第47話 主上の個人情報漏洩

※47話、48話の二話更新です。


 夜。隣では主上が寝台の上で横になっている。寝台の脇の卓の上の玻璃燈が橙色の光を投げかけているが、部屋の四隅にまでその灯は届かず暗闇が静かにわだかまっている。僕や主上を照らし出すのならこれで十分だけれど、もう一つくらいこの広い寝室にはあってもいいかもしれない。

 さきほどから、何が楽しいのだろう、主上が無言で僕の髪や指をずっともてあそんでいる。その仕草がいつもとは違って、なぜだかわからないけれど胸の奥がざわざわする。

「何かありましたか?」

 不安から単刀直入に聞いてみた。

「お前が気にするようなことは何も。いつものことだ。心配させてすまなかった」

 こちらに目だけを向けてそう言うと作り笑いを浮かべた。そして、主上は僕に触れていた大きな手を離した。

「そうですか……」

 なにがいつものことなのかはよくわからなかったけれど、僕にはそう答えるしかなかった。

「そういえば、子潤との茶会はどうだった?」

「とても楽しかったです。子潤はとても良い方ですね。それにお喋りが殊の外好きなようで、僕も雲嵐も口を挟む余地があまりありませんでした」

「ああ、昔からだ。私も随分長話に付き合わされたものだ」

 主上が思い出すような顔をしながらくつくつと笑う。

「そうなんですね。それから、一緒に太師の楊信先生がいらっしゃいました。来るとは聞かされていなかったのでとても驚きました。四つ席を用意するように言われていたので、てっきり奏凱さまがいらっしゃるものだとばかり思っていて」

「楊先生が?それは知らなかった」

「奏凱さまも知らなかったのですか。今日先生に初めてお会いしましたが、とても気さくな優しい方でした」

「もともとは叔父の教師役だったのだ」

「なるほど。だから奏凱さまのことにとても詳しかったのですね。実はお茶会が始まるまでは、何と言うか、どんな用があって呼ばれたんだろうと雲嵐と二人ですごく不安に思っていたのですが、実際は恐れるようなことは全然なくて、ちょっと拍子抜けでした。会話自体は他愛のない世間話がほとんどで、その世間話もだいたいは子潤と楊先生が話すのを聞いている感じでした」

「想像に難くないな」

「最初は他愛のないおしゃべりから始まって、子潤や楊先生がどれくらい主上と付き合いが長いのかの話を少し……。あ、あと僕や雲嵐の好きなものだったりこの宮での生活について聞かれたりしました。それから、宮でどんな人が働いてるかとかも聞かせてもらいました。僕は特に宮の中でも見知った人が少ないので、これからはそれでは良くないからと」

「そうか」

「他には、主上は子供のころからとても女性に人気があったという話も聞きました」

「……子供のころ?」

「ええ。お小さい頃の奏凱さまはとても可愛らしくて誰からも愛されていたそうで、女官だけでなく当時後宮にいた女童たちが遊び相手だったとか。後宮には女の子もいるなんて知りませんでした」

「あの頃はいくつかの宮に年端もいかない子供が侍女あるいは行儀見習いとして妃についてきていたんだ。女が後宮に入るのに齢制限が無かったせいもある。まぁ、一番の理由は私のような皇子とあわよくば親しくなって輿入れ、というのを狙っていたのだろう。それに当時の私には子潤の息子たち以外に友人と呼べる者がいなかった。あれらを除くと、私の相手をしてくれる者は後宮の中では女官か女童くらいだったのだろう。それで?」

「そうそう、後宮と言えば、女たちの間で密かに囁かれる噂話も聞きました」

「噂話?」

「全く嬉しくないのですけれど、今後宮では僕の噂でもちきりなんだそうです。前もそんな話を聞いた気がしますが。それで内容が突拍子もないものなのです。その、僕と奏凱さまが真実の愛とかなんとかいうのに目覚めて、いずれ僕が皇后位につくとか、逆に僕が女性には使えない手練手管で貴方を篭絡し、奏凱さまの寵愛を欲しいままにしているとか。さらには僕が実は平民ではなくて、先の皇帝の隠し子だとか言われたりもしているそうです。子潤はもっと婉曲的に教えてくれましたが、簡単に申し上げるとこういう噂らしいです。僕大丈夫でしょうか。主上の妃たちから恨まれたりしていませんか?」

「女が好きそうな話だ。気にするな。どうせ誰も本気にはしていない。ただの暇つぶしなのだ。後宮は閉じられた場所のためにで刺激が少ないからそんな噂が流れても不思議ではない。まぁさすがに、こう、なんだ、品位に欠ける話ではあるが」

「すごく困ります。僕は正真正銘正統なる庶民だと言うのに」

「正統なる庶民?人の口に戸は立てられぬという。放っておくしかあるまい。そのうち飽きて消えるだろう」

「そう願いたいです」

「他には何の話を?」

「それから他にも、後宮の幽霊の話も聞かされました。本当は皇太子妃になる予定だったのに、それが叶わずに井戸に身を投げた女の霊だとか、過去に後宮入りした他国の姫があまりにも当時の皇帝を嫌いで、でも後宮から出られないために姫に呪い殺された皇帝の霊だとか、皇帝に見初められて出世し、皇后の位まであと一歩というところで毒殺された女の霊など、たくさんあるそうです。どれもこれも怖い話でした」

 歴史が長いために、もしかしたらいくつかは事実が紛れているのかもしれないと思うと、後宮で繰り広げられてきた骨肉の争いの残滓に身震いがするようだった。

「で?」

「他に、ですか?」

「そうだ」

 じっと見つめられて居心地の悪さを覚える。

「まだ聞いた話があるだろう。ほら」

 歯切れの悪い言葉が続く。

「なんだ。例えば、私の小さいころの話など」

 あー……。

「いえ、その、僕が聞かされた奏凱さまのお小さいころのお話はほんの少々でしたので」

「どんな?」

「そんな話すほど大した内容ではないです。子供の頃は素直で可愛かったとか、急に身長が伸びて一気に大人らしくなってしまっただとかそういうことですよ。お二人とも本当に奏凱さまのことを大切に思っていらっしゃっるようで、ずいぶん昔のことなのにまるで昨日のことのように些細なところまで記憶しているようでした。まるで聞いている僕たちもその場面一つ一つを見ているかのようでした。特に小さいころの奏凱さまが——」

 昼間の会話をぼんやり思い出しながら話したせいでつい口が滑ってしまった。

「好きなお菓子の話をしました」

 慌てて話題を変えたけれど遅かった。

 主上が深い深いため息をついてこちらを見遣り、形の良い唇をゆがめて見せた。

「何を聞かされたのだ。全て話せ」

 主上が仏頂面で言う。

 お茶会でのおしゃべりは、実際には主上の昔話がほとんどだった。後からあとから数珠つなぎのように様々のことを思い出し思い出し話す二人に、僕らはただ聞き役に徹していただけだったけれど、二人の話が面白くて全然苦ではなかった。その内容が問題だったけれど。

「本当に、お小さいころの日常の些細なことがほとんどですよ」

 無言のまま視線で促された。

「えっと……」

 僕は子潤と楊信先生が先を争って話した事柄を思い出し思い出し、比較的当たり障りのないもの選んで話した。

 蟾蜍に驚いて転んで泥だらけになったこと。楊信先生に大好きな餡饅を差し上げようとして、袖に入れていたら、つぶれて中身が飛び出し、大変なことになったこと。お風呂上りはよく裸で逃げ出して捕まえるのが大変だったこと。毛虫や芋虫が綺麗な蝶に変わると聞いて、芋虫の詰め合わせをみんなに配ったこと。

 主上が苦虫をかみつぶしたような顔をした。

「他には?」

「これだけです」

「まだあるだろう」

 確信している風に言う。

「えっと……」

「全て包み隠さずにだ」

「怒らないでくださいね」

 僕が観念して話そうとすると、覚悟を決めたような顔で主上が頷いた。

「主上が文字の書き取りの最中に居眠りをして顔が大変なことになったこととか、八歳でおねしょをして、それを子潤と一緒に隠そうとしてお母さまに見つかって叱られたこと……とか」

 主上の眉間のしわがますます深くなった。

「主上が十か十一くらいのお年の時に、朝早くに子潤に、その、大人になったことを深刻な顔で報告にいったこととか、楊先生に嬉々として、その、毛が生えたことを自慢しに行ったことだとか、です」

 主上が片手を額に当てて天を仰いだ。そのまましばらく、主上は微動だにしなかった。

「全て嘘だぞ」

 しばらくして、断定する声が耳に届いた。

「え?」

「二人の話したことは全て嘘だ。だから今すぐ忘れたほうが良い。あれらにも困ったものだ。あることないことお前たちに話して聞かせたに違いない」

 あることあることですよね?とは言わなかった。

「ふん」

 それを最後に主上がそっぽを向いてしまった。恥ずかしいらしい。

「あの……、私だけ主上の子供の頃の話を知っているのは不公平なので、私の話も一つしましょう」

 主上の肩が揺れた。

「お前が聞かされた私の話はほとんどが嘘だが、お前の子供の頃の話には興味がある」

「恥ずかしいのでここだけの話にしてください」

 主上がこちらに振り向いて、身を乗り出す。

「実は僕子供の頃は怖がりで、妖怪とか幽霊の類が特にだめなんです。そのせいで十歳か十一歳になるまで、夜中に一人では厠にいけず、伯父や伯母についてきてもらわないと用も足せなかったのです。だから奏凱様のおねしょの話は僕笑えなくて……。あ、今は一人でいけますからね?」

「わかった。私の粗相の話は事実無根だが、わかった」

「もう今は一人でいけるんですけど、今日は子潤から後宮の怖い話をきかされたので、なんだか落ち着かない感じがしています。全然平気なんですけど」

 そう言ってわざと言葉を切る。

「そんなにか」

「はい。お恥ずかしい話ですが、昔はとんでもなく怖がりで伯母夫婦もかなり心配していました。今はもう大丈夫ですけど」

「それなら、私を頼ってくれていい」

 そう言いながら両腕に僕を抱き込んだ。そして主上のくつくつ笑う声が頭の上から聞こえた。良かった。顔は見えないけれど機嫌が直ったようだ。

「機会がありましたらそうさせていただきます。今は少しも怖くないですけど」

 主上の腕の中にいると落ち着くのは、慣らされたせいだろうか。厚い胸に耳を当ててみる。穏やかな心音が聞こえてきた。

「そういえば、子潤はしきりに僕と雲嵐のことを可愛い可愛いと言うのがどうしても腑に落ちないんです。僕、鏡を見ても自分が可愛い容姿をしているとは思えないのですが、何か特別な意味でもあるのでしょうか」

「ああ、それはたぶん、あれの息子たち、とくに悠午のせいだな。お前も知っての通り悠午は、こう、筋肉がすごいだろう」

 先ほどまでとはうってかわって、すっかり機嫌を直したらしい主上が答える。

「筋肉達磨だと子潤は言っていました」

 主上が声をあげて笑う。

「言いえて妙だな。そう、あの筋肉の塊みたいな男のせいで、潤は細い男ならみんな可愛いと形容するのだ。兄弟もなかなかだが、悠午が特に体が分厚いからな。父親はもっと普通のほっそりした体躯の男なのに、なぜあの二人からそんな子供らが生まれたのか不思議でならない」

「そうなんですね……。僕も奏凱さまと一緒にその悠午という人と訓練をしたら、筋肉がつくでしょうか」

「かもしれないな」

「どうでしょう。僕も一緒に訓練をするというのは。もう少し肉をつけろという奏凱さまたっての希望でもありますし、筋骨隆々を目指してみるのも良いかなと」

 僕は特に考えずにただ思いついたままをいっただけだったけれど、それを聞いた主上が慌てたように僕の顔を覗き込んできた。

「それだけはやめてくれ。お前が悠午のようになるくらいなら、今のままで良い。いやむしろ今のままで何の問題もない」

 珍しく焦ったように言い募ってくる。

「どうされたんですか急に。体を鍛えることは別に悪いことではないでしょう?僕も悠午さんほどではないにしても、奏凱さまくらいにがっちりした体になれば人から見くびられることも減るかなと」

「駄目だ」

「何故ですか?」

「男と女では違うのだ。最近また背も伸びたお前が重くなりすぎると、こう、いろいろと不都合が」

 持ち上げたり体を組み替えたりがどうたらこうたらとごにょごにょ言うのを聞き流した。主上の腕の中で眠気が訪れた僕は、頃合いを見計らって玻璃燈の火を消そうと伸び上がった。

「はいはい。もう寝ますよ」

「こら、大事なことだぞ」

「おやすみなさい」

 そう言ってあかりを消すと部屋は真っ暗になって、お互いの体温以外に確かなものは何もなくなった。

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