第50話 主上との夜のあれこれ

 翌日昼前に進水式が執り行われた。

 天気は快晴で、素晴らしい式典日和だった。燦燦と降り注ぐ日差しを浴びながら、風に膨らむ真っ白な帆を鮮明に想像できた。

 進水式の執り行われる場所へ行くと、船は陸の上に鎮座していた。これから海に浮かべるのだという。だから進水式なのかと僕はここでやっと理解した。初めて見る主上の船はとても大きくて、本当に水に浮かぶのかと少し疑問になるほどだった。

 人々が一列に並ぶその一番前に主上が進み出る。そして、道士たちの航海の無事を祈る祝詞が読み上げられると、主上が合図を送る。それから、陸の上の新しい船がゆっくりと動き出した。その大きな船体が海に初めて入って行く様は荘厳な感じがした。固唾をのむ人々はこの船の建造に携わった人たちだろうか。筋骨隆々な男たちが何十人と肩を並べている。その中にはまだ年若い男女の姿もあった。

 そして、問題なく海面に浮かぶ船のさまを見届けると、居並ぶ人々は口々に歓声を上げ、それが大きなうねりとなって僕の体中に響いた。

 主上や侠舜の顔も明るかった。

 その後、主上から労いと祝いの酒と料理が人々にふるまわれた。ただ見学に来ていただけの人も関係なく参加できるらしく、人数も盛り上がりもとんでもないことになっていた。用意した食事がなくなると、近場の料理人たちが食事や酒を持ち寄って商売が始まり、陽気な人々はさらに歌い騒いだ。そんな人々の宴は夜まで続いていたようで、寝る前に見た窓の向こうでは町の一角がいつまでも明るかった。僕は夢現に人々の笑い声を聞いた気がした。

 こうして二日目は終わった。

 三日目は朝から主上が忙しそうに立ち働いていた。侠舜も雲嵐も慣れない土地での作業に四苦八苦しているようだった。僕は静かに窓辺に座って港町を眺めた。昨日の喧騒は嘘のように残っておらず、人々は彼らの日常を過ごしているようだった。

 視線の向こう、青い海の上に、白い巨大な雲が幾本も海面から立ち上がるようにして空へと延びていた。僕はこんなに巨大な雲をみたことがなかった。そんな空を背景に青い蒼い海の上をいくつもの船が滑っていく。あれにはどんな人が乗っているのだろうかと想像してみた。

 その夜は地位のある人々を集めた晩餐会があった。裏方のほうでは怒声が飛び交うのを聞き、それが収まるころに眠りについた。

 四日目は昼過ぎににわか雨が降った。窓を、壁を、屋根を、地面をたたきつける雨粒の大きさと激しさ、同時に鳴り響く雷に僕は驚いた。こんな雨は皇都では降ったことがあまり無いと思う。町の方では人々がこの雨の中、まったくひるむことなく今までと同じように忙しく働いているようだ。初日と二日目に聞いた街の喧騒が耳の奥で聞こえるようだった。夜、宮殿内で食事会があるらしく夕方から続々と人々がやってくるのが見えた。僕は馬車での移動のことを思い出しながら眠った。

 五日目は同じ部屋から見る景色に飽いて、僕は別の部屋に移った。北側に大きな窓のとられたその部屋は、強い日差しが差し込まないため少し薄暗い印象があったが、すぐになれたし、日光が入らないので窓を開けると過ごしやすかった。

 大きな窓をいっぱいに開いて、離宮のやや北よりの方向、湾に流れ込む遥河の流れてくるほうを見た。眺めながら、この膨大な時間をどうやってつぶそうか考えた。夜までが本当に長いのだ。そして、夜も長い。もしかしたら夜の方が長いかもしれない。

 廊下の方では今日も幾人かが忙しく立ち働いている音がする。雲嵐は仕事を覚えるので大変そうだ。人々の様子から今夜も、宮殿のどこかで何かがあるらしいけれど、僕にはわからなかった。そういえば、主上の言っていた会う予定の人とはどうなったのだろうか。もう僕の知らぬ間に用事は終わったのだろうか。まぁいいや。僕には関係のないことだから。ここに滞在するのも後三日だ。

 夜、僕は一人で食事を摂り、さっさと風呂を済ませ、明かりを消して眠った。日中ほとんどすることもなく、全く動かしていない体に疲れなどなくて、寝付くのに多大な時間を要した。なかなか眠れないことがここにきてからの僕の悩みだった。寝台の広さがなんとなく広い海を思い起こさせた。



 それでも知らぬ間に寝てしまうものだ。僕は夢現の中で自分の名を呼ばれたような気がして目が覚めた。

 なんだろうと思いながら薄く目を開いて頭を巡らせると、かすかに部屋が明るい。徐々に頭が回り始めて、その明かりが玻璃燈から漏れ落ちているのだとわかった。寝る前に消し忘れたのだろうか?

「賢英」

 そう思っていると、すぐ近くで名前を呼ばれた。

 驚いてそちらを向くと、主上が寝台に覆いかぶさるように腰を折った体勢で僕の顔を覗き込んでいた。そしてもう一度僕の名を呼ぶ。

「あれ、主上。どうかされましたか?」

 一気に覚醒する。

「起こして済まない。悪いとは思ったのだが、どうしてもこの時間しかなかった」

 僕は曖昧に返事をして上体を起こすと、主上がすぐに僕の上からどいてくれた。かすかに酒の匂いがした。

「どうかされましたか?」

 僕は再度同じ質問を繰り返した。

「海に行こうと誘ったのは私の方だったのに、お前をこの数日放っておいて本当に済まなく思っている」

 主上の台詞に僕はここ数日のことを思い出した。

「いえ、お気になさらないでください。お忙しいのは分かっておりますから。何時なのかわからないですが、こんな夜中までお疲れ様でした」

 僕はできるだけぶっきらぼうにならないように答えた。

「それでも、お前の相手をする時間くらいは作れたはずだ。仕事の合間にお前の部屋に立ち寄るくらいのことはできていたんだ」

「本当に大丈夫ですよ。ほら、朝食の席は一緒でしたし。私は大丈夫です」

 主上が僕の顔をじっと見つめる。

 穴のあくほどとはこういうことを言うのかな?すごく長い間じっと見つめられて僕は変にどぎまぎしてしまった。

「怒っているか?賢英」

「いえ、そんなことはありません」

「怒っているだろう?」

「いえ」

「本当か?」

「はい。なので主上が気に病まれることはありませんよ。お忙しいのは重々承知しております。だから、大丈夫ですよ」

 できるだけいつも通りに。

「そうか、なら良かった……」

 主上が安堵の吐息を漏らした。

「それでな、賢英。明日なんだが」

「はい」

「一日時間を作ったのだ。それで、明日何かしたいことはないかと思ってな。寝ているのは分かっていたんだが、どうしても今聞いておきたいと思って。したいことはないか?何でも言ってくれ」

 主上が一つ頷いて見せる。

「いえ、特に希望のようなものはありません」

 主上の顔が曇る。僕は慌てて言葉を繋ぐ。

「それよりもせっかくのお休みなのですから、主上はゆっくり体を休めてください。こちらに来てから本当に忙しそうでしたから」

 主上の顔が険しくなった。

「やっぱり私に腹を立てているのか?」

「いいえ、そんなことはありません。どうして怒る必要があります?」

「もし、仮に腹を立てていないとしても、賢英。あまりに物分かりが良すぎるというのは、場合によっては好ましいことではない。なんでもいい。何か希望はないか?」

 意識して顔に笑みを浮かべる。

「お気遣い感謝します。ですが、本当に今はこれといって何も思い浮かばないのです。それに、物分かりの良いふりをしているわけではありません。大丈夫です。私なんかのことよりも、ご自身のお体のことを第一に考えてください」

「やはり頭に来ているよな。済まなかった」

「いえ、本当に……。あの、ただちょっと眠いだけです。こんな時間ですから」

 こんな態度の主上は見たことが無くて僕は慌てて言い繕う。

「あぁ……。そうだな、済まなかった。この時間しかなかったのだ。折角明日一日時間がとれたから、今日のうちに、まぁ今日といってももう日付は変わっているが、お前の希望を聞いておきたかった。本当はここに来る前は、時間が空いたらお前と何か遊ぼうと思っていたんだ。なのに、際限なく人はやってくるし、泰然は仕事を持ってここまで追ってくるしで。いや、言い訳はよそう。お前を一人きりにして、済まなかった。不甲斐ない私を許して欲しい」

 どうしよう。

 僕は心の奥にあるものが急激にしぼんでいくのが分かった。それと同時に冷静になる。考えてみれば主上が忙しいのは当たり前のことなのに。侠舜だけでなく、雲嵐までも忙しく仕事をこなしている様子を見ればわかることだったのに。

 申し訳なさで胸がいっぱいになる。自分のことで頭がいっぱいだった。放っておかれている事実に一人で腹を立てていたことが恥ずかしい。暇を持て余して一人で怒っていた僕に対して、主上はこんな夜中まで、僕のために時間を作ろうとしてくださっていたのに……。

 どうしよう。罪悪感で胸がいっぱいだ。

 僕はなんて子供なんだろうと思う。恥ずかしさで顔を上げられない。

 どうしようもなくてそのまま俯いてじっとしていると、ぎしりと寝台の軋む音がして、僕は顔を持ち上げた。すると主上が布団の上に乗ってくるところだった。

 主上の太い腕が僕の体を抱き込む。

「悪かった。独りぼっちにしてしまっていることには気づいていた。お前が怒るのも無理からぬことだ」

「いえ、僕は……」

「どうしたら許してくれるのか、教えて欲しい」

 そう言いながら僕の顔を覗き込む。黒い瞳が微かに揺れた気がした。

「申し訳ありません。僕が子供でした。期待して、それが裏切られたと思って一人で拗ねていただけなんです。悪いのは主上ではありません。ごめんなさい。僕の方こそ、許してもらえますか?」

 主上を安心させたくて僕はなんとか微笑もうと頑張る。それをみて主上の表情が緩むのがわかった。

「ええと、しゅ……」

「うん?」

「いえ、奏凱さまは、何かしたいことはありますか?」

 かわりに訊いてみると、主上が首を傾げる。

「私のことはいい。お前のやりたいことを聞いている」

 主上の頬に手を伸ばしてみた。すこしざらついた肌をなでる。

「では僕は、奏凱さまがしたいことにご一緒したいと思います」

 主上が少し困った顔をして、僕の右手に自分の左手を重ねる。確かめるように指が僕の手の甲をなぞる。

「奏凱さまはいつも僕の希望を聞いてくれます。なので、今回は僕にあなたの希望を叶えさせてください。といっても、僕にできることはほとんどないのですが……」

「そんなことお前が気にすることではない」

「いえ、気にしなくてはいけないことでした。なので、教えてください。奏凱さまは明日何かしたいことはありますか?」

 僕の表情を見て折れそうにないとわかってくれたようで、やっと主上が真剣に僕の提案を検討する気になったようだった。

「したいこと……」

 主上が難しそうに考え込む。

「なにかありませんか?」

「本当に何でもいいのか?」

「はい。もちろんです」

「急に尋ねられるとなかなか難しいものだな」

「でしょう?」

 僕はくすくす笑った。

「そうだな。だったら、その、なんだ。お前には酷くつまらないと思うと言い出しにくいのだが……」

「そんなことはないと思いますよ」

「町に降りてみたい。実は今まで一度もないのだ」

「町ですか?歩き回るだけですか?」

「色々見て回るというのをしてみたいなと。あぁ、でもお前にはつまらないだろうな。済まない。他のことにしよう」

「いえ、それでいい、いえ、それがいいです。この港町はここ数日ずっと見ていたのですが、皇都よりもなんだか活気があって、雰囲気が違う気がしていました。僕もちょっと町に降りてみたいです」

「そうか」

 主上の顔が明るくなる。

「それで決まりだな」

「ですが、侠舜は許してくれますか?」

「大丈夫だ。明日休みの許可をくれたのも侠舜だからな」

「そうなんですね。この数日本当にみんな忙しそうだったのに、僕は何もできなくて」

「気にするな。そうと決まればもう遅い。早く眠らないと明日寝坊してしまう」

 そう言いながら主上が僕の横に潜り込んできた。一緒に眠るのは久しぶりな気がした。

「すみません。一人でふてくされて、奏凱さまには嫌な思いをさせました。僕から声を掛ければ良かったのに。今後はちゃんと自分の気持ちを言いますね」

「あぁ、気に病むな。私の落ち度だ。ただ、そうだな。そうしてくれると嬉しい。私は至らないところが多いのだ。早いうちに不満があれば知らせてくれると助かるよ」

 そんなことはないのに。

「それから、もっとわがままを言ってくれると嬉しい」

「わがままはお妃さまたちからたくさん言われているのではないですか?」

「うんざりするほど聞かされてはいるが、お前からはまだわがままを聞かされていない」

「うんざりしませんか?」

「いや」

「そうですか。では、そうします。その代わり、奏凱さまも僕に不満があったりわがままを言いたくなったらすぐ教えてください」

「ああ分かった」

 それから玻璃燈の明かりを消すと、主上が僕を抱き寄せた。主上の匂いがした。

 眠りはすぐにやってきた。


※デート回になるはずだったのですが、デートまで行けなかった……

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