高なんじゃないだろうか。

「最高だな」彩瀬は、絞りだすように言った。

 夕食を終え、それぞれが自由な時間に入る。自由とは言っても、それぞれが疲労に侵されており、横になったりする人がほとんどだ。

「あ、なんか挟まってる」しんとした部屋に、天馬が言葉を出した。窓が揺れる音が、それを巻き込み流していく。

「ん?」

「本にさ、なんか挟まってるんだ。」

「ただの紙か」彩瀬は手で触って、確認する。

「何か書いてあるってよ」虹矢は言い、それを読み上げる。

 きつくなったら読め!

 二つ折りの紙の表にこうあり、開くと手書きで文章が綴られている。

電柱にあった落書き百選

 借りた金が、返せねえ

 このチンパンジーが!

 危険!感電注意!

 この電柱は、コンクリート製

 賞味期限は信じるな

 女子トイレって、迷路になってんのかよ!

 俺は、ピンチに現れるヒーローだ。

「なにこれ」

 三人でひとつの紙を囲み、溜息を吐く。これは、どう考えても、三人の父親が書いたものだ。

「これを見れば元気になると思ったのかな」

「まあ、笑えちゃうけどね」確かにこれは、悔しいが笑ってしまった。大笑いするほどではないにしても、クスッとなって、思い出すと笑ってしまうたぐいのものだった。

「百選ってわりには、少なすぎるけどな」

 紙には乱雑な字で、二十も行かないくらいの文章が書いてあるだけだ。残りはまた今度と書いてある。

「ていうか、虹矢寝た?」紙をしまい、彩瀬は呟く。

 さっきから、虹矢の気配が薄い。少しの息と、近くにいるということしか感じられない。普段はもう少し活発で、新鮮な気配を感じる。

「虹矢、どうした?」天馬が聞く。返事の手話を待ったが、また聞こえるのは天馬の声だ。「具合、悪そうだな。」

 天馬によると、虹矢の様子はおかしいらしい。萎れた茎のように体を曲げ、ぐったりと畳に張り付いている。息をするのが苦しそうで、気力がない。

「これは、急性高山病かな」

 武藤がいつの間にか近づいてきており、虹矢を見て言った。

「高山病ってたまに聞くけど、どうなんですか」

「その場合、酸素が足りてないだけで、命に危険はない。でも、これ以上昇るのは、よした方がいい。」

 ああ、やっぱりか。

 彩瀬の胸が一瞬跳ねた。鼓動が早くなる。どこかでそのことを悟ってはいたが、いざ、言葉として耳から入ってくると、反応せずにはいられない。

「嘘だろ、大丈夫だよな」天馬は、武藤の手話を見て、理解した。理解して、それに叫んだ「おい虹矢、昇るだろ、三人で。」

 天馬の言葉には、誰も続かない。

 気が付けば周りからの視線も感じる。うんざりしたような空気や、息をのむ音。お前らだけが疲れてるんじゃないんだ、という言葉が聞こえた気がした。

 実際に、何人かほかにもいたのかもしれない。それでも、俺たちの目的は、この登山にあった。登りきる。人生の一部に、富士山を入れる。色彩をぐっと豊かにするものが、そこにあるように思っていた。それが、叶わなくなる。そう考えると、何も受け入れられない。

 重い空気が充満した頃、彩瀬と天馬の腕がぎゅっと握られた。服がしわを作り、不細工な笑顔のようになる。

 彩瀬と天馬は、顔を輝かせた。

「大丈夫」

 虹矢は確かにそう言った。いや、彩瀬と天馬はそう聴き取った。ぎゅっと握るのは、安心しろ、大丈夫だ。その合図だ。

「どうした?」武藤は二人の顔を怪訝そうに見つめ、問う。

「虹矢は、大丈夫だって」

「え?」

「大丈夫だってさ」

「     」

 虹矢はおもむろに手を動かす。

「多分風邪だ、だってよ」彩瀬と天馬は笑い声をあげる。武藤は、虹矢の額に手を触れ、その熱さに驚いた。確かに、虹矢は熱を出していた。

 虹矢の顔は火照り、触れれば、少し震えている。

「この部屋、寒すぎるかも」彩瀬はそう言い、自分にかけていたブランケットを虹矢にかけた。

 虹矢にはもう寝ろ、と言い、周りのみんなには謝った。なんだか注目を集めていたのに、ただの風邪で、申し訳なくもなった。

 その後は電気が消え、空気が静まり返った。黒というよりは青い光が窓から差し込み、相変わらずに風が窓を揺らしていた。


外の風が強くなった。彩瀬は目を覚まし、窓が揺らされる音でそう思った。

 周囲からは寝息しか聞こえないところから、早く起きすぎたということも察した。

 腰から上を起こし、テディベアのようになる。頭がガンガンして、内側から何か押しているような痛みが少しあった。

 肩と腰はブリキのおもちゃのように固くなっており、回すと子気味良い音が鳴る。彩瀬は一人で立ち上がり、出口に向かった。もう一度寝るより、少し外の空気を感じていたかった。

 出口までは遮るものも寝転ぶ人もいなく、簡単に着いた。引き戸を開ける。堰を切ったかのように、風が吹いてきた。思ったよりも風が強く、冷たい。

 外に出て、戸を閉める。

 風の音というのが、ダイレクトに聞こえた。乱暴で、何かをさらうように吹き抜ける。頬を叩かれるような勢いに押され、身体がよろける。

 引き戸の隣にあるベンチに腰掛け、しばらくここにいようと彩瀬は思った。

 手がかじかみ、肩が震えてきたころに、引き戸が開いた。ゆっくり、慎重に開いて、誰かが出てくる。

「何してんだよ、幽霊かよ」

「寒いだろ、ほら。」

 別の声が二つして、彩瀬の手にはカイロが握らされた。ほのかに温かくなっている。

「一人で黄昏てんじゃねえよ」

「黄昏って時間でもないけどね」

「どうして、起きてるんだよ」

「どうしてもなんも、起きちまったからな」

 大森は、頭を音が鳴るくらいにぼりぼり掻いて、大きなあくびをした。

「大きな音出すなよ。みんな起きたらまずいだろ」

「風の方がさすがにでかいって」

「寝起きなのに元気だなあ」

 大森と明平の掛け合いは、漫才を見ているようにテンポがいい。

「二人は、別のクラスだけど、仲いいね」

 彩瀬は二人の出す声に信頼が含まれているのを感じ、二人の波長が重なっているように思った。この二人は別のクラスだが、互いに遠慮なくものを言っている。

「一年の頃、同じクラスでな。」

「まあ、俺が仲良くしてやってるんだよ」大森は明平の肩を大袈裟に叩き、偉そうに言った。

「それはこっちもだけどな」明平は、同じくらいおどけて返す。二人の会話を彩瀬は聞き、微笑む。

「しかし、天気悪いな」

 大森は空を見上げ、呟く。「これじゃ、朝日が見れねえよ」

「珍しく、歯切れが悪いね」大森はもごもごと喋り、言葉をこぼすような口調だった。

「朝日が見えねえと、なんだかなあ」

「彩瀬には、言ってもいいんじゃないか?」

 大森の煮え切らない口調に、明平が横から言った。大森には、何か煮え切らない理由があるらしい。

「まあ、ここでこうなったのも何かの縁だよな」大森は鼻から強く息を吐き、立ち上がった。ベンチの前をふらふら歩き、靴と砂利が擦れ合う音がする。

「俺の彼女の話なんだけどさ、聞いてくれるか」

「あの、駅前にいた人?」

「あ、そうそう。」

「その人が?」

「実は」

 大森は少し間を空け、話した。

「子供が、できたんだよ」

「子供?」

 彩瀬は言葉をそのまま繰り返し、その後に頭で考える。大森は話す。

「そう、子供。だから、迷ってるんだよな」

 大森の最近の歯切れの悪さは、そういう裏があったのかと、彩瀬は納得した。

「確かに、それは迷うね。産むか産まないか」

 彩瀬は慎重に声を出し、語り掛ける。神妙な声が返ってくると思えば、大森からは腑抜けた声で「え?」と来た。

「え?」

「産むか産まないか?」大森は、その意味が分からないように話した。

「子供を産むのか、産まないのか。」その思いを持ち富士山に登り、何かの決断に役立てようとしていたのかもしれない。

「いや、それは決まってるんだよ」

 彩瀬が考えを巡らせていると、大森は簡単に言った。

「決まってる?」

「うん。決まってる。産むに決まってるだろ。」

 大森は、そこは淀みなく言った。山奥を流れる清流のように、美しく澄み渡った声だった。

「じゃあ、迷うっていうのは」

「ああ、迷ってるのは、名前。名前どうするか、迷ってるんだよ」

 大森は、大きく伸びをし、彩瀬にも意見を聞いてきた。

「季節の春か、晴れ渡るの晴。どっちのはるが良いと思う?」

 どうやら、はるという名前はきまっているらしい。

「うーん、どっちだろうなあ」

「考えててくれよ、参考にするからさ」

 大森は言い、声を出して笑った。彩瀬は不思議と、朝日のような眩しさを覚えた。

「なんか、話したらすっきりしちまったよ。」そう言い、大森はあくびをする。「眠くなってきた」

 大森は、この歳では珍しい決断をした。子供を持つという決断。それを後押ししたのは、どんな思いなのだろうか。

「じゃあ、出発まで寝るわ、起こすのよろしくなあ」

 引き戸が開けられる音がして、足音が室内へと消えていく。

「大森は、なんだかスケールが違うなあ」

 彩瀬は呟き、明平もそれに同意した。


 残った二人はベンチに並んで腰かけ、息を手に吹きかけた。白い空気が立ち、消えていく。

「どう思った?」

 明平が聞いたのは無論、大森の話のことだろう。

「大森らしいのかなって、思ったよ」

「らしいか」

「らしいっていうのは、産むって決断してるところ」

 彩瀬は静かに言った。

「産むしかない」

「え?」

「産むしかないって、言ってたよ、あいつ。」明平は、そう言った自分の友人を誇るような口調だった。

「できちゃったんなら、授かったんなら、それは産むしかないって。逆に、それ以外の選択肢があるのか?って。」

「それ以外の選択肢、あるよね」

 彩瀬は遠慮気味に言う。

「それ以外、あるな」

 明平も同意する。同意してから、続ける。

「でも、そういうやつだ。後先考えてないわけでもない。しっかり考えて、いろいろ考慮した上での、少数派の決断。普段から、軽そうだし、実際軽いところもあるから、誤解されやすいけど」

 彩瀬の頭には、大森の声が蘇る。軽薄そうでいて、芯のある声。思いやりのある響きに、彼の性格が表れているように思えた。

「一年のころにさ、僕が落ち込んだ時があって」

 明平の声は、自嘲気味だった。笑みが混ざっているが、少し震えていた。

「うん」

「三年生の最後の大会で、選手権な。出てたんだけど」

 明平は珍しく、もぞもぞと話す。

「PK戦になったんだよね。で、僕が五番目で」

 彩瀬はPKというのは知っていた。天馬と虹矢にどんなものか聞いていた。そして五番目と聞き、不思議と彩瀬の頭には、神社の前で手を合わせ祈る女の人が浮かんだ。

「それで?」

「それで、外したんだよ。五人蹴るんだ。五番目は、最後。後攻で、全員決めて回ってきたから、ミスしたら、入らなかったら、負け。」

「なるほどね」

「僕が、三年生の試合を終わらせたんだよ」

 明平にそういった過去があるのを、彩瀬は知らなかった。彩瀬には、それがどんなに苦しいことなのかはわからなかったが、それでも理解しようと努力した。

「ショックだった」

 彩瀬が何も言わないと、明平はそのまま続けた。

「中学生のころとか、テレビで漠然と見てたんだよ。高校サッカーのテレビ。PKで、自分の番で終わらせた人のインタビューとか、崩れる姿とか。」

 風は相変わらずに吹いている。二人の会話を邪魔するように、横切っていた。

「こんな人もいるんだって他人事だったけどさ。数年後、自分がそうなるなんて思ってもなかった。外した瞬間、不思議と浮かんできた。あ、あの時の人とおんなじだって」

 明平は、笑いながら話した。心の中で、笑って思い返せるくらいの記憶になったということだろう。

「それからはな、みんな腫れ物に触るみたいになっちゃってな。僕も、応援席にいた一年も、どうしていいかわからなかった。」

 彩瀬は、その気持ちがなんとなくわかった。気を遣い、なんて声をかければいいのかもわからない。それはそうだ。明平は、三年の試合を終わらせたという現実は初めてだし、他の一年だって、そんな同級生ができたのも初めてだろう。

 初めてではなくても、そんな状況の人にかけるべき言葉なんて、誰にも分からない。

「でもさ、あいつだけは、違ったんだよ。」

「大森?」

「そう。まあ、あいつだけはっていうか。一年のころは、話しかけてくるのは大森くらいだったんだけど」

「さすが大森」

「だろ。それでな、試合の次の日、学校行くと、あいつがいつも通りに話しかけてくるんだよ。ふざけて、バカみたいなこと言ってな。それでなんか、人の気も知らずに話しかけてくることに笑えてきてさ。くよくよしてる自分が馬鹿みたいになった。」

「大森らしい気がする。」

「あいつは、そういうやつなんだよ。いつも話してるサッカー部と話してないのに、何も気が付かないで、いつも通り。軽薄で助かったよ」

「でもさ、それ、大森が知ってたらどうする?」

「知ってたらって、外したこと?」

「そう。知ってて、そう接してきた。」

 明平は考えているのか、少し間を空け、言った。

「知ってたんだったら、一本取られたよ。でも、知っててもいつも通り接してきそうだから、あり得る。」

 二人は揃って笑った。風は強く吹いているが、今だけは、この風も一緒に笑っているように感じた。

「大森がお父さんかあ」

 彩瀬は、どんな父親になるのかと、思いを馳せる。

「お父さんって響きが、あいつを調子に乗せそうだ」

 明平は言い、彩瀬も、高い声で威張る大森が容易に思い浮かんだ。

「この際だから、聞いていいか?」

 この際というのは、この富士山の頂上までの途中の道で迎えている、この状況だろう。明平はその特別な状況に乗って、彩瀬に質問をした。

「彩瀬は、どうして楽器を鼻で吹いたり、三つ一気に吹いたりするんだ?」

 明平は聞き、答えを待つ。すかさず風が吹き、二人の間を割りいって行く。

「見てて、楽しくない?俺は見たことないんだけどさ、そう吹いてる人の話を聞いた時に、すごくいいと思ったんだよ」

「確かに、見てると楽しいし、なんだか気分が上がる」

「それにさ、俺は、楽器を吹いただけですごいって言われることがほとんどなんだよね。目が見えないのに、すごいって」

 それは明平も思っていることだった。見えている人でも、楽器を操れない人は大勢いる。

「でもさ、それじゃダメなんだ。目が見えないのに、っていう前置きがついたら、そうじゃなかったらすごくないってことでしょ?」

「まあ、そうなるのかな」

「そうなるよ、きっと。だからさ、俺は、普通の人がやってもすごいって言われることをやりたいんだ。あの吹き方はその結果」

 彩瀬ははっきりと言い、そのあとに笑った。

「変かな?」

「いや、まあ。変と言ったら変だな。普通の人だったら、そういう考えはしないと思うから。だから、彩瀬はすごいよ」

 明平は隣の友人を見つめ、笑いかける。静かに佇み、風に耳を澄ませている彩瀬を、明平は誇りに思った。


 ベンチに座ってから数時間もせずに、身体を叩かれ目を覚ました。

 彩瀬は体を起こし、周りの音を聞く。そこらで動き、荷物を準備する音が聞こえる。忙しない押し音が響いた。

「虹矢、体調どうだ?」

 彩瀬が聞くと、服の袖を優しく握られる。

「大丈夫」

 優しい手のひらの感覚が、彩瀬を落ち着かせた。

 山小屋を出ると、冷えた空気が肌を刺す。全身を鳥肌が走り、眠気をかっさらっていく。

「寒すぎだろ」大森は、当たり前のことを当たり前に言う。現実を受け入れたくないからと、それをあえて言わないようにしている人がいるのに、お構いなしだった。

 唇が震え、腰や肩に変に力が入る。少しでも体を温めようと、その場で足踏みをする。

「ここからひと踏ん張り、頑張ろう」武藤が大きな声で言う。

 そうだ、頑張らなくちゃ。

 三人は言い聞かせ、身体に力を入れる。周りの音で、この時間にも登山者は少なくないことがうかがえた。

 無造作に、風の音の中に足音が鳴っている。

 小さくない岩が足元には転がり、足の裏の痛みを蘇らせてくる。新鮮な痛みは、仮眠をとり、身体が休んだことを容易に忘れさせた。

 曲がりくねる道が続き、空気の冷たさの中に、湿気が入ってきた。雲が近付き、色がどす黒い。

「雨だ」

 周りの誰かが言い、それと同時と言っていいタイミングで、雫が落ちてくる。雲が誰かによって絞られたかのように、たくさんの雨が降ってきた。

 雨は簡単に地面を濡らし、足元を悪くする。

 明平は一層、三兄弟のサポートに入った。大森も近くにいて、三人を見てくれている。

「雨って最悪だな」

「でもこれも、雲の上にいったら無くなる」明平は言い、顔をあげる。「あと、十分もかからないんじゃないか」

「その言葉、信じるぜ」

 天馬は明平の目線の先を追った。

 明平の言うことは合っていて、そこから数十分も登ると、雨はやみ、雲を見下ろすくらいの高さに来ていた。

 そこはもう朝が近付いてきていて、空が明るくなり始めている。

 見上げると建物が見え、足元は岩が段々に並んでいる道になる。あと少し、誰もがそう思い、同時に、力を抜く。

 三人も例外ではなく、無意識にほっと息を吐いていた。

 あと少しで着く。あと少しで、日本で一番高いところ。

 彩瀬は頂上を思い、身体のギアが一段上がった。だが、虹矢はその逆だった。

 頂上を意識し、それまで張りつめていた糸が緩んだ。ふわっと力が抜け、ふらつき、地面にへたり込んだ。顔は赤くなり、呼吸が苦しそうだった。

「虹矢、どうした」

 虹矢は、天馬と彩瀬の服の袖を掴もうとするが、それもままならない。

「虹矢、ほら。」明平は手を取り、支えになって立たせる。立たせるのが精いっぱいで、虹矢のふらつきは収まらなかった。

「先生、虹矢が」彩瀬は前の方にいる武藤に声を出した。この状況では、武藤に頼るのが一番に思えた。周りの生徒が、きつそうな虹矢と、それに付いている数人を横目に、山を登っていく。悪いことをしているわけではない、後ろめたいことがあるわけでもない、それなのに、異議こちが悪く、自分たちが惨めになる思いだった。

 武藤は上から、虹矢のいるところへ駆けてくる。岩から岩へと飛ぶように、それは牛若丸のように身軽な姿だった。

 武藤が虹矢たちのすぐ近くに来て、言った。

「お前、なんでいるんだよ」

 その声には、気の置けない相手へと声をかける遠慮なさがあった。武藤の声の後、虹矢たちの後ろから、短くキレのいい犬の泣き声がした。

「ジミー?」

 彩瀬は振り返り、そちらの空気を感じる。今の泣き声は紛れもなく、ジミーによるもの。彩瀬はその確信は得ていた。

「ピンチみたいだなあ」

 笑い交じりの声が聞こえ、一同振り返る。

 そこには、これでもかと胸を張り、腰に手を当てた、三人の父親が立っていた。横には姉である桃佳が震えながらいて、足元には真っ黒いジミーが座っていた。

「なんでいるの」

 彩瀬は思わず、先ほどの武藤と同じセリフを吐いてしまった。


「ほら、パパの背中を頼れ」

 父親は虹矢のそばに行き、軽々とおんぶする。高校三年の息子をおぶるにしては、軽快な身のこなしだった。

 虹矢はおとなしく父親に背負われ、ぐったりとしている。

「すごい熱だ」

 桃佳は虹矢の額に触れ、呟く。

「でさ、どうしてここにいるわけ」

 彩瀬は、富士山の風に吹かれて流れていきそうなことを、掴み、手繰り寄せて聞いた。父親の登場はそれほどに自然なもので、気を抜けば聞き忘れるほどだ。

「そりゃあ、来ないわけないだろ。」

「あたしは行かないって言ったんだけどね」

「こんな場所初めて!」

 父親、桃佳、ジミーの順で話し、一同は登っていく。冷静になって見ると、三人を取り囲む輪は、非常に大きなものとなっていた。

 三人に関わってきた人の顔が、富士登山で集結している。これは、彩瀬にはとても特別なことに思えた。

 頂上まであとわずかになっていた。昨日の午前中に始まった登山が、終わりに近づいている。

 高校生活の目標であった、富士山の山頂に行くというのが、叶う瞬間がもう少しだった。


 そして、それは唐突に、不意に訪れた。

 スタートしたときと同じく、往々しい門や扉はない。違うのは、初めの時よりも道が険しくなり、足が棒のようで、疲労に侵されているということだけだった。

 石でできた階段を上がり、鳥居をくぐる。目の前には日本の国旗が風に揺れていて、四角柱の石に、こう彫られている。

 富士山山頂

 右側には古風な店があり、町の商店街に迷い込んだようだった。

「着いたの?」

 彩瀬は澄んだ空気を感じ、全身でそれを受け止める。

「やっとかあ」天馬は辺りを見渡し、満足そうな顔をした。

 虹矢も声は出さないものの、ほっとしているように見える。

 父親は息子たちを見て、瞳を湿らせた。桃佳は嫌がっていた割にすっきりとした表情をしていて、ジミーも尻尾を振り、舌を出している。

「改めて思ったけどさ、山って、山なんだね」

 彩瀬は手で、山の形を作りながら言う。

「こんなに山を感じたことはないか?」父親は尋ねる。

「うん。町にある、山が入った地名、あれは嘘だね。」

 彩瀬は、急勾配の山を新鮮に思った。全身で感じ、視覚を使わないからこその感想だった。

 他の生徒も登り切り、見晴らしのいいところへ行ったり、座って休んだりしている。顔には疲労がにじみ出ているものの、やり切ったという達成感も感じられ、抱き合う生徒もいる。

 三兄弟と父親、桃佳、ジミー。明平と大森、武藤。後ろに校長もいて、全員で視界が張れているとことに立った。

 眼下に望む雲海は、少し暗く、その上を縁どるように、藍色の空があった。

 そして、太陽が顔を出そうとしているところが分かり、その周辺はほのかにオレンジ色になっている。

「今ここが、一番母さんに近いんじゃないか?」

 ふと、天馬が言いながら、空を見上げた。

「ああ、確かに」

 誰かがそう言い、三兄弟と父親と桃佳と、ジミーが揃って上を見た。

 人はなぜ、この世にないものを思う時に、空を見上げるのだろう。どうしようもない思いを抱え、それを持ったまま青空へと目を向ける。涙が零れそうなときは、それを止めることができるし、笑みが溢れそうならば、それを一秒でも長く保てる。

 この世界にいない何かを思う時、人は見上げることで、そこに何かを感じてきた。

 今、この家族も、この世にから去った母親を思い、零れそうになる涙を止めている。

 時間はゆったりと流れ、太陽が出てきた。普段は感じない太陽の動きを、気づけばこちらを見下ろしている太陽の動きを、三兄弟ははっきりと感じた。

 淡いオレンジ色が広がり、藍色が少なくなっていく。真上の空は水色になっていた。

 夜の終わりという寂しさのある冷たさと、今日という日が始まった、希望に満ちた優しい温もりが、そこにいる人々を包む。

 頂上からの景色は中性的で、平等にこちらに寄り添ってくれる安心感があった。見下ろす先にあるだろう、生活が送られている街。今日も生きている人がいる。そう思うと、心が軽くなり、勇気づけられる。きっと自分たちと同じく、日々色彩を求め、自分のキャンバスを色とりどりに染めるために、今日を生きる。

 三兄弟は泣き出しそうなのをこらえている。

 生きている人たちは、みんな初めての人生で、自分の生き方は間違っていないか、そう気にする。三人も、自分たちの生き方があっているのか不安に思っていた。

 ただ、誰しも根本は、自分の生活を豊かにするために、生きているんじゃないか。三人はこの場所に立ち、この景色を、この空気を感じてそう思えた。

 明平はこの先の未来を思い、大森は彼女の顔と、まだ見ぬ我が子を思った。

「決めた」

 大森は見上げてからはっきりと言い、笑った。

「何をだよ」

 明平が返す。

「名前。晴にする。晴れのはる。決めた。」

 彩瀬はそれを聞き、赤ん坊の泣き声を思い浮かべる。

 段々と顔に、太陽の温度を感じてくる。夜が明けた。今日が始まった。


 彩瀬の意識は朦朧としていた。外の暗闇が、脳の中を侵食していってるかのようで、受け答えにも苦戦していた。

「いい高校生活だったよ」

 彩瀬は苦しそうに、それでも笑顔を作って言った。

 明平は言葉が出ない。

 ここにいる友との別れが近付いてきている。明平にはそれが嫌というほどわかってしまう。彩瀬に繋がれた透明の管。そこから四角い機械に繋がり、脈と心拍の状況がうつされている。

「身体が、思うように動かなくなってきた」

 自嘲気味に言い、まだ動く部分、腕から手をおもむろに振った。

「あと少しで、みんな来る。だからそれまで」

 だからそれまで、持ちこたえてくれ、とは言えなかった。

 みんなが来たら、逝っていい。そういう意味になりそうで怖かった。彩瀬はこの病院に入ってきたとき、優しく静かに言った。

「最後に自分を任せるのは、お前って決めてたんだ。高校の時から」

 片手で持てるくらいの軽い荷物で来て、彩瀬は明平に言った。

「あとは、明平が暇なときにここに来てくれれば、満足」

 明平には最初、言っている意味が分からなかった。突然、自分の勤めている病院に来て、入院手続きをした彩瀬に、困惑した。

「俺、もう長くないらしいんだ。俺って、変な吹き方するだろ、楽器。息を使いすぎて、身体に回り切らないんだよ。それで、負担が脳に。家に居たってみんな忙しくていないし、ここにいたら、お前が何回も来てくれそうだしさ」

「そんなに来れないかもだけど」

 明平はそう返すことしかできなかった。友の突然の告白、久しぶりに見た彩瀬は、どこも悪くないように見えたが、脳の血管に傷があり、それは徐々に血管を裂いているらしかった。次第に意識が薄くなり、この世からいなくなる。

 日々、身体が動かなくなっていく彩瀬。そしてもう最期が近付いた時、自分たちの青春時代の話になった。

 自分たちの人生を染め上げるために生きた、三兄弟の長男。黒い視界の中で、見える人よりも感じ取ってきた周囲の様子。

「誰か来る」

 彩瀬は言い、それは明平にもわかった。病院中に響くような、大袈裟な足音だったからだ。

「おい、何してんだよ」

 天馬は病室に入ってくるなり、すかさず言った。後に続き、虹矢も父親も桃佳もジミーも、来た。

「何してるって、寝てる」

 彩瀬は言葉を返す。人が多くいる割に、静かな空間だった。風が窓を揺らす音が、富士山の山小屋の戸を揺らす音と重なった。

 桃佳はすでに、鼻をすするくらい泣いていた。ジミーはおとなしく、桃佳の隣に座っている。

「楽しかった」

 彩瀬の声はため息のようで、細かった。

 父親は何も言わない。目には涙がたまってきているが、流さないように我慢しているように思える。

 天馬と虹矢は、ベッドの横にいて、彩瀬を見ている。彩瀬も二人がそこにいるのを感じているように、ほっとした顔をした。

「失礼します」

 行儀よく入ってきたのは、武藤だった。髪には白髪が増えていて、顔のしわが深くなっている。

「久しぶりだなあ」

 彩瀬のを見下ろし、微笑む。優しさで満ちた笑顔は変わっておらず、よく頑張った、と小さな声で言った。

 彩瀬は小さく頷く。

「間に合ったか」

 またドアが開き、三人入ってくる。

 中年の男と、小学生くらいの男の子二人だった。二人の子供は顔がよく似ている。

「彩瀬、あれから俺は、幸せな家庭を築いたぞ。」

 その男は、大森だった。下っ腹を膨らませ、二人の少年の頭を撫でた。

 彩瀬は聞いている、そう信じて大森は続ける。

「あの時、名前のこと悩んでたろ、俺。富士山の時な。で、頂上で、晴って決めたんだよ。だけどさ、予想以上のことが起きてな。」

 大森は、二人の少年に顔を向けた。

「まさかの、双子だったんだ。想定外だよ、本当。想定外の幸せ。おかげで名前は、どっちも仕えた。春と晴。どうだ、良い名前だろ」

 大森の話に、彩瀬は笑った。口元が緩み、目尻にしわができる。

「どうしてもこの二人を、彩瀬に会わせたくてな。父さんの誇らしい友達を、息子に。」

「こんな姿だけどな」

 彩瀬は細々とした声で言い、息を大きく吐いた。想定外かあ、と呟く。

 彩瀬たちの人生は、想定外の幸せが包んでいた。

 意識が薄くなっていく中で、三兄弟は人生を思い返し、高校生活を浮かべた。

 人生を色彩豊かにするため、普通高校に通い始めたこと。そこで友に出会ったこと。サッカーを見に行ったこと。富士山に登ったこと。

 この部屋にいる人の顔色。三人が奏でてきた音色。自分たちを包んでいた、空の色。

 三人の高校生活は、青春では足りない色彩を持った。

 晴天の空に架かった、彩り豊かな虹のような、春だった。

 三人は、よく似た笑顔を作った。しわの位置も、口角の角度も、目の細め方も。すべてが似ている。


 彩瀬の息が、続かなくなってきた。機械に、乱れた波線が現れる。

 天馬と虹矢は、気が気でないように、彩瀬に近寄る。

 すると、おもむろに彩瀬が動いた。

 雛鳥が巣立つときに、羽を羽ばたかせるように。母親に見送られながら、電車で旅立つときのように。それは自然で、少し寂しさを持った動きだった。

 布団から、手が出てくる。両手を出し、両脇の天馬と虹矢をに近づける。

 そして彩瀬は、二人の肩をそっと優しく、握る。

「大丈夫」

 二人は確かに感じ、彩瀬は満足そうに力を抜いた。


 いつも暗闇の視界が、漆黒に近づいていくのが分かる。身体からすうっと力が抜け、それまで考えていたことが、消えていった。


 完

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