26.雨と決意
雨はまだ止まない。
この世界に取り残されたような感覚に陥るのに、それが嫌じゃないのは……きっと、ひとりじゃないからで。
「オレはアヤオの傍にいたくて、キミもそれを許してくれた。今はそれだけでいいんだ。オレを好きになって、なんて今は言わないから」
わたしの逃げ道を許してくれているラルは、やっぱり大人びて見える。わたしよりも年上なのは間違いないんだろうけど……経験不足が露呈しているようで、何だか悔しいような気持ちもある。
でも、今はそれに甘える事にした。胸の奥がきゅっと締まるような、そんな感覚には蓋をして。
「ねぇ、アヤオの話も聞きたいな」
甘やかな声から一転した明るい声色。雰囲気さえもぱっと移り変わってしまうようだった。
「わたしの? 前に居た世界の事?」
「そう。アヤオがどんな世界に居たのか。嫌じゃなかったらでいいんだけど……」
「嫌じゃないよ」
わたしは上体を起こすと、足を床に下ろした。空いた隣の場所をぽんぽんと叩いて促すと、ラルは大人しくそこに座った。体調を心配するように眉を下げているから、大丈夫だと笑って見せた。
「わたしは学生だったの。お父さんとお母さん、小学生――年の離れた弟との四人暮らしで、黒い猫を飼っていたんだ」
「年の離れた弟……それでオレを保護してくれた?」
「そういうわけじゃないよ。ただ一緒に過ごすようになって、弟にしていたみたいに世話焼きだったのは否定しないかな」
「そっか……もしかして弟さんと一緒に風呂に入ってた?」
肩に羽織っていたブランケットを膝に掛け直していたわたしは、それをくしゃりと握ってしまった。お風呂の話題に動揺した様子が可笑しかったのか、ラルが肩を揺らしている。
「えーっと……うん、入ってた。ごめんね、大人だって分かっていたらあんなにお風呂に誘ったりしなかったんだけど」
「オレもあの時は、自分が本当はこの姿だって覚えていなかったから、気にしないで」
「うん……でも、もし入ってたら気まずかったね」
「オレは幼体だったから欲情はしなかったと思うけど、思い出せちゃうのはまずいよねぇ」
「よ、っ……!」
何を言っているんだこの人は。
耳まで熱くなってしまって、自分の顔がどんな色になっているのか想像するなんて容易だ。手近なクッションを手にラルを叩くと、平然とそれを受け止めて笑っている。
「ごめんごめん」
「もう、ほんとに恥ずかしいんだからやめてね」
「うん。アヤオは……元の世界で幸せだった?」
クッションをソファーに戻したわたしは、背凭れに体を預け直した。座面に足も乗せて膝を抱えると、何となく体が揺れてしまう。
「幸せだったよ。わたしの居た国は平和でね、不自由ない生活が出来ていたし。もちろん、悲しい事件とか、恐ろしい事も沢山あっただろうけど……何となく、それはわたしとは遠い場所での出来事のような、そんな気がしてた。
変わらない穏やかな日常がずっと続くと思っていたし、それを疑う事も無かったんだ」
「そっか……。じゃあ、帰りたいよね」
元の世界に帰る。
ラルをこの世界に残して?
わたしと一緒に居たいと、外で暮らす事を決めた彼を……この世界に残して帰るの?
帰りたかったはずだ、わたしは。
家族の待っている、あの世界へ。家族だって心配しているだろうし、きっと悲しい思いをさせている。あの穏やかだった世界へ……わたしは……。
「ごめん、意地悪な事聞いちゃったね」
黙ってしまったわたしを
「ううん、ちょっと分からなくなっちゃった。帰りたかったはずなのに……この世界に慣れてきているわたしも居て、この世界で友人も出来て……だから、分からない。それに帰れないって諦めていたから」
ラルがわたしの肩を抱く。引き寄せられるままに体を預けると、ふわりと石鹸の香りがした。
「もしまたわたしが転移して、元の世界に帰れたとして……わたしが暮らしていた時に戻れるとは限らないんだって。実際に色んな世界の過去の人、未来の人が、この世界では同じ時間軸に転移してる。色んな時間や世界が絡み合って空間を越えてくるって、アカデミーの先生は言っていたの」
わたしの言葉を、ラルは黙って聞いている。時折くれる頷きの度に、ラルの赤髪が頬を擽った。
「だから……やっぱり分からない、かな。自分の気持ちなのに、自分でもよく分からない」
あれだけ帰りたかったはずなのに。諦めたくても、心の奥底では渇望していたはずなのに。
「オレは狡いし優しくないから、アヤオを帰したくないって思う。帰った方が幸せになれるってわかっていても、オレの傍から離したくない」
「……ラルは優しいよ?」
「優しくないでしょ。でも今の話を聞いて、改めて思うんだ。オレがアヤオの居場所になろうって」
肩を抱く腕に力が籠る。寄り添う体勢が恥ずかしいのに、落ち着くのはどうしてだろう。
離れる事も出来ないままに視線を上げると、色を濃くした青と紫の混ざった瞳がわたしの事を見つめていた。
「心の隅にでも留めておいて。オレがそう思っているって」
ふっと表情を和らげたラルにつられるように、わたしも笑った。肩を抱いていた手が、肩から腕へ滑り落ちていった。
「そうだ……ちょっと聞いてもいい?」
和らいだ雰囲気に、今なら聞けると口を開く。ラルはどうかしたかと首を傾げていた。
「ラルが、その……わたしを好きだって言うのは、わたしがラルを助けたからとか、そういう事じゃなくて?」
命を助けられたその気持ちが、好意とごちゃ混ぜになっているんじゃ……なんて、ちょっと思ってしまうのも仕方がない事だと思う。だって、そんなに想って貰える要素が思い浮かばないんだもの。
「それだとオレは、タパスさんの事も好きになってるよ」
確かに。
余程可笑しかったのか、ラルが声を堪えて笑っている。小刻みに揺れる肩からするに、ラルのツボに入ってしまったらしい。
「……そういうところも可愛いねぇ」
笑いすぎで呼吸を乱したラルが、ぽつりと呟く。そういう一言にもわたしの鼓動は簡単に乱されてしまう。ちょろいのか、わたしは。
「お茶でも淹れようか。待ってて」
わたしの頭を撫でてからラルが立ち上がる。キッチンに向かうその背を見つめて、ふぅと小さく吐息が漏れた。
雨はまだ止まない。
窓から見えるのは灰色の空。雨に濡れて歪んだ景色も、悪くないなと思った。
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