第17話 うわごと
主上は僕が泣き止むのを待ってくれた。
僕の手をそっと握ると帰ろうと言って、優しく引かれながら戻ったけれど、僕は自分が情けなくて辛かった。
戻ると、すぐに侠舜がやってきて僕は侠舜と一緒の馬車で戻った。彼は何も聞かなかった。
馬車に乗る直前に、いつでも良いと言われた。
その日の夜僕は寝台の上で何度も寝返りを打った。
僕は翌日自分の部屋で朝食を摂って、暁明の馬術指導を受けるために部屋を出た。
暁明は馬の世話を僕としながら色々なおしゃべりをした。特にこれといった話題はなく、気ままに思うままに話題が移り変わっていった。馬の世話の楽しさや晩春に生まれたばかりの仔馬がとてもやんちゃで、掃除の最中に髪の毛を食べられそうになったこと、寒さで朝の給餌が辛くなってきたこと、後数ヶ月もしたら馬の出産が始まることなど、のべつ幕なしに暁明は話し続け、僕は相槌を打ちながら聞き役に徹した。
「あぁすみません。今日は喋り過ぎてしまいました。馬の世話とお喋りで終わってしまいましたね。侠舜様には私が叱られて来ます。」
そう暁明は言って少し困ったように笑った。
「私もおしゃべりを止めなかったので同罪です。でも楽しいお話を聞くことができて、たまにはこういうのも良いですね。今日はありがとうございました。またよろしくお願いします。」
僕は礼をして次の授業に向かうために背を向けた。少し進んで背後から暁明の声が届いた。
「私の愛馬二頭のうち一頭が出産予定なんです。無事生まれたら名付け親になってください。」
僕は振り返って、微笑んで是非と答えた。
法律の授業は法制史の続きだった。尹先生にしては少し歯切れの悪い授業だった。僕が以前習ったことを不用意に質問すると、いつもはすげなく手引書を引くように促し、授業を中断したことに対して遠回しに釘を刺してくる。それが今日は一瞬言い淀んでから、いつもに比べてさらに遠回しなせいで何が言いたいのかわかりにくいお小言が続くというありさまだった。さらに、授業の終わりには、今日もよく頑張りました、次回も頑張りましょうと言われるに至った。
お昼は侠舜と一緒に食事を摂った。侠舜はいつもの風であったけれど、それでもなんとなくいつもよりも気づかわし気な視線が注がれた。
午後も似たり寄ったりな雰囲気だった。みな腫れ物に触るみたいに僕に接した。
侠舜と夕食を摂った後、いつものように卓の上に教材や竹簡やその他諸々のものを広げて勉強した。ただ、あまり集中できたとは言い難かった。
そうして早めに切り上げると、布団に潜り込み、昨夜と同じように寝返りを何度も繰り返した。暗闇は少しも僕に眠りを連れてきてくれなかった。僕のくしゃみが嫌に大きく室内に響いた。
それから数日は似たような日々だった。主上は返事を急かさなかった。
窓から見える木々の葉は日々庭に積もり続け、そのたびに庭師が片付けている。
僕はどうしたらいいんだろう。
そうしていたら僕は風邪をひいて寝込んでしまった。
気付いた侠舜に医者が呼ばれ、僕の授業は全て中断した。侠舜はたまには休息も必要ですので、丁度良いですと言った。少しも嬉しくはなかった。
僕は毎食後に恐ろしく苦い薬を飲んだけれど、微熱と小さな咳は一向に収まらなかった。一日中寝台に横になって病気が治るのを待つ以外にすることがないと、得体のしれない焦燥感が僕の心の中に何度も去来した。
浅い眠りを繰り返した。嫌な夢を時々見たが、目覚めるとそれがなんであったのかは分からなくなった。じわりと浮かぶ汗が、不快な夢の残滓だった。
それからさらに熱が上がって僕は起き上がることができなくなった。侠舜は慌てたように色々と采配しているようだったが、朦朧とした頭でぼんやりとそれを見ているしかなかった。まるで他所事だった。
侠舜と桂雨が交代で僕の世話をしてくれた。繰り返される大丈夫ですよという言葉は、何の意味も持っていないようだった。
そうして、日々熱が乱高下し、咳が徐々に僕の体力を蝕んでいった。死ぬのだろうか。それも良いかもしれない。手紙を。謝らないと。誰に。
眠りに落ちる前に頭に浮かんだ顔のことは意識の向こうに押しやった。
全身が熱くて、かいた汗が気持ち悪い中、額がひんやりと気持ち良くて、呼吸が楽になった気がして僕は目を開いた。真っ暗で、起きているのか眠っているのか初めは分からなかった。
それからなんとなく、右手を額に伸ばすと何かごつごつしたものに触れた。なんだろうとまさぐると、五本の指だった。
「起きたのか?」
耳に心地いい声が届いた。久しぶりに聞く声だった。
「……主上?」
喉がうまく開かなくて、声がかすれた。喉が驚くほど乾いていた。
主上は僕を助け起こすと、手ずから水を飲ませてくれた。
人心地ついて再び横になると、僕はそちらを向いた。目が慣れてくると、ぼんやりそこに人がいるのが分かった。布簾が閉じられて、部屋は暗かった。
隣にいる人物が立ち上がって隣の部屋に行く音がした。しばらくして明かりの灯った玻璃灯を携えて主上が戻ってきた。僕はまぶしさに目を細めて、主上の長く伸びる影を見た。
脇机に灯を置くと、横になる僕を見つめる。僕はなぜここに主上がいるのだろうといぶかし気に見上げた。
「手紙をもらってな。」
そう言って一枚の紙きれを取り出して見せてくれた。
そこにはたった一行、走り書きのように文字が書かれていた。
「子供でごめんなさい。」
僕の昔の手に似ていた。
書いた覚えはなかったけれど、僕の字であるようだった。
「止められたのだが、無理を押して今ここにいる。隣の部屋ではみなやきもきしているかもしれない。」
僕はぼんやりする頭で主上を見つめた。
「いや、失言だった。お前は気にしなくてよい。もう一度眠るか?」
僕は首を横に振る。十分眠ったのだろう、眠気は感じなかった。
「私の言葉がお前を悩ませてしまったようで、申し訳なかった。あの時はあぁ言うのがお互いのためだと、一番お前のためになる選択肢だと思ったのだ。」
答えを聞きに来たのだろうか。まだ言葉が見つかっていないのに。
僕の心は決まっていたけれど、それを伝えられる勇気がなかった。だから、本心と違う結果になっても仕方ないと思っている。
沈黙が二人の間にわだかまっていた。
もう一度伸ばされた手が僕の額に触れる。ひんやりした手の平の気持ち良さに、頭がいくぶんすっきりしてきたのに励まされた。
「あの時、僕は主上に手を引かれないといけない子供だと、そう思われているのが嫌でした。」
自分の書いた文字を見て思い出していた。
「僕は早く大人になりたかったんです。」
僕は熱に浮かされた頭で思いついたことをつらつら喋った。
帰りたいとは最近思わなくなったんです。
周りの人はみんな大人で、なのに僕は子供で、それが寂しかったんです。
気づかないふりをしていました。
見ないふりをしていました。
気持ちに蓋をすれば耐えられたんです。
主上に指摘されるまでは大丈夫だったんです。
この寂しさを誰にも知られたくなかった。
あなたに知られたくありませんでした。
巧く隠せていると思っていて、だから指摘されて驚いたんです。
でも、嬉しかったんです。
気づいてくれたことが。
でもそれが今は不甲斐ないんです。
あなたに迷惑をかける子供の自分が。
あのとき、帰りたくて泣いたんじゃないです。
巧く自分を騙して来た寂しい気持ちに気づいてしまって、あなたが気づいてくれて。
自分がかわいそうだと思ったせいなんです、泣いたのは。
恥ずかしいです。自分は少しも可哀そうではないのに。
気づいてほしいって思っていたって証拠です。
僕ははやく大人になりたかったんです。せめて頭の中だけでも。
勉強はそう思うと、不思議と頑張ることができました。それなりにですけど。
なのに帰ったほうがいいって言われたようで余計に泣いてしまって。
寝台の上でずっと考えていました。
主上と別れて家に帰った自分を。
そうしたら耐え切れないほど辛いと思ったんです。
伯母夫婦と離れて暮らして、最初は戻りたいと思っていたんです。けれど最近はそう思わなくて。
だけど、主上と離れて暮らすと思ったら、どうしようもなく胸が痛むんです。
ただ、僕が帰ることを主上が望むのなら、それもいいかなと思っています。
僕はあなたのお役には立たないのですから。
自分の言ったことを言った傍から忘れていきますね、これ。
すみません。頭がまだ上手く働いていないみたいで。
くすくすと笑ったら咳が襲ってきて、体を横向きにして捩ると、主上が背をなでてくれた。
次に目覚めると、部屋の中は明るく、主上はもういなかった。
それから数日かかって僕は熱が下がって起き上がれるようになった。咳はまだ抜けなかった。咳が抜けるのにさらに長い時間を要した。起き上がれるし食欲もあるのに、僕は安静を侠舜から言い渡された。
庭の木々はすっかり葉を落としてしまっていた。もう庭師のおじいさんの姿はどこにもなかった。
僕はどうなるのだろうと思っていると、久しぶりに主上が部屋に、何の前触れもなくやってきた。
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