58.過去と未来と

 目を開ける。寝返りをうって、枕に頬を擦り寄せる。

 まだ寝ていたいのに、小さな欠伸を合図として意識がゆっくりと浮上する。


 ベッドサイドに置いた時計を見ると、もう朝だった。今日の予定はなんだっけ……お休みだっけ? あとでラルに確認するとして、なんだか急にお腹が空いてきた。こんなにお腹が空くなんて、昨日の夕飯が足りなかったのかな。あれ……何を食べたんだっけ……。


 そこまで考えたところで、一気に頭がクリアになった。勢い良く起き上がって周囲を見回すと、いつも見慣れたわたしの部屋だ。

 昨日は……デルメルン大森林の中にある神殿の前で、そう、シルヴィスと対峙して……彼を見送って。その後は……?

 腕を上げても鎖骨に触れても痛くない。枯渇していたはずの魔力も体力も戻っている。


「アヤオ、入っていい?」

「あ、うん」


 掛けられた声に返事をする。

 その声はあまりにも穏やかなものだった。部屋に入ってきたラルの表情は、声と同じくらいに優しい。


「体調はどう?」

「うん、大丈夫……なんだけど、ごめん。ちょっとよく分かってない。あの後、わたしは……」

「気を失っちゃったんだよ。魔力も使いきって、極限を越えたんだろうってマスターが言ってた」


 ああ、わたしはまたやってしまったのか。

 部屋のカーテンを開けてから、ラルがベッドに腰を下ろす。腰を捻るようにして、乱れているだろうわたしの髪を耳に掛けながら、ラルが青藍せいらんの瞳を優しく細めた。


「マスターの転移でギルドに戻った後、待機していたオルガさんが治してくれたんだ。アヤオの傷も、オレの傷も」

「オルガさんが?」

「うん。無茶をしてって泣いていたよ。心配してくれていたみたいだねぇ」

「あらら、あとでお礼をしないと」


 わたしは両手を握ったり開いたりしながら頷いた。オルガさんの回復魔法を受けるのは初めてだけど、さすがとしか言いようがない。傷が治っているだけでなく、魔力も体力も全てが満たされているし体が軽い。お礼の品を考えなくちゃ。


 ラルはベッドの端に座ったまま、わたしの背に両腕を回す。抱き寄せられるままに体を預けたわたしは、聞こえる鼓動に耳を澄ませた。


 生きている。ラルがわたしの前に無事で居る。

 それが幸せで、嬉しくて、胸の奥が苦しくなる程に熱くなる。


 自分からも抱きつくと、わたしを抱く腕に力が籠った。

 ああ、好きだ。どれだけ伝えてもきっと足りないくらいに、好きって気持ちが溢れてくる。


「……昨日さ、アヤオをベッドに休ませてから……色々考える時間もあったんだけど」

「うん……」

「族長の指輪を眺めて、初代の事やアルヘオハルピュイアの事を考えていたら……指輪の記憶が、オレの頭に流れ込んできて」

「……指輪の記憶?」


 少しだけ体を離したラルが、わたしに指輪が見えるように手を傾ける。鷲の意匠が美しい指輪は、物言わずに朝の光を反射している。


「この指輪は元々ジェラルドがしていたもので、この指輪が見てきた過去の記憶。

 アルヘオハルピュイアは自らの力を誇示して、世界を自分の下に置こうと考えていた。それをジェラルドと、アルヘオハルピュイアの妻は必死に止めていたけれど、彼にそれが届く事は無かった。

 ……ある時の事。アルヘオハルピュイアは、考え直すよう懇願していた妻を自分の力で傷つけてしまう。傲慢さと比例するように強くなった力は、彼自身でも抑える事が出来なくなっていた」

「それが……神殿で眠っているっていう」

「そう。眠っているなんていうから、もう儚くなってしまったのかと思ったけれど、本当に眠りについているみたいだね。ただ……その眠りがいつ覚めるのかは分からないみたいだけど」


 ラルにもよく似た、あの人を思い浮かべる。

 自分のせいで眠りについてしまった奥さんを、あの人はどんな気持ちで見守り続けるのだろう。


「アルヘオハルピュイアは妻と一緒に引きこもる事を望んで、ジェラルドがその願いを叶えた。誰も近付けないように、神殿を封印して。

 ジェラルドはハルピュイアとしての力を自ら捨てたそうだよ。そしてハルピュイアの使い魔だった一頭のハルピュグルと共に、世界を旅した。長い年月を共に過ごす内に、そのハルピュグルは人の姿を取るようになったそうなんだ。そして二人は結ばれ、あの場所にハルピュグルの里を築いた……っていうのが真相みたいだねぇ」

「じゃあ呪いを解いて認められたっていうのは……」

「誤りだったって事だねぇ。意図してそういう情報を流したのかもしれないけれど」


 ハルピュイアの力を捨てて、ハルピュグルと結ばれた。

 だからラル達子孫には、ハルピュグルの力が受け継がれているのか……うん、分かったような分からないような。


「あの神殿に居るのがアルヘオハルピュイアだっていうのは、一般には伏せていてくれるみたい。上の人達の一部は元々知っていたみたいだけどね」

「そっか。……静かに過ごしたいって、あの人も願っているんだもんね」

「うん。いつか奥さんが目を覚ますのを、あの人はずっと待っているんだろうねぇ」


 それがいつの日になるか分からないけれど、いつかの未来に笑い合う事が出来ればいいなと思った。


「過去の話は終わり」


 ラルがわたしの顎に指を掛ける。その瞳が甘く色濃くなっていて、わたしの胸は高鳴るばかりだ。わたしが背中に回していた手が、ラルのシャツをくしゃりと握った。


「これからの話をしよう。オレとアヤオの、これからの未来を」


 そう言いながらもわたしの返事を聞くつもりはないようで、ラルは唇を重ねてくる。あまりにも性急なのに、触れる唇はどこまでも優しくて甘やかだ。

 啄むような口付けが、次第に深いものへと変わっていく。


 漏れる吐息も声も全て飲み込まれ、わたしも同じように飲み込んで。どこかに落ちていきそうで恐いのに、もっとその先まで落ちてみたい。背中に縋り付きながら口付けに応えると、ラルの瞳が細められる。

 その顔があまりにも、わたしへの想いで溢れているから……もう見ている事も出来なかった。固く目を閉じると、先程までは気にならなかった音が耳に響く。

 

「……愛してる」


 吐息混じりに囁かれて、わたしの心臓は破裂寸前だ。

 それでも離れる事なんて出来なくて、背中から手を離したわたしは……ラルの首に腕を絡めた。

 

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