エーデルワイスの少女

千束

序章 白い頭


 東京。

 日本で最も繁栄した都市。

 そこを代表する東京湾の一角で、事は起きていた。

 海を背に異形の男が息を飲む。

 異形。そう、異形と称するしかない姿だった。

 大きく開いた目玉は常人の数倍もあり、横に広くやや飛び出しているようにも見える。成人男性程の背丈なのに骨格が浮かび上がる程痩せ細り、そのくせ脚筋や胸筋とった一部の筋肉は発達し、かなりアンバランスな姿だ。更に特徴的なのは口に収まりきらない長い舌。だらしなく垂れ下がった舌は地面に着きそうな程長く、唾液が伝って生み出すてかりがより存在感を醸し出す。

 シルエットは人間そのものだからこそ不気味さが一層際立つ。

 とある作品の言葉を借りるなら、インスマスという存在そのものだろう。



 ――インスマスは焦っていた。

 今まさに海から出てきて人を襲うぞ、という見た目をしておきながら、その姿はむしろ追い詰められたと言っていい。

 無論、異形の姿だからといって常に加害者とは限らない。それでも、少なくとも力量差という観念で言えば、インスマス面は今現在、弱者という立場だった。

 インスマスの視線の先には、刻一刻と歩みを進める強者の姿がある。


「鬼ごっこはお終いか? フロッグマン」


 強者は一見普通の男だった。

 雪のように白い短髪とは対照的な赤いコート。精悍な顔付きは威圧を感じるが、柔和な笑みでも浮かべれば気のいい青年にも見える。ベルトに付けられた特撮物のキーホルダーなど、良くも悪くも雰囲気を崩している。

少々派手ではあるが普通の男性と言っていい――その両手に握られた銃を除けば。

 白と黒の対の拳銃。溝に流れ込んだ血のようなラインが、インスマスの身の毛を詰める。

 距離約二十メートル。そこで男は止まった。


「その足は逃げ足にしか使えないのか? だとしたら立派な舌も期待出来そうにないな」

「た、助けてくれ、上からの指示に従ってただけなんだ……」

 長い舌でありながら流暢に喋るインスマスに、男は嘲笑する。

「ああ、嫌な上司を持つと苦労するよな。分かるよ。――でも俺には関係ないね」


 男の白い銃が動く。

 とっさに身構えるが、銃口はこちらに向くことはなく


「最近は頭を白くするのが流行ってるのか?」


 己の頭に向け、二度小突いた。

 一瞬、意味の分からない質問に顔をしかめる。

 インスマスの頭部。量こそ少ないが、確かに男と同じ白い髪が生えている。


「最近のミュータント共は白髪の連中が多くてな。困るんだよ。この頭見ただけでビビられてさ。これでも地毛だぜ?」

「いや、俺のこれも地毛だからなんとも言えないが……」

「マジか。似合わないから染めた方がいいぞ」


 笑いながら冗談みたいな会話をする。

 追い詰めた側と追い詰められた側の会話ではないが、間違いなくインスマスの気は僅かに緩んでいた。

 その気を引き締めるように、すっ、と男の表情が変わる。


「お前も衣笠組の組員か? なんであんなことをする」


 インスマスは息を詰める。

 が、すぐに吐いた。黙ったところで意味がない。それどころか己の命を危機に晒すだけだ。


「知らない。俺は命令に従っているだけだ」

「目的も知らずに孤児院を襲ってたのか」

「そういうものだろ。裏社会ってのは」

「それもそうだ。つまりお前は下っ端ってことだ」

「…………」

「まあいいや。そういうことなら所詮サブターゲットだ」


 男はホルスターに銃をしまうと、背を向けて歩き出した。

 もうインスマスに興味がないかのように、振り向くことも質問もなかった。


「見逃してくれるのか?」

「もうあの孤児院に近づくなよ。衣笠組とも縁を切れ」

「ああ……ありがとう」


 やった、とインスマスは笑った。

 男の背中はまったくの無防備。――仕留めるのは至極簡単だ。

 インスマスが上の命令に従っているのは事実だ。

 だが、嫌な上司だと思ったことはない。

 自ら望んでこの世界に足をつっこみ、自らこの上司の下で働くことを望んだのだ。

 不満はなく、むしろ楽しんで仕事をしていた。

 特に子供やこの男のように――無防備な相手を狙うのは趣味と言っていい。


 安定性を増すため両手を地面に着ける。

 そして舌を口の中にしまう。

 伸びたアコーディオンを折り畳むように縮め、舌先を目標に定める。

 目標は左右にぶれることなくまっすぐ来た道を戻っている。

 ……終わりだ。

 無防備な背中に笑いかけ、舌を発射した。

 この舌は見た目通り特殊な舌で、筋肉の中に骨がある。舌の全長に対し半分も満たない骨だが、蛇腹剣が如く伸ばすことで、そして先を筋肉のみにすることによって威力と速度を上昇させる。

 その速度は瞬きする間すら許さない。人が対応出来る範囲を超えている。ましてや、背を向けているなら反応すら出来まい。

 着弾は発射とほぼ同時。すぐに血の味が舌に染み渡る――


「は……?」


 ことはなかった。


 避けられた。

 左脚を軸に半回転。

 男が取った行動は、たったそれだけだった。

 ありえない。ありえてはならない。

 繰り返すが、人が対応出来るわけがない。目の前の銃弾を避けるようなものだぞ!

 出来るとなれば、それこそ


 ……俺が狙うのを分かってたのか!?


 ならば背中を見せたのは挑発行為に他ならず、


「カエルは水辺がお似合いだぜ」


 己が失われる瞬間に、声がそう残響する。

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