空のお姉さん
はなまる
第1話
ちょうど昼間の月のように、白くぽっかりと空に浮かんでいる。少し寂しそうに見える後ろ姿も、昼の月に似ている。
小さい頃から僕はその人を『空のお姉さん』と呼んでいる。シルエットが夏物のワンピースを着ているように見えるし、肩までの髪は、風に吹かれてふわりと広がった形だった。
僕には、高校生くらいのお姉さんの後ろ姿に見えたんだ。
『雲でも、見間違っているんじゃない?』
家族や友だちに言うと、大抵そう返された。
ホラーが苦手な妹はこの話をすると、とても怒る。
『嫌だって言ってるのに! 私には全然見えないし、そんなの信じない!』
別に、怖くないんだけどなぁ。
小学校低学年の頃、僕はなんとか空のお姉さんの正面を見たくて、自転車で追いかけたことがある。
お姉さんが笑っているのか、寂しそうな顔をしているのか知りたかったから。
あと、ちょっとスカートの中も見えないかなぁと思っていた。そういう年頃ってあるよね。
僕は誕生日に買ってもらった、ピカピカのマウンテンバイクにまたがって、今日こそお姉さんの正体を突き止めてやるぞって意気込んでいた。
でも、どんなに速く走っても、どちらの方向に走っても、僕とお姉さんの距離は少しも変わらなかった。
僕はがっかりしたけれど、お姉さんと追いかけっこをしているみたいでちょっと楽しかった。思えばあれが僕の初恋かも知れない。
月や雲と同じように空にいる。それが『空のお姉さん』だ。決して手は届かないけれど、それでいいと思った。
両親はほんの幼い頃は笑って聞いてくれたけれど、小学校に上がる頃には心配するようになった。
まずは眼科に連れて行かれた。
『飛蚊症』や『光視症』という、実際にはないものが見える病気があるらしい。
瞳孔が開く目薬をさして検査をした。検査はすぐに終わったけれど、そのあとしばらく視界がぼやけて、なかなか元に戻らなかった。
周りのものが、全てぼんやりとかすむ視界の中で『空のお姉さん』だけはいつも通り、はっきりと見えていた。
僕は『空のお姉さん』を、目で見ているのでは、ないのかも知れない。
次に、カウンセラーの先生のところに連れて行かれた。
『妄想癖か、虚言癖があるのかも』
まあ、そう思われても、仕方ないかなって思う。
『不安に思うことはない?』
『さみしいと感じることは?』
『誰かにイジメられたり、イヤなことをされたりしたことはある?』
『ひとりが好き?』
『夜は眠れている?』
太った眼鏡の女の人に色々な質問をされた。僕は特に不満を抱えて暮らしていたつもりはなかったので、正直に思った通りのことを伝えた。
最後に『空のお姉さん』のことを詳しく聞かれた。
・お姉さんは髪も服も手足も全て白一色だ
・昇りはじめた月、三個分くらいの大きさだ
・お姉さんは移動はしない
・お姉さんはいつも西の空に見える
・雨の日はいない
・夜もいなくなる
・いなくなる瞬間や出てきた瞬間は見たことはない
・いつも同じポーズで、手も足も髪の毛も動かない
・どこから見ても後ろ姿だ
僕は思いついた順番で、思いつく限りのことを全部伝えた。
カウンセラーの先生が、どういう結論を出したのか、僕は教えてもらえなかった。そのあと何度か先生のところに通って、いつの間にか行かなくなった。
次は心療内科へ連れて行かれて、また色々質問され、そして最後には空手の道場に通わされた。
今なら両親の思考の流れが、何となく分かるけれど、当時は『なんで空手道場?』と疑問に思った。今はとても心配してくれていたんだと、感謝の気持ちすらあるけれど、当時はわかってくれないと拗ねたりもした。子供だったなぁと思う。
そんな風にはじめた空手だったけれど、心療内科やカウンセリングより楽しかったし、友だちもできた。なんだかんだで、けっきょく今も続けていたりする。
そんな小学生時代を過ごし、僕は『空のお姉さん』ことを、誰かに話すことはなくなっていった。
心配させるのは悪いなと思うし、次はお寺とか宗教関係の場所に連れて行かれる気がして、それはちょっと嫌だったから。
中学生になって、部活や勉強が忙しくなったけれど、僕は相変わらず空を見上げていた。お姉さんは少しも変わらずに、そこにいる。
昼間の月のように少し頼りない風情で、ぽっかりと浮かんでいる。それは僕を安心させた。それが僕の日常だった。
ところが……。
それはある日の、良く晴れた午後のことだった。
雨でもないのに、お姉さんが空からいなくなった。
僕はぐるりと、360度回ってお姉さんを探した。こんなことは初めてだったので、自分でも驚くほど動揺してしまった。
なにかとんでもなく、悪いことが起きる気がする。何もかもが台無しになってしまったみたいに感じる。
意味のわからない不安に、押しつぶされそうで、自転車のペダルを踏みこむ足が、ガクガクと震えて、冷や汗が背中を伝って落ちて、頭がガンガンと痛み出した。
僕は逃げるように……空を見ないようにして自宅に駆け込んだ。実際、怖くて空を見上げることなんて、とてもじゃないけれど出来なかった。
自宅の鍵を震える手で開けて、後ろ手でドアを閉める。僕は空から逃げることが出来たのだろうか?
昼間だったけれど、部屋の明かりを全部点けて歩く。テレビも点ける。
両親や妹に電話してみた。LINEも送る。Twitterを開き、仲の良いフォロワーを呼んでみる。僕は誰かと関わり合いになって、早く安心したかった。
誰からも反応がないまま、自分の部屋のドアを開く。
空のお姉さんは、そこにいた。
部屋の隅に、置物のように佇んでいた。
空にいる時と同じで、いつも通りの後ろ姿だ。紙のように真っ白い身体は、ゆらゆらと揺れていた。お姉さんの身体には厚みがない。ペラペラのコピー用紙みたいだ。
僕はこれを見ていたの? 小さな頃からずっと? こんなものが空にあって、僕と付かず離れず、ずっと着いて来ていたの?
僕は声にならない悲鳴を上げて、心の中で繰り返した。
やめて、振り返らないで‼︎
僕はお姉さんの顔が見たかったはずだ。お姉さんの正体が知りたかったはずだ。
なのに、どうしてこんなに怖いんだろう。
お姉さんが、ゆっくりと……本当にゆっくりと……振り向いてゆく。どちらかというと『めくれてゆく』と言った方が正しいかも知れない。
紙細工のようにのっぺらな顔に、スウッと切れ込みが入る。切れ込みはゆっくりと弧を描き、目と、口を形作ってゆく。
どこを見ているのか、さっぱりわからない目は、それでも僕を見ているとはっきり断言出来る。
『ヒャッヒャッヒャッヒャッ‼︎‼︎‼︎‼︎」
唐突に、何の前触れもなく、お姉さんの口から、狂ったような笑い声が漏れる。
体温の感じられない……一切の抑揚のない、笑い声。これは、生きているの? 意思を持っているの?
僕は両手で耳を塞いで、その場にうずくまった。
長く、長く続いた笑い声が、ようやく聞こえなくなって、あたりが静まり返る。
目を開けるのも、顔を上げるのも、怖くて仕方なかった。でも、このままうずくまっているのも、怖くて堪らない。
僕は目を開き、次に恐る恐る顔を上げると、すぐ目の前に、お姉さんの顔があった。
「ヒッ!!」
短く声を上げて、座ったまま後ずさった。
お姉さんの口元が、チリチリと音を立てて裂けてゆく。微笑むような口元が、大きく切れ上がって赤く染まる。
『今までも、これからも、ずっと一緒だよ!』
お姉さんは僕の耳元に口を寄せ、少女のような声で、確かにそう言ったんだ。
空のお姉さん はなまる @hanamarumaruko
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます