第16話 主上と外出

 自室で朝食を摂った後で授業の準備をしていた僕に向かって、今日は一日仕事がないのだと主上は言った。

 すぐに無理を押して時間を作ってくれたのだと察した。だからここしばらく顔を見せに来なかったのか。

 それからあわただしく外出着に着替えて出発した。外は寒いので風邪をひかないよう、何度も言葉を掛けられた。


 とても楽しい時間だった。

 僕らが暮らしている宮から馬車ですぐの森へ遊山に行くとのことだった。紅葉が見ごろなのだそうだ。そんな風流なことしたことない。庶民とはそもそも遊び方が違う。

 到着してから馬車を降りるのにしばらく時間があった。

 馬車を降りて、辺りを見渡すと本当にすばらしい眺めだった。目の前に燃えるような森が広がっていて、落ちた木の葉が一面草原を赤く黄色く染め上げていた。

 驚きから立ち直ると、目の前に立つ主上が僕の反応に満足したらしく、片手を差し出してきた。そんなことされたことがなくて驚いたけれど、雰囲気にのまれてその手をとってしまった。

 そのままゆっくり歩き出す。

 乾いた葉、湿った葉が折り重なって、歩くたびに沓の下から柔らかな感触が伝わってきた。

 周囲には警備を担当している人がたくさんいるのだろうけれど、僕から見える範囲には驚くほど少なく、最低限しか連れてきていないのか、姿を隠すのが上手いのか区別はつかなかった。

 侠舜も今は見えない。馬車は違うけどたしかに一緒にきているのは知っていた。

 主上に手を引かれて目的の場所へ連れて来られた。これでは子ども扱いではないかと思った。見られていると思うと恥ずかしいからやめて欲しいと言うと、首を横に振られた。

 侍女が数人、厚い毛氈を敷きその側に野点傘が広げられ、周囲をいくつかの衝立で囲い、茶器と茶菓子とが広げられた。それからいらないものが片付けられ、僕らの前に用意がしっかり済むと、侍女たちは衝立の向こうに消えた。

 風の音と葉擦れの音以外には、囁く声すら聞こえなかった。今日は鳥すらも休みのようだった。

 人々がじっとこちらを窺っているような気がして、緊張してしまうけれど、こうして宮殿の外へ出るのは、それがものすごく近い場所で敷地内から一歩も外へでていないとしても、一度もないことだったので、妙に気分が浮足立つのをとめられなかった。

 主上と見かけだけではあったが、外で二人きりだったのも理由かもしれない。


 その日、主上は饒舌だった。

 次から次へと話題や質問を繰り出して、僕はそれを聞いて驚いたり笑ったり、最近の勉強の様子や伯母夫婦との思い出を話したりした。楽しい会話だったけれど、何か違うような気がした。外だからだろうか。

 こんなに長時間主上と日中話をしたことはなくて、お仕事は大丈夫なのだろうかとふと気になった。

 楽しい時間はあっという間で、昼になって食事が供された。僕らはそれを食べ、それから連れ立って森の方へ歩くことになった。警備の人が大変じゃないかなとふと思った。

 再び手を引かれて歩き出す。森の中へは入らなかった。

 そうして見晴らしの良い小高い丘の上まできて主上が口を開いた。

「ここでの生活にはもう慣れただろうか。」

「はい。みなさんとてもよくしてくれるので。まだ顔と名前も一致しない人がたくさんいらっしゃるのですが、今のところ何の不都合もございません。」

「侠舜はどうだ。あやつは厳しいだろう。子供の頃から融通が利かない男だ。」

「子供の頃からご一緒なんですね。知りませんでした。厳しい方ですが、優しい方です。とてもよくしてもらっています。」

「そうか、ならよかった。授業は辛くないか?お前はとても頑張っていると侠舜から報告が上がっている。頼もしいことだ。」

「だいぶ慣れました。まだまだ分からないこと、できないことも多いですけど、さすが主上と侠舜さまが選んだ人たちです。とても立派な方たちだと思います。わかりやすく指導してもらっています。とても至らない点が多くて、いつも叱られているんですが、過分の評価を侠舜さまからいただいていたとは知りませんでした。」

 気遣わし気な目で覗き込まれた。僕は話題を変えるように言葉を紡ぐ。

「あぁ、そうだ。先日の伯母からの手紙で最近はすごく体調が安定しているそうです。主上のおかげです。感謝を申し伝えて欲しいと手紙で頼まれました。私からもご厚意に感謝申し上げたく存じます。私には両親がありませんので、伯母夫婦が親みたいなものなのです。二人が幸せであることが私の一番の願いです。本当にありがとうございます。」

 心からそう思って私は笑顔で感謝を伝えた。

「気にするな。お前の家族なのだ。これくらいは当然のことだ。」

 そう言って口を閉ざして視線をわずかに下げる。

 それから、すぐに上向けられた目には暗い色が浮かんでいるように見えた。

「お前を帰してやることはできないのだ。これくらいは当然だ。」

 そう言った言葉はいつになくかすれていた。

「私はお前の自由を奪っている。」

 主上の言葉が僕の心の中にぽつりと落ちた。

「この前お前の部屋に行ったとき、お前がどれほど帰りたいと思っているのかを思い知らされて、愕然としてしまった。あれほど顔を会わせ言葉を交わしていたのに、そのことに全く気付いていなかった。自分を不甲斐なく思う。まだ子供のそなたが、家族から離れて寂しくないはずはないのに、なぜか私といれば幸せなのだと思い込んでいた。傲慢な思い込みだった。」

 思い出すような顔つきで、主上は語りだした。

「お前は帰りたいと口にださないが、あのとき全身で帰りたいと訴えていた。窓から飛び出したそうにしていた。それから私は気になって数日お前の様子をよく見てみた。交友関係の狭さ、周囲の者たちはお前よりもずっと年上の者たちばかりで、心を許せる者がそばにいないということに気付かされた。」


「教師は教師でしかないのに、人だけ集めても、友人や家族がそばにいなければ孤独であることに変わりはないのに、お前に害のない人間を与えておけば問題ないと私は勘違いしていた。授業の様子を見ていて気付かされた。お前たちの間には教師と生徒以上の関係はなかった。唯一暁明と、それから付き合いの長い侠舜とだけは気安いのだとわかったが。」


「それはそうだ。私は、お前が誰かほかの者に心を開くのを恐れて、優秀な人物を取り揃えるという体のいい言葉を隠れ蓑にして、わざと年の離れた者ばかりを集めさせたのだから。仲良くなりようが、そもそもの初めからなかったのだ。」


「私はお前に不自由はさせないと言ったが、そんなことはなかった。ずっと一人きりにさせていたようなものだと気づかされた。暁明を残したのは侠舜からの言だった。今はその言葉を受け入れていてよかったと思っている。私は間違わずに済んだのだ。」

 主上が僕の手を握り込む。

「お前は必死に私の住む世界に馴染もうと努力をしてくれていた。ことあるごとに常識の違いを見せつけられてお前が動揺して、その度に乗り越えていくのを見てきた。立場や習慣の違いと、貴族たちの下男下女への当たりのきつさに心を痛めていることも知っていた。お前がそれを宮殿内で目の当たりにしてどう思うか、想像することは容易いけれど、どうにもすることはできなかった。耐えてもらうしか他になかった。」

 私はお前に無理をさせてばかりいるなと、主上は自嘲気味に零した。

「私はどうしたらよいのだろうと、最近はそればかり考えている。お前を帰してやればよいのだろうが、それはしたくはなかった。一度家へ数日帰してやることも考えたが、里心がつくかもしれないと思うと、それもできなかった。心の狭い男だと笑ってくれて構わない。今日はお前の心が少しでも慰められたらと思って連れてきた。しかし。」

 瞳が不安で揺れている。

「もし帰りたいと思うなら、帰してやっても良いと今は思っている。お前はなにも気にしなくて良い。私が全て上手く取り計らおう。お前たち家族が困ったことにならないようにするくらいはできる。」

 そう言って一呼吸おいて、意を決したような顔をする。

「帰りたいか?」

 僕らはしばし見つめあった。ずるいなと思った。

「私は幸せなのだと思います。主上にここまで気を使っていただいて。それだけで十分だと思います。帰れなくても平気です。」

「しかし、それは建前だ。身の丈に合わないものを与えられたとき、人はそれが必要のないものでも、もったいなく感じ遠慮して、本当の気持ちを押し隠してしまうものなのだと言われた。今のお前の気持ちはそれと同じなのではないか?私からの気遣いが重荷になって、正しい判断ができていないだけだ。お前が本当に欲しいと思っていることは別にあるはずだ。」

 主上が目を伏せる。

「ここまで私に気を使わせて、申し訳ないと思わない者はいないということは理解している。だが、そのために、本当に願っていることから目をそらしてはいけない。」

 主上が顔を上げた。



「帰りたくはないか?一人で辛かっただろう。」



 瞬間、言葉は僕の閉ざした心の奥に落ちた。

 あっと思った。

 思った瞬間に僕はこらえきれなくて、ここに来て初めて人前で泣いてしまった。

 涙はあとからあとから零れた。

 主上は僕を放っておいてくれた。いつもは用もないのに抱きしめるのに、この時ばかりは何もしなかった。

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