第49話 海へ行く
夏の焼け付くような日差しの降り注ぐ午後だった。白くまぶしい光が高い高い空から照り付けて室内に濃い影を落としているけれど、その光が室内の奥にまでは届かないのが救いだった。
部屋の薄暗がりに慣れた目を窓の外へ向けると、驚くほどの鮮やかな青い空を背景にいくつもの白い雲が浮かんでいる。仄暗い屋内と眩しい屋外との明るさの違いに、僕は思わず目を細めた。その青空を横切る鳥の姿が今は一つも見えないのは、きっと鳥たちもこの暑さに辟易しているからだろう。木陰で午睡にまどろむ鳥たちを思い浮かべてみる。
すると。
「賢英。海へ行かないか」
主上が何の前触れもなく僕の部屋の扉を開けるなりそう告げた。
扉が豪快に開く音に驚いて、声の主の方を向いたまま僕と雲嵐は固まってしまっていた。けれど硬直する僕らには一切頓着せず主上がずかずかと室内に入ってくる。
僕は何を言われたのか分からなくてただぼんやりその様子を目で追うことしかできなかった。それから幾ばくか遅れてやっと耳で拾った音を言葉として認識するに至った。
その時の僕は茹だるような暑さの中、自室ということもあり、少しだらしのない格好で長椅子に横になりながら団扇で扇いでいた。その恥ずかしい姿を主上に見られたという事実に、普段なら罰の悪い思いをしたかもしれないが、この時ばかりは思いもかけない誘いに気を取られ、そこまで思い至らなかった。
僕を幾度となく諫めていた雲嵐がそれみたことかという顔をしていることに気づいたが、主上の方が僕よりも遥かにあられのない格好をしているという事実に、罪悪感はさほど湧いてこなかった。
「海、ですか?」
「そうだ、海だ」
僕が言葉の意味を正しく認識したことに満足したように大仰に頷いて見せた。慌てて雲嵐が主上のために椅子を引こうとして、それを片手で止め、この暑苦しいのにわざわざ僕の横になる長椅子まできてどっかと空いているところに腰を落とした。
僕が起きあがろうとしたところを制すると、主上は僕の足を軽々持ち上げて、自分の膝の上に乗せた。
剥き出しになっているお互いの脚が密着して、主上の熱と微かに汗ばむ肌の感触が伝わる。
僕は慌てて起き上がると姿勢を正してきちんと座りなおした。
雲嵐が透明な玻璃の盃に果実水を注いで手渡すと、主上は一息にそれを飲み干した。
「大きい水たまりの?」
僕が人伝に聞いて頭に思い浮かべる海というものは、満々と水をたたえた大きな湖である。
「ああ、そうだ」
主上がくつくつ笑いながら言う。
「魚がいっぱい泳いでいる、青海湖よりも遥河よりも天江よりも大きいという海ですか?」
「ああ、そうだ」
「そこへ連れて行って下さると?」
「そうだ」
「みんなでですか?」
「みんなというのが誰のことを指すのかはわからないが、侠舜と、それからお前が来るのなら雲嵐にも同行してもらう予定だ。どうだ?行きたいか?」
雲嵐のほうをちらとみると、ほんのわずかに興奮しているようだった。必死に表情を押し殺している。
「行ってみたいです」
主上が表情を崩した。
「では行くか」
「いつですか?」
「明日だ」
部屋に沈黙が落ちた。遠くで雀の類が高く鳴くのが聞こえた。雲嵐も動きを一時止めてしまったらしい。
「明日、ですか?」
「ああ、明日だ。急ぎ準備をしてくれ」
そして今僕は主上と二人大きな馬車に揺られている。目的地はもうすぐだそうだ。
慌てて準備を、と雲嵐と二人頭を抱えたのは最初だけで、僕らが用意するのは着るものと装身具などの小物ぐらいで、それ以外の長旅に必要なものは、主上の移動のために準備したもので事足りるのだそうだ。一人二人人数が増えたからどうなるという準備はしていないと侠舜が言っていた。
主上に関わる諸々の用意は多めに見繕うのが基本なのだそうだ。
この旅の最中ずっと主上と同じ馬車に二人きりだった。雲嵐や侠舜と一緒の馬車にと思ったけれど、侠舜からあなたはあちらですと言われてしまっては仕方がないし、僕の方に否やはなかった。
馬車の旅は快適とは言い難いものだった。柔らかい綿入れの誂えられた座席とは言え、まる四日も座っていてはお尻が痛くなると言うものだ。それに、座っているだけなのにものすごく疲れるのは、きっと揺れのせいだと思う。
主上もさすがに馬車の中では仕事もできないらしく、暇を持て余した風というか、完全に暇に飽いた様子で目の前に座っている。日が経つにつれて、さすがにお喋りで時間をつぶせるような話題もなくなった。今ではもうお互いにぼんやり窓の外を眺めるか、うつらうつら微睡むか以外にすることがなくなっていった。こんな何も起こらないのんびりした旅では、いつものようにその日あった事を話題にあげることもできない。なにせ、だいたい一緒にいるせいで、僕が経験したことは主上も経験しているからだ。
行先、宿泊地、移動経路、移動人数、遠出の理由などなど、そういったことについてもすでに初日の内にあらかた質問してしまっていた。五日間の旅になるため、お前には不便を強いるかもしれないと謝られたが、まさにその通りだった。
けれど、この旅は僕の考えるそれよりもはるかに快適なものだった。僕個人としては、退屈だということ以外は不満のあろうはずもない。もし僕が誰かと同じ距離を旅するとなったら、もっとひどい旅程になることが分かっていたためでもある。
一度、主上にこのような長距離の移動をしなければならないとは、皇帝というのも大変ですねと言ったら、さらに遠くへ行くこともあるのだと笑いながら言われた。国土が広いというのは本当に難儀なものだと思った。
そしてまた、主上はやはり主上なのだということをこの旅で僕は思い知らされた。道中、小休憩を挟んだり、宿に宿泊するたび毎に、人々が列をなして主上にお目通りを願いでてきた。それはもう、地方の有力な家の者から地方官吏、商家の主などあまたの者たちが、少しでも主上に拝謁を賜ろうと集まるのだった。
不思議なことに、時間の許す限り主上は彼らと会い短くない会話を交わしていた。お目通りの幸運を掴んだ者たちは主上の気を引こうとあらゆるおべっかを使い、また面白い話題を提供しようと躍起になった。主上が少し水を向けただけで、頼んでもいないことをべらべらと滝のように言葉をほとばしらせながら喋り倒すのだ。
昨冬の死者についてや、山賊や追いはぎなどの治安に関する話題から、川の水量と今年の気候の見通しや、巷で流行っている様々の物品、薬のあれこれや地元の噂話にいたるまで、どのような話題でもお世辞以外のことなら主上はじっくり耳を傾けて聞いていた。
それでも、やはり時間は押し、到底全員と会うなどということは不可能で、列の半分が残っていたとしても、時間がくると侠舜が無理やり話を途中で切り上げさせて出発するのだった。
驚いたことに、目通り叶わなかった者が、そして一度主上と言葉を交わした人でさえも、付かず離れずの距離を保ちながら同行したり、或いは先回りして次の休憩地点で待っていたりするのだった。
さらに、その人々のほとんどが妙齢の女性を連れて来ていた。主上に初めて会ったあの日の宴会場を僕は思い出した。なんとかして主上と娶せようという魂胆が見え見えだった。中には少女と言っても過言でない年端もいかない子もいれば、化粧のし過ぎで元が分からないくらいに顔中が真っ白になっている女性もいた。
主上は話を振られても絶対に女性に対しての発言はしなかった。一言でも美しいなどと言おうものなら、面倒なことになるからだそうだ。本当に皇帝という地位は難しいものなのだ。
長く主上と一緒に時間を過ごして、僕は、この不自由な旅で主上が僕の知る限り一言も弱音や不満を口に出していないということに気付いていた。
眠る場所についても食事についても。野営も一度したし、食事だって宮殿のそれとは比べるべくもないものが出てくる。庶民の僕からすれば十分なものではあったが、皇帝という立場からすれば不十分な待遇であるにも関わらず、ただの一度も。
一度侠舜がしきりに申し訳ないということを口にしていたが、主上は気にするなと笑っていた。
旅はゆっくり進んだ。
遠出の目的は新しく建造された貿易用の船の進水式に出るのだという。表向きは。
本当の目的は人に会いに行くのだと教えてくれた。ただ、誰に会いに行くのかは教えてはもらえなかった。隠さなければならないほどに難しい立場の人だ、というだけでなく、何の偏見もない状態で会うほうが、きっと向こうは喜ぶだろうからと主上はおっしゃった。
旅は順調に進み、遅れもなく一向は進み、五日目の今日、到着予定の日になった。そうとわかっている僕は朝から期待に胸が逸るのを止められなかった。朝からじっと窓の景色を見ながら、内心でもうすぐ海が見えるだろうかと待っていた。
そして日が天頂に上るころ、視界の隅にきらりと何かが光るのが見えた。初めて見たそれは、空の青さに似ていて、けれどちょっと色合いの違う青に見えた。
僕がつい、あっと声を漏らしたのを聞いて、主上だけでなく、打ち合わせのために同乗していた侠舜や雲嵐も窓の外に顔を向けた。
「ああ、海が見えるところまできたか」
道を進み徐々に近づくにつれて、地平線の向こうに青い筋が左右に広がっていく。宝石箱をひっくり返したように、夏の強い日差しを反射して小さな綺羅星のように世界の果てが輝いている。
開け放たれた窓から、嗅いだことのない独特な匂いが内に入り込んできた。僕が変な匂いがすることを訴えると、それは海の香りだと教えられた。海には変な匂いがあるのだと知った。沼や湖や川のどれとも違っていた。
そして。ついにその全貌が見渡せるところまで馬車は進んだ。
海は本当に広かった。その不思議な色合いの青い景色が、終わりのない広がりを持っていることがはっきりと分かった。
不思議と胸の奥がざわついた。心動かされる景色があるとは思わなかった……。
「あの先はあるのですか?」
「先?」
「海の向こうはあるのですか?海はどこまで続いているのですか?」
「さぁ、どこまで続いているのだろうな。私にはわからない。ただ、あの海の向こうには日出ずる国がある」
「日出ずる国……。すごい名前の国ですね」
「ああそうだな。彼の国の民は勤勉で勇敢だという」
「そうなんですね」
「先生の受け売りだがな」
「そうですか……。それにしても、海は本当に大きいんですね。想像していた以上です。あの海の向こう、日出ずる国のさらに向こうには何があるのでしょうか」
「気になるのか?」
「ええ、なんとなくですけど」
「そうか」
僕は窓の外に釘付けになった。これは水たまりどころではないなと思い知った。そして、主上がどうして笑ったのかやっと分かった。
眺めていると、近づくにつれて地形や街の様子がはっきりと分かるようになってきた。入り江というらしい地形に、海に沿って町が広がっている。船がいくつも港に係留され、そのそばを人や荷物や家畜が動き回っている。青い海の上を船がゆっくりと滑るように移動しているのも見える。
風を受けて膨らむ船の白い帆が印象的だった。
「主上の新しい船はここから見えますか?」
「さぁ、どうだろう。何分私自身も進水式にでるのはこれが初めてのことなのだ。どこに自分の船があるのかすらわからない。侠舜は分かるか?」
「さぁ、私にも分かりかねます」
「だそうだ。その代わり、ほら、あそこが、私たちが滞在する予定の離宮だ」
主上が指さす先を見ると、小高い丘の上に赤く塗られた宮殿が立っていた。
「とても目立ちますね」
「私が建てさせたわけではない。歴代の皇帝の持ち物なのだそうだ」
「とても立派です。あそこへは頻繁に立ち寄られるのですか?」
「いや、年に一度もないだろう」
「年に一度使うかどうかも分からないのに、あれほど立派な建物だとは」
「そのせいで維持費が馬鹿にならないのが悩みの種だ」
「主上」
侠舜が小さくとがめるような声を上げた。
「わかっている。だが、ここで取り繕っても意味がないだろう。賢英。お前の思う通り、ああいった離宮は本当に無駄なものだと、私も思ったものだ」
僕はだまって主上の言葉を待つ。
「けれど、それもまた必要なものなのだそうだ」
「どういう意味ですか?」
「あのような離宮は、国中にいくつかある。そしてその多くは年に一度も使われない。けれど、こうして維持され、金をかけて手入れがなされているのにはきちんとした意味があるのだ。人は皇帝を敬う。けれどそれは必ずしも民にとって必要なことではない。生きる上では。民の多くは、ただ、官吏や貴族金持ちの商人たちが私を敬うから敬わなくてはならないと感じているにすぎないだろう。彼らにとって私は遠い存在で、生活には直接的には関係がないのだ。もちろん私が税率を上げたり下げたりすれば、民の生活に影響がでる。しかしその影響は税を取り立てる役人を介すことになる。民にしてみれば役人が自分たちの暮らしを左右しているように感じるだろう。故に私という存在は、民の中では存在感はほとんどないと言ってもいいのかもしれない。そんな彼らが、私の存在を身近に感じるのが、ああいった離宮なのだ」
主上が僕から視線を外して外を眺める。
「立派な離宮があり、それが全く使われていないのにも関わらず、綺麗に維持されている。それは彼らにとって皇帝の象徴となる。きっと皇都にはあのような宮殿があり、そこには皇帝という身分の誰かが暮らしていると、人は想像するだろう。そして、それが身近に皇帝という存在を意識するきっかけとなる。そうすることで人々は私という存在の価値を疑わないのだ。子供だましのようなものだが、それでも一定の意味はある」
「意味、ですか?」
「あぁ。確かに意味はあるのだ……」
その先を僕は質問できないまま、他愛のない会話をしていると離宮へと到着した。
※お久しぶりです。大変遅くなりました。
※物語を広げるよりも畳むほうが難しいのだと初めて知って、なかなか話を書くことができませんでした。小説を初めて書いたのが去年な上に、十万文字を超えたのも初めてで……。最初の想定の甘さから、今までに書いた伏線だけだと、上手く話が終わらせられないということに気付きまして、じゃあエピソードを追加すればいいと思うのですが、そう簡単にもいかなくてずっと悩んでいました。
一応もうラストをどうするかの大枠は考えてあるのですが、破綻なくラストまでいけるかを考えると、急にお話を作るのが怖くなってしまったというのもあります。
※あと、最近ずっとお絵描きに罹り切りで、お話の更新ができなかったという理由もあります。
※またちょっとずつ更新していきますので、よろしくお願いいたします。
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