後段

第39話 始まり

 朝。

「今夜は来れない。私を待たずに寝てくれ。」

「え、あっ、はい。分かりました。」

 言葉の調子が上ずってしまいそうになった。

「なんだその顔は。」

「どうかしましたか?普通ですよ……。」

 顔面に力を込めて平静を装う。安堵する気持ちが表情に出てしまっていたらしい。

 主上の両手が伸びてきて僕の頬をつまむ。

「この顔だ、この顔。嬉しそうに見えるが?」

「そんなことは。」

「ふん。」

 僕の頬を解放すると、奏凱さまがいつものごとく全裸で部屋を出て湯殿に向かう。そういえば、侠舜が僕の世話係に戻ってから誰が奏凱さまのお世話をしているのだろう。更に言うと僕が来たばかりのころは誰が主上のお世話をしていたのだろう?

 ぼんやり寝台の上で考えていると、侠舜が来て僕を湯殿へと促す。途中足がもつれそうになって侠舜に支えてもらった。

「大丈夫ですか?」

「まぁ、なんとか……。主上はどうしたんでしょうか?ここ数日連続で僕のところにお渡りになられました。今までこんなことはなかったのですけれど。」

 最初に僕から誘った日を含めると四日連続だ。これ以上はちょっと僕の体のことも気にかけて自重してほしいのだけれど。

 ぼんやりとこの数日毎日主上がお渡りになる理由を考えている僕の横で、侠舜が気の毒そうにこちらを見ながら答えた。

「昔、まだ主上があなたと同じくらいの年齢だったころのことです。私たちが将来のために勉強を始めたころの話なのですが。」

 僕を先導しながら、珍しく侠舜が昔話を語りだした。

「私と泰然と主上と後二人の合計五人で、宮殿の一角で一緒に、今のあなたや雲嵐と同じように勉強をしていました。」

 思い出すように侠舜が虚空を見る。

「当時主上は勉強があまりお好きではありませんでした。特に芸術方面の授業は特に嫌がられました。」

「聞いたことがあります。」

 驚いた風にわずかに眉を持ち上げた顔で振り向いた。そして、立ち止まってしまった僕を促して再び歩き出した。

「好きではないといっても人並みにはこなしておられたのですよ。あからさまに授業を放棄したりやる気のない態度をとるということは絶対にありませんでした。そこだけは勘違いなさらないでください。ただ、求められる以上には頑張ろうとなさらなかっただけで。その中で主上は外国に関する勉強が殊の外お好きなようでした。口には出しませんでしたが、私たちには分かりました。目が違いましたから。」

 肩越しに侠舜は続ける。その顔は僕からは見えない。けれど、なんとなく微笑んでいるのだろうと想像できた。穏やかで優美な天上の笑みを。

 僕くらいの年齢の主上の姿を思い浮かべてみた。侠舜や泰然やそのほかの同じくらいの年齢の彼らが一緒に学ぶさまを。

 南の陽気で全てにおいてのんびりした太陽に愛された国々、危険な青い目の北方異民族の国、東の海の向こう金と銀を生み出す島国、西の砂漠にある神の教えを守る敬虔な国、草原地帯を季節とともに移動する遊牧民、その更に西にある道の終わり、科学の国々。侠舜が歌うように言葉を紡ぐ。

「ある日、数百年前の東の島国に関する文献が見つかったということで、先生が授業に持ってきて読み聞かせをしてくれたことがありました。異国の文化はとても興味深いものでした。その中に確かあったように記憶しています。」

「何がですか?」

 僕はその背に向かって質問を投げかけた。

「婚姻についての記述です。かの国の貴族社会では男が女のもとに三日連続で通うと結婚が成立すると言う風習があるそうです。今もあるのかは分かりかねますが。」

 長い廊下を僕らは進む。

「私も長く忘れていましたが今思い出しました。確か、昨晩で三日でしたね。」

 侠舜から見えないのに僕はあいまいに頷きながら肯定した。

「多分主上はそれを踏まえているのだと思いますよ。言葉にはなさいませんが。」

 扉の前に辿り着くと、侠舜が立ち止まってこちらを振り向いた。その目はとても真剣なまなざしをしていた。

「まだ十五になったばかりのあなたに頼むのはおかしなことかもしれませんが、主上を支えてあげてください。」

 射抜くような視線はどこまでもまっすぐだった。

「はい。……僕にできるのかはわかりませんが。」

 侠舜が満足そうに頷いた。

「誰もがそうです。さあ、中に雲嵐がいるはずですので、湯浴みは問題ないですね。私は用事がありますので後は雲嵐に任せます。では。」

 そう言って侠舜は立ち去った。肩の荷が降りたような軽い足取りだった。



 その夜、朝おっしゃっていたように奏凱さまはやってこなかった。代わりに、寝る前に茉莉さまより僕宛の手紙が侠舜の手によって届けられた。

 中身は先日の僕がお茶会の最中に倒れたことに対する謝罪と快気祝いの言葉と、僕の体調を案じるものだった。幾度も僕の体調を気遣う言葉に胸が痛んだ。僕のせいでどれほど繊細な心を痛めたのだろう。

 さらに僕に会わせる顔がないこと、謝罪を直接の言葉ではなく手紙という手段に頼ることの謝罪、七日後に後宮を出るということが以前と変わらぬ優美な手で書かれ、もう二度と会う機会はないかもしれないが、僕の幸せを祈っているという言葉で手紙は締めくくられた。

 僕は慌てて侠舜に茉莉さまに面会することはできないかと尋ねたが、七日後の準備のために場所や時間や警備の確保が難しいこと、僕が後宮に入れないのと同様に本来は簡単には妃達は後宮から出られないのだということ、後宮を去る準備で茉莉さまのほうも時間的余裕がないだろうということから、首を横に振られてしまった。

 ここで僕が駄々をこねることはできないというのは、現状を鑑みると自明だったので僕はそれ以上は言わなかった。代わりに、翌日一日をかけて手紙を書いて侠舜に渡した。その際一つお願いごとを頼んだ。その場では断られなかった。

 あれから奏凱さまはお渡りになっていない。けれど、それが普通のことだし、恐らく後宮を出る茉莉さまのもとに通っているのだろうと思った。後日侠舜が先日の僕のお願いに対する返事をもってやってきた。色よい返事をもらえたことに僕は感謝を告げると、いくつか確認をしてから眠った。



 そして、その日はいつも通り目覚めた。

 正午少し前、茉莉さまは彼女の居住する宮から宮殿内の中央を通って外朝と内廷とを区切る太和殿まで進む。太和殿北側の閉ざされた門が開かれ、そこで茉莉さまは形式として後宮を出る承諾を求める。それから中へと進み太和殿内で奏凱さまと合流し、いくつかの儀式的なやり取りを交わした後、二人で並んで太和殿南口まで建物内を進む。そこには大きな太和門がある。閉ざされた太和門が正午の鐘を合図にして、兵士たちの武器を打ち鳴らす音、鬨の声、銅鑼の音とともに開門される。時間をかけてゆっくりと開かれると、その向こうに外朝中央を石畳の道が広く長く伸びている。

 天へ至る道、あるいは地へ降りる道、あるいは竜の道と呼ばれるその石畳を多数の兵や官を引き連れて中央まで歩く。道の両脇には道士たちが並んでいる。そして、その道の中央では、茉莉さまの結婚相手となる人が同じように多数の人を従えて待っている。

 奏凱さまと茉莉さまの二人が中央にたどり着くと、そこで下賜の儀式が行われ、奏凱さまの承諾と天への報告の後、今度は茉莉さまとその夫となる人の二人が婚姻の儀を結んだあと、二人並んで、宮殿の正門、つまり午門へと進んでいく。

 そのように僕は侠舜から聞かされていた。

 僕は竜の道で行われる儀式には参加できないけれど、侠舜や奏凱さまの計らいで、側近のふりをして太和殿内で茉莉さまに最後の挨拶を行うことになった。といっても二言三言の言葉を交わすのがせいぜいかもしれないけれど。

 時間がきて、常には閉ざされている後宮の門が開くと茉莉さまが侍女たちを多数引き連れて出てくる。荷物の類も多数の馬車に載せられて一緒にでてくる。そのため大変な大所帯での移動になるが、これは威容を居並ぶ官や兵に見せつけるためだ。そして彼女が、後宮を離縁や追放といった不名誉な理由から去るのではなく、栄誉とともに出立することを示すためでもある。

 茉莉さまはいつものかわいらしい簪ではなく、立派な金の螺鈿を頭に載せ、真っ白な布に淡く桃色が染め抜かれ、金糸銀糸の刺繍も美しいお召し物で太和殿へとやってきた。

 それに対して、待ち受ける主上は黒と黄色の衣装に龍の刺繍の施された衣装を身にまとい、頭には冕冠を乗せていた。黄色を身に着けているのは、去り行く茉莉さまへの奏凱さまからの最大限の敬意を示すためでもある。彼女を軽んじてはいないと見せつけるためだけにその衣装が選ばれた。

 僕は地味な儀礼用の上下と冠を身に着け、奏凱さまの後に侠舜や泰然とともに控えた。

 茉莉さまが厳かにやってきて、奏凱さまの前までたどり着くと深く一礼をして儀式が始まった。儀式といってもなにやら祝詞のようなものを交わし書類のやり取りをする程度ものだった。けれど、太和殿内の誰も身動き一つしなかった。針が落ちる音さえ聞こえそうだった。

 所定のやり取りが終わった後、僕が書類を回収するふりをして前へ進み出る。俯けていた顔をあげると、硬い表情だった茉莉さまが、僕を認めて表情を緩めた。

「このようなご挨拶となってしまいまことに申し訳ございません。茉莉さまに直接お会いできるのがこの場この時だけでございましたので。」

「賢英さま……。」

「時間がございません。手短なご挨拶になる無礼をお許しください。」

 茉莉さまが小さく首を左右に振って見せた。これだけの動作なのに信じられないほどに可愛らしかった。

「お手紙いただきました。ありがとうございます。お返事にも認めさせていただきましたが、どうぞお気に病まれませんよう私からお願い申し上げます。茉莉さまはこれから後宮を出て新しい人生を進みます。どうかその新たな門出に、私の心配などという些末なことを持って行かないでください。私はあなたがお心を痛めることを望んでおりません。かわいらしいあなたでいてください。そして、どうか幸せになってください。きっと主上もそれをお望みです。」

 僕は小さく頭を下げて口を噤んだ。

「わかりました。賢英様が末永くご健勝であられますように。」

「もったいないお言葉です。数回しかお目にかかっておりません。それほどまでに私のことなどお気に掛ける必要もございませんのに。茉莉さまはお優しい方ですね。」

 首を振る。

「私は知っているわ。後宮がどういうところか。正確にはあなたは後宮ではなくて外殿に起居しておられますけれど、同じです。本当は私は別に貴族でもなんでもないのよ。あなたと同じ。ただ家がお金持ちというだけなの。父はただの地方官でしかなくて。だから、庶民のあなたが主上の寵愛を得たと聞いて、すごくすごく気になっていたの。だから、あなたのことがすごく心配だった。」

 僕はその事実は知らなかったのでとても驚いた。

「できることなら、賢英さまともっとおしゃべりがしたかったわ。もし、私の住む場所の近くへくることがあったら是非お立ち寄りくださいね。精一杯おもてなしさせていただきます。それからいっぱいお話しましょうね。」

「はい。その時を楽しみにしております。」

「茉莉。」

「はい。」

「お前を守れなかった不甲斐ない私を許して欲しい。」

「そんなことはございません!私のほうこそ何もできませんでした。」

 奏凱さまが首を振る。

「呂剛健は良い男だ。お前を大事にしてくれる。」

「はい。存じております。お手紙でのやり取りと顔合わせや、過去に幾度かお話をしてその人となりは存じております。とてもやさしい人だと。」

「ああ。きっと私以上にお前を大事にしてくれるだろう。短い間ではあったが、お前がいてくれたこと、私は心より嬉しく思う。ありがとう。」

 茉莉さまが顔を伏せた。

 しばらくして、次に顔を上げたときにはいつもの顔に戻っていた。

「感謝申し上げます。それから主上。父と母より託がございます。このような場で大変申し訳ございません。追って文が届けられるかと思いますが私より先にお伝えいたします。此度の私の結婚について感謝と、それから私たち一族は、微力ながら主上のお力となります、と。」

「わかった。」

 奏凱さまが一つ頷いて見せた。

「さあ、もう時間だ。行こう。」

 そう言って二人並んで歩き出した。僕は一人その場に残った。

 正午の鐘がなりひびき、それが鳴りやむ。そして大きな音とともに、さらに多数の人の声とともに扉が開かれた。

 その先に長く長い石畳が続いている。夏の始まりに似つかわしくない柔らかな日差しの中、天が、木々が、人々が、そのほかあまねくものが目を覚ましていくような気配があった。

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