第26話 演奏と宴の終わり

 楽器が行き届くと暫しの間各々が指慣らしをする。

 僕も授業の初めに行う指の運動をして、一音一音確認し、指の運びを練習する。詩作のような失敗をしないと心に誓う。

 素晴らしい演奏でなくて良い。最後まで止まらず弾き終えることができたらそれで良い。僕はほどほどで十分なのだ。

 練習が終わった。


 主上から演奏が始まる。

 胡座をかき両足の上に琵琶を乗せる。何の曲を演奏されるのかは知っている。けれど弾くところを見るのは初めてのことだった。下手だとは言っていたが、緊張している様子は窺えない。

 堂々とした様は自信に満ちているようだ。

 手にした撥が弦をかき鳴らす。

 荘厳な響きを持って曲は始まった。厳しい冬の終わり、雪解けと芽吹き。雫は小さな流れとなり川となって大河に落ちる。

 凍れる土が雪の下から顔を覗かせ、春の日差しの中で解け、人々が閉ざされた家々の扉を開け放ち、春の訪れを寿ぐ。

 そういう曲だった。

 誰もが聞き入るなか、余韻を残しながら演奏は終わった。

 満足そうに主上が撥を置く。主上らしい豪快な演奏だった。忙しい中練習したのだろう。苦手といっていたのが信じられない。

 妃たちに褒めそやされ鷹揚に頷いて見せた。

 続いて玲貴妃が演奏する。楽器は琴。

 恐れるものなどない堂々とした態度で、微笑みを浮かべながら。曲はいくつかの候補の中で、最も演奏曲として取り上げられる可能性が高いと考えられたものの一つだった。

 美しい花々が芽吹き咲き誇り、天女が歌い踊る。そういう曲だった。

 優美な白い指が舞うように弦の上を滑り、美しい音を奏でていく。華やかな見た目と違い、彼女の奏でる音は繊細だった。

 妖艶な笑顔とともに曲が終わった。拍手が起こる。

 延徳妃は馬頭琴だった。珍しい。

 彼女の故郷で演奏される楽曲で、勇猛な騎馬隊が草原を駆け巡る曲だという。みなこの宴に相応しい曲を演奏するという趣旨だったが、何か関係があるのかと皆いぶかしむ。

 けれど、曲の名を聞いて納得する。月下の騎馬隊と言うらしい。馬にまつわる曲が多いらしく、草原の馬、寒立馬、嵐の中を行く騎馬、などもあるらしい。

 延徳妃の演奏は、彼女のおっとりした見かけとは裏腹にとても力強かった。繊細さに欠けるところはあるが、女性の細い指でこれほど勇壮な演奏が奏でられるとは思わなかった。

 やり遂げた喜びに顔をほころばせながら、彼女の演奏が終わった。

 続いて徐賢妃。彼女の楽器は琴だと思ったら、微妙に違うことに気付いた。

 琴柱が無く弦の数も違う。雲嵐に尋ねると玲貴妃の楽器が箏、徐賢妃の楽器が琴なのだと教えてくれた。どうやら僕は琴と箏を混同していたようだ。

 徐賢妃の曲はとても静かな曲だった。春の訪れを、立つ霞、梅の花、日々暖かくなる日差しといった何気ない日常の中に見つけるという、穏やかな曲だった。

 喜びも緊張も何もその顔には現れず、ただ静かに爪弾いている。

 そのまま静かに曲が終わった。凪いだ彼女の心を映し出しているようだった。

 李淑妃の楽器は琵琶だった。

 演奏する曲目は春。花々が咲き乱れ、零れ落ちた花びらが水面を揺蕩い、流れにのって下流へと流される。春の嵐に惑う男女の恋の曲。場面が次々に移り変わる劇的な曲だった。

 転調を繰り返す難しい曲を見事に演奏しきる技術に感嘆してしまう。

 その後で、墨昭儀の演奏が始まった。彼女の楽器は笙。今回唯一の管楽器だ。

 繊細な指使いで笙を操り、美しい音色を響かせる。演奏される曲は、天から降り注ぐ春雨に纏わる伝説を題材としたものらしい。雲嵐は物知りである。

 その表情を窺い知ることはできないが、弾き終わったあとに見せた顔は、平素と変わらないようだった。

 そして黄昭容は僕と同じ二胡だった。ちょっとだけ不安が胸をかすめたが、一般的な楽器である二胡を今まで誰も弾いていないことのほうが珍しいのだ。

 そして。

 彼女が選んだ曲は僕と同じだった。

 僕は自分の顔が強張っていくのがわかった。緊張で指先が震えていたと思う。

 後ろを見ると雲嵐が僕を気の毒そうにみていた。何かを言おうとして、口が小さく動いたけれど、それは意味をなさずに閉じられた。

 黄昭容が演奏を終えて僕の顔を見たとき、怪訝な顔をしていた。僕はひどい顔をしていたのかもしれない。

 耳の奥で脈打つ音が嫌に大きく響いた。

 

 そして。


 時間がない。いや、あったとして、雲嵐と相談してどうにかなるようなことでもなかった。

 僕は必死に頭を働かせたけれど、どんな手立ても見つからなかった。

 最後が僕だった。皆の視線が集まる。

「最後の演奏は賢英さまですね。今日はあなたのおかげで、なかなか楽しめました。最後にどんな演奏を聞かせていただけるのかとても楽しみなの。」

 玲貴妃が無邪気な笑みを浮かべて言う。

「私も、主上以外の殿方の演奏を楽しみにしておりましたの。どんな演奏を聴かせていただけるのかしら。主上に気にいられるほどでございますものね。残念ながら詩に対する造詣はさほど深いというわけでもございませんでしたが……。なれば楽器がお得意に違いありませんわ。まさか、それ以外の何かがお得意ということもございませんでしょう?」

 と、延徳妃。

 皆の視線が僕に注がれている。黄昭容の瞳が不安げに揺れている。

 俯いてしまいそうになる顔を必死で前へ向ける。

「……申し訳ございません。勉強不足のため、私は本日みなさまにお聞かせできるような曲を持ち合わせてございません。宴に参加を許されながら、何も用意できなかったこと、どうぞご容赦ください。」

「まぁ、ご謙遜を。手に楽器を持っていらっしゃるじゃない。準備ができていないはずはないわ。さぁ、あなたの演奏を聞かせて頂戴。緊張しなくてもいいのよ。最初はみんなそうなのだから。ねぇ?私、とても楽しみにしてまいりましたの。二胡をお弾きになるのね。私、二胡が大好きなの。」

 李淑妃が少女のように楽し気に話す。いくつもの視線に射抜かれて否やは言えなかった。

「……畏まりました。」


 視界の隅に主上の気づかわし気な顔が見えた。

 僕が雲嵐に合図をすると、気づかわし気な顔の雲嵐が僕から離れる。ちらりと勇気づけるような顔で僕を見た。

「頼りないでしょうが、私もついています。叱られるときは一緒です。」

 小さく聞こえた。二人なら大丈夫。

 それに、もうどうせ一度失敗をしているのだ。今更それが増えてもどうということもない。

 この月階の節会が妃達との初めての顔合わせだった。色々がんばったけれど、上手く切り抜けることができなかった。自分の不甲斐なさに嫌気がさす。せめて何か一つでもまともにこなすことができるような人間であればよかったのに。

 僕は心を決めて弓を握る。主上に慌てた姿は見せられない。

 弾くのはこの時のために、選曲が誰かと重なってしまった時のためにと練習していた曲。残念ながら時間が足りず一度も完璧に弾けたことはなかった。だから、こんな事態にならぬよう願っていたのに。

 僕が他に弾ける曲ではこの場にそぐわない。だから無様なことになろうとも、この曲を演奏しなければならなかった。譜面は覚えている。

 息を一つ。


 一音目が紡がれる。

 初めは良いのだ。最初は繰り返し弾くことになるから、嫌でもなれた。主上の安堵した顔が見えた。思ったよりもきれいな音が響く。安定している。

 でも。

 ここから、苦手な指使いが続く。

 ぎゅっと口を引き結ぶ。

 ほら、間違えた。この運指は難しすぎる。

 次は上手くいった。すごい。

 あ、安心したせいで指が遅れた。ここは得意のはずなのに。

 もういっぱいいっぱいだ。顔なんて見ている余裕がない。

 次に面倒くさいところがくる。すごくきれいな部分だけど、音の速さと転調と、溜めと伸ばしがややこしい。

 あぁ一音飛んだ。

 これは、最後まで弾くことができるのだろうか。そもそも最後まで弾くべきなのだろうか。弓を置いて、潔く弾けませんと謝った方が良いのではないか。

 それでも指は動いていく。心を籠められない。曲に集中していない。先生に怒られる。

 ……手汗がすごい。あぁまた。

 恥ずかしさもあったけれど、それよりも曲としての体裁を整えていないものを高貴な方々に聞かせることの方が良くないのではと思う。

 調子がずれた。指が遅い。

 本当に僕は……。

 繰り返される不手際に、もうやめてしまったほうが、と思ったときだった。


 耳に……。

 別の楽器の音、琵琶だとわかった。それが部屋の奥から響いてきた。

 はっとしてうつむけていた顔を持ち上げる。驚いたような顔がいくつも見えた。そうして、皆が一斉に音のする方へと顔を向けた。

 それに誘われるように僕の視線も動く。

 主上が。

 主上が琵琶を抱え音をかき鳴らしていた。

 僕と同じ曲。

 伏せられた目と閉じられた口元。

 その顔が持ち上げられ、僕の方を見た。

 にっと笑ったのが見えた。

 僕は驚きのあまり、曲を止めそうになって、すぐに主上の視線に促されて、かろうじて弾き続けた。

 どういうことだ。

 僕は混乱しながら弓を動かす。もうどこを弾いていたのかが飛んでしまった。

 僕がまた一つ音を飛ばす。

 主上の音が流れていく。

 僕は遅れないようについていく。

 主上が音を間違えた。

 それを聞いて僕は驚いて、音が外れた。

 追いかけるようにお互いに、間違いを重ねていく。速さが、溜めが、調子が、音がずれる。

 そうして、僕と主上が同じところで同じ過ちを犯す。

 溜めの時間、音を伸ばす時間がお互いで違うせいで、弾き始める瞬間にずれが生じる。そのずれを合わせるために、先行している方が一瞬待って、次のところから音が合う。

 音が合ってもすぐにどちらかが弾き間違えてしまう。

 ふいに笑いがこみあげてきて、僕は人がいるのにも関わらずついくすくすと笑ってしまった。

 不敬だ。

 けれど止められなかった。僕は笑うにつれ、体から緊張と焦りとが消えていくのが分かった。

 見ると、主上もくつくつと笑っていた。

 あぁ、いつもの笑いだ。僕が知っている主上だ。

 なんだかもうおかしくておかしくて。僕は変になったようだ。

 あっけにとられた妃たちの顔が見えるけれど、もう気にならなかった。

 主上も、僕を見ながら笑っている。こらえきれないというように。


――仲間ができて私は嬉しい。

 主上の言葉が思い出される。


 僕も嬉しい。


 いつのまにか、演奏も中盤を過ぎた。

 女たちの驚き訝しみ呆け怒り戸惑い興がる顔。

 そうして。

 終盤、一番の盛り上がりに突入する。

 盛り上がるということは難しいということだ。

 僕らは最後の最後まで間違いだらけだった。

 そしてそのまま曲が終わった。

 僕が主上を見てほほ笑むと、主上はいたずらっ子の顔をしてみせた。

「良い余興であった。」

 そう言って主上が声を発し、演奏会は終わりとなった。



 主上が去り、妃たちも去った部屋。開け放たれていた壁が閉ざされ、四隅の篝火もとうに消えた。

 未だ人々の席はそのままに残されている。翌朝片付けられるのだそうだ。

 火鉢の火が弱く温もりを伝えている。

 部屋の中は暗く、女官が貸してくれた玻璃燈の明かりだけが当たりをぼんやりと浮かび上がらせていた。

 僕は雲嵐と二人、誰もいなくなったこの場所で感想を語り合っていた。疲れ過ぎて動けなかった。

 宴の様子や様々な趣向、妃たちの衣装や立ち居振る舞い、侠舜と暁明の演技など話したいことはたくさんあった。

「問題は後半だったね。詩作で最初の失敗をしちゃったし。なんであんな詩を詠んじゃったんだろう。あの時、目に映るものをぼんやり見ていたらなんだかいろいろなものが急に気になりだしちゃって。」

「……あれは、とても示唆に富んでいたと思います。自分もちょっと考えさせられました。」

「そう?」

「ええ。あの場の空気というか、あの宴の底にあるものを、感じ取ったのかもしれません。あなたの詩を聞いてみなさん思うところがあった風でした。」

 周囲が静まり返ったときのことを思い出す。

「僕にはよくわからないよ。それよりも、最後の演奏会はひどかった!」

「最後の最後にあんなことになってしまうなんて、想像もしていませんでしたね。」

 雲嵐が遠い目をするのに合わせて僕も記憶を手繰り寄せる。

「あの時はどうなることかと生きた心地がしませんでしたね。まさか最後の最後に黄昭容さまに弾く予定の曲を先に演奏されてしまうなんて。」

「ほんと。あんなに動揺したのは初めてかもしれない……。もう二度と経験したくないなぁ。」

「でも主上が助けてくださったじゃないですか。すごかったですね。」

 その場面を思い出して笑いがこみあげる。

「びっくりしたけどね。でも楽しかったなぁ。」

「あなたはとても肝が据わっていると思います。私だったら何もできなかったかもしれません。」

「そんなことはない。緊張で手汗がすごくて弓を取り落としそうになってたし。」

 くすくすと雲嵐が笑う。

「あぁ、……それから、伝えるのが遅くなってしまったけれど、詩のときはありがとう。雲嵐がいなかったら僕はどうしようもなかったと思うよ。」

「詩の解釈は苦手でしたからね。お役に立てて何よりです。」

「二胡の演奏のときも、励ましてくれてありがとう。」

 雲嵐が困ったような曖昧な笑みを浮かべた。


「まだこんなところにいたのか。」

 声のした方を振り返ると、夜着に着替えた主上が玻璃燈を持って入口側に立っていた。顔は良く見えないけれど、少し落ち着きを欠いた声だったかもしれない。

 僕はすぐに謝った。怒っているだろうか。

「こんなところにいたらまた風邪をひいてしまう。部屋へ戻ろう。」

 次に響いてきた声はとても優しかった。

「はい。」

 立ち上がって雲嵐と二人で主上の元へ歩き出す。僕らの影が二つついてくる。

「何をしていたのだ。」

「雲嵐とちょっと反省会を。それと、傍にいてくれてとても心強かったのでありがとうと。そうだ、主上。直接お礼をお伝えしたいと思っていたんです。先ほどは本当にありがとうございました。主上の御蔭で醜態を晒さずに済みました。」

 侠舜が廊下に立っているのが見える。

「いや。もっと上手いやりようがあったかもしれないと思わずにはいられない。とっさのことによく考えもせずに動いてしまった。」

「いえ、私はとても嬉しかったです。それに。とても楽しかったです。」

「私は楽器が苦手だからな。」

「同じですね。」

「そうだな。あれはひどい演奏だったな!」

 主上が僕の背に手を回したのを合図に二人で歩き出す。笑い声が伽藍とした空間に温かく響いた。

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