第31話 主上
※時間が飛んでいますがこういう構成なのです。
賢英との約束した離宮への外出は五日後だったか。
向こうで一晩滞在する手はずになっていた。種々の催しも計画していた。
けれど、その約束が果たされることはないだろう。
宮殿内の梅は少し前から花が咲き始めた。今は三分咲きぐらいだろうか。更に数日後には見頃となるだろう。本来なら丁度良い時期に行けるはずだった。
けれど。
静かな部屋。かすかな吐息だけが満ちている。
静謐なひと時だった。終わりの前の。
夜のとばりが降り始めていることに初めて気づいた。脇の卓にはいつのまに誰かが置いていったのか、火の灯った玻璃燈が置かれていた。
薄明りが窓から差し込んでいる。玻璃燈一つがあるだけの部屋は薄暗く、四隅は陰ではっきりとはしていない。
窓の外を見る。冷えると思ったら季節外れの雪が降っていた。
ぼたぼたと。ぼたぼたと。
花が萎れてしまうと思ったが、もはやどうでもよいことだと思い直す。
雪は積もることなく地に落ちると解けて消える。
夢の続きかと思った。
けれど、違うことは分かっていた。寝台に眠るのが賢英だからだ。
やはり雪なのか。
看取る時はいつも雪だ。
白い手が。
銀鈴。
侠舜も雲嵐も、医官たちも隣室に控えている。泰然は仕事に追われているだろう。
二人きりにするように頼んだ。何かあったらすぐに声を掛けるよう言われたが、その必要はないかもしれない。
毒を受けた者は、たいていの場合死ぬからだ。
解毒薬などという都合の良い物はない。水を飲ませ、胃の中の物を全て吐き出させ、下剤を飲ませ、炭の丸薬を飲ませたあとは体力に任せて意識を取り戻すのを待つことしかできない。
手を握る。微かに息づくその温もりを。
けれどいまだ目覚めない。一度も。
その手はいまだ温度を失ってはいないけれど、それも時間の問題かもしれない。
茉莉の茶会なら大丈夫と思ったのが間違いだった。私は油断していただろうか。していたのだろう。銀鈴の死から学んでいたはずなのに。
血相を変えて部屋に駆け込んできた侠舜の言っていることが初めは分からなかった。
医官は今が山場だと言う。今日目覚めなければ、助かる見込みはないだろう、と。
もはやどうしようもなかった。
血の気を失い青ざめた顔が、作り物めいた顔が横たわっている。時折かすかに苦し気に呻く声が、まだ生きていることの証。
けれどそれも直止むかもしれない。
いや、いつか止むだろう。息がか細い。
苦しさにゆがむ顔、賢英の手を両手で握り込む。白い手を。
首元に私がやった首環が覗いている。
……所詮そんなものだ。こんなちっぽけな首環が役になど立つはずがなかったのだ。
別室では道士たちが祈祷を挙げているが効果はどれほどのものか。
人はいずれ死ぬ。
辛くはない。
賢英が死ぬかもしれない。
辛くはない。
銀鈴のように。
辛くはない。
父のように。
辛くはない。
母のように。
忘れるともなく忘れていく。
寝台の上。
重なる面影。
天にも神仙にも祈ったりはしない。
私の命と引き換えに助けて欲しいと過去に三度祈り、三度とも私の祈りが聞き届けられることはなかった。もはや何者にも祈ることはない。祈る言葉もない。
私にできることはない。何も。
どうしてこんなことになったのだろう。
出会わなければ良かったのだろうか。あの日、気まぐれに賢英を連れ出さなければ良かったのだろうか。
それとも、それよりもずっと前、あの日、何も知らない愚かな子供だった頃、あの決定的な一言、私たちの運命を決定づけた不用意な一言を喋らなければ良かったのだろうか。
どちらにせよ私は本当にどうしようも無い男だ。
辛くはない。慣れている。母も、父も、銀鈴も、死んだ。私が看取った。
なすすべなく零れ落ちていく命。
胸の奥、光も差さない奥底にひたひたと暗い水が溜まっていくのがわかる。水位は際限なく上がり続けていく。いつまで耐えられるだろうか。
「賢英、すまなかった。こんなことにならぬよう気を配っていたと言うのに。」
言葉が勝手に紡がれる。
誰も聞いていない贖罪の言葉が。
誰に対する?
「梅の花をお前に見せてやれないかもしれない。」
——梅の花が盛りだそうです。一緒に行きませんか?
——花など眺めて何が面白いのか。
やめろ。
——青海湖はどうでしょうか。景色もよく涼しいので避暑地として人気だそうですよ。私舟遊びをしてみたいです。
——興味がない。
やめろ。
——つまらなそうな顔。笑った顔の方が素敵だと思いますよ。
——今日は退屈な一日でした。また今度どこかへ連れて行ってください。
死に際になって気付いた。銀鈴だけが私を見てくれていたのだと。あれほど愚かな振る舞いをしたというのに。
何かをきっかけにしなければ人は成長できないのだとしても、私ほど愚かな者は存在しないだろう。
——恋がしてみたかったの。
私もしてみたかった。お前が死の際まで手放さなかった願い。愚かな私では叶えてやれなかったその願いだけが、私を孤独から解き放つ唯一の方法だと思われた。
だから、銀鈴が死んで、後宮の妃たちに歩み寄ろうとした。けれど誰も私のことなど見ようとはしなかった。
皆の視線はいつも私を通り過ぎて、私の後ろへと注がれているのを知っていた。玉座へと。
金が欲しい。実家に援助を。男児が欲しい。美しい着物が。宝石が。そのための寵愛が欲しい。
当たり前だ。もともと私には何も無かった。力も後ろ盾も何も。兄たちが居なくなって、たまたま転がり込んできただけの皇太子という地位。
だから力が必要だった。父が亡くなり、急遽皇帝として立つことになった私一人ではこの国を支えられなかった。私一人では誰も動かせなかった。
私は、私の無力を補うために力のある家、敵対することは絶対に避けなければならない家の娘を妻に迎えなければならなかった。そうしなければ私はすぐにでも幽閉されるか殺されるかしていただろう。先の戦にも勝てなかっただろう。
そして、妻たちがいなければ私は今もこうして生きてはいないだろう。
闇が侵入してくる。玻璃燈の小さな灯では暗闇を押しのけることはできない。全ての物の輪郭が曖昧になる。溶けて無くなって行く。
私も闇に消えるだろうか。
帰るのだ。後宮へ。あの空虚な場所へ。
誰も私になど心からは興味がない。
欲しいのは地位。子。金。
私はその付属物。
帰るだけだ。あの牢獄へ。
誰の?
妃たちを閉じ込める?
いや。
私を閉じ込めるための。
元に戻るだけだ。全て。
仕事をしなければ。妻たちの相手をしなければ。それが私の価値。
足が言うことを聞かない。
ひたひたと満ちる音が耳の奥でしている。
もう間もなくいっぱいになる。
美しい女たち。
けれど誰も私をみてなどいない。
賢英の詩が思い出された。
笑いが込み上げる。
なんという茶番。
茶番に巻き込まれて死ぬ賢英もいい迷惑だろう。
けれど、それはもともと私のせいなのだ。
私のせいなのだ……。
再びあそこへ帰るだけだ
あの時手放していればよかった。
いつになく嬉しくて。
嬉しい?
柄にもなくはしゃいで。
——主上。あの者はどうあっても女の代わりにはなれませんよ。近い将来、本物の男の顔つきになります。
——女の代わりにしようなどとは思っていないよ。
何故手を伸ばしてしまったのか。
あの時の私は全てに倦んでいた。もう私は限界だった。
あの時声を掛けたのはただの思いつきだった。遊びのつもりだった。
声をかけ話をして、すぐに分かった。私に好意を持っていると。宮にいる女たちと、一夜だけの遊びの女たちと同じ反応だった。なんの変哲もない普通の男。都合がいいと思った。
けれど最後の望みだった。
戦場にいるとき、男が男の相手をすると聞いていた。
男ならばと思った。
新鮮だった。反応が。
だから閉じ込めた。気晴らしになると思われた。
賢英が逃げ出したがっていることは分かっていた。だが何故かは分からなかった。皇帝の私の立場を利用する方が自分にとって利があることは明白なのに。
私が賢英を利用するように賢英も私を利用すれば良いのにと。
信じられないことに賢英には私を利用するという考えを思いつきもしないようだった。それは一つの驚異だった。
だからどうしてもそばに置いておきたかった。もはや遊びの気持ちは無かった。私に必要な人間だと思われた。
けれどすぐに失敗だったと気づいた。日に日に精彩を欠いていく。あまりにも生きてきた環境が違いすぎて、ここでは暮らしていけないように思われた。
だから逃がしてやろうと思った。
なのにあれは残りたいと言った。知りたいと言ってくれた。
あの時の私の気持ちをなんと言えば良いのだろう。天の導きだと思われた。だから絶対に離さないと思った。
それが私の罪。
のめり込む。
もっと知りたい。
賢英は嘘をつかない。
賢英は取り繕わない。
いつでも真っ直ぐに感情を見せる。
賢英は私を見てくれる。
私だけを真っ直ぐに。
賢英のおかげで私は後宮の女たちに、子供らに優しくできるようになった。興味を持てるようになった。私は変わっていった。
ああ。けれど。
この気持ちを抱えてまた一人で生きて行かなければならないのか?
賢英……。
私を置いていくのか。
銀鈴のように。
否。
私が置いていくのだ……。
皆をおいて。
この先を一人で生きていけと言うのか。
ならば知らないほうが良かった。
銀鈴。
俺はこの気持ちを知らないままでいたほうがよかったのもしれない。愚かな子供のままでいたほうが良かったかもしれない。
賢英。
「すまない。」
聞く者のいない言葉は夜に溶けて消えた。
※次回からまた主人公の視点に戻ります。
※次の更新はまた空いてしまうと思います。
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