57.白い煙
「あれが……アルヘオハルピュイア……?」
漏れ出たわたしの声は、自分でも驚くくらいに掠れていた。恐ろしい魔物というから、ひどく醜悪な風貌を想像していたのだけど……結界越しに姿を現した人はひどく美しい男の人だった。
しかしそれが余計に恐ろしくもあった。
『この結界を破ろうとしたのは貴様らか』
「ぼ、僕が……お前をそこから、出してやる……。お前の力を、僕の為に……っ」
口から血を吐きながら、シルヴィスが言葉を口にする。それを耳にしたアルヘオハルピュイアは不機嫌そうに眉を寄せた。
『笑止。余計な事はしないで結構。我はこの神殿より出るつもりはない』
出るつもりはない。
その言葉に、わたしは目を丸くしてしまった。封印されているのだから、出る機会を窺っているものだとばかり思っていたからだ。余りにも予想外だったのか、マスターまでも驚いたような表情をしている。
『ん……ジェラルドの気配がするな。その指輪か』
アルヘオハルピュイアがラルの名前を口にする。しかしその目線はラルというよりも、族長の指輪に向けられているようだった。
そういえば、あの指輪には初代族長であるジェラルドから歴代の族長の想いが残っているとラルが言っていた。
「初代族長であるジェラルドを知っているのか?」
『いかにも。ジェラルドは我をここに封印した者であり、我の息子でもある』
ラルの問いに、アルヘオハルピュイアは
いやちょっと待って。初代族長がアルヘオハルピュイアの息子?
『我は自分の強さに自信を持っていた。我こそがこの世界を統べるに相応しいと考えていた。その傲慢さを息子は咎め、我をこの地に封印した。ただそれだけの話よ』
「その通りじゃないか……お前の力があれ、ば……この世界を掌握、する事だって出来る……。なぜ抗わない……? なぜ封印を受け入れる……。僕と共に、行けばその願いも……」
シルヴィスが信じられないものを見るように結界を見つめる。端から広がったヒビ割れは、いつしか大きな亀裂となって結界を走っている。
『何度も言わせるな。我はここから出るつもりもない。ジェラルドが何を思ってハルピュグルの力をお前達に受け継がせたかは知らんが、もう我には関わるな』
「……では封印の結界を元の通りに戻しても構わねーのね?」
『無論。騒がしいのは我は望まぬ。さっさと立ち去るがいい』
マスターの問いかけに頷いたアルヘオハルピュイアは、踵を返して立ち去ろうとする。長い黒髪が風にたなびいた。その背に声を掛けたのはラルだった。
「……あなたはどうして神殿に居る事を望むんだ?」
『ここには愛する妻が眠っている。妻の穏やかな眠りを妨げる事は許さない』
アルヘオハルピュイアは肩越しに振り返ると、
「く、そっ……僕は……ここでも認められないのか」
「シル……」
「同情、なんてするなよ。僕の居場所は、どこにもなかったって……それだけだ」
「馬鹿言うな。オレたちはお前を愛してた。オレも父さんも母さんも、爺様も婆様もそう思っていた。お前と思想が合わなくても、お前を嫌う事なんてなかったのに」
「ふん……僕を歪んでいると正そうと、していただろう……? 僕からしたら、歪んでいるのは兄さん達の方だ……。そんな僕たちが、相容れるわけは……ないんだよ」
「互いの思いが交わる場所を、オレ達は探さなくちゃいけなかったんだ……」
シルヴィスの命の灯が尽きかけている。
回復魔法で体の傷は癒せても、燃やしていた命までは戻せない。シルヴィスが大きく咳き込んで、血の塊を吐き出した。飛沫がラルの頬を赤く染める。
「……兄さん、止めを。許されるとも、思っていないし……っ、許しを乞うつもりもない……」
気付けばわたしの頬が涙で濡れていた。
シルヴィスのした事は許されない。だけど……もっと早くに彼らが歩み寄っていたなら、違う結末があったのではないかと思ってしまうのだ。
わたしの肩を抱いてくれるシャーリーさんの目元も、赤くなっていた。
「嫌いだった、なんて……ほんとは嘘だよ。兄さんの事が……羨ましくて、仕方なかった」
シルヴィスの声が小さくなっていく。呼吸が浅く、そして短いものに変わっていく。苦しそうに顔を歪め、大穴の開いた腹部から流れる血は止まる事を知らないようだった。
「……お前は、オレの大事な弟だよ」
ラルの言葉に嬉しそうに笑ったシルヴィスはゆっくりと目を閉じる。ラルはシルヴィスの首を掌で包み……ゴキ、と鈍い音がした。シルヴィスの手が力を無くし、だらりと地に落ちた。
ラルは地面にシルヴィスを寝かせると、胸の上で両手を重ねさせる。
立ち上がったラルの横顔が余りにも悲しそうで、わたしは思わず駆け寄っていた。
「ラル……」
「……送ってやりたい。一緒に居てくれる?」
「当たり前でしょ」
ラルは両手に炎を生み出す。青く、白く色を変えるその炎は凄まじい程の熱を放っていた。
「さよならだ、シル。その罪がいつか許されるよう、願うよ」
手の中で巻き上がる炎が、意思を持っているかのようにシルヴィスの元へと身を踊らせる。瞬く間にシルヴィスの体は炎に包まれて、そして……あっという間に溶けて消えてしまった。
残った白い煙だけが、空にのぼっていく。それがまるで、心だとか魂だとかそういうものにも思えてしまって、わたしはまた泣いてしまった。
弟を送らなければならないラルが、あまりにも悲しくて。
伺い見たラルの頬も涙で濡れていて、わたしはラルの手をそっと握った。のぼっていく煙を眺めていたラルはこちらを見る事はなかったけれど、それでもしっかりと手を握り返してくれる。
その温もりの力強さに安心したら、気が抜けてしまったのかもしれない。遠くにいっていた痛みまでひどくなって戻ってきて……わたしの視界は暗転した。
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