紅は園生に植えても隠れなし
あーる
(零) 壊れた赤信号
幼い頃の記憶というのは、何年経っても簡単に、そして明確に思い出せるものだ。それは、その記憶がアタシにとってなによりも大事な核だからだろう。
青い空を見上げる──
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「紅ちゃん。お母さん、もう少しでお迎えに来るからね」
空が真っ黒になり始めた頃、幼稚園の先生がおなじみのセリフを口にした。もはや母の「おかえり」より多く聞いたその言葉に、アタシは特に反応を示さなかった。他の園児はとっくに帰った。今日も、アタシが最後の一人だった。
「じゃあ紅、留守番よろしくね」
祝日。一般的な家庭だったら、外に出掛けたり、あるいは家でまったり過ごすのだろう。でもウチは違う。当たり前のようにアタシ一人で留守番。両親は仕事に忙殺されていたから、アタシはいつも一人だった。家族らしく過ごすことも、子どもらしく甘えることもできない。もしかしたら、これは一種のネグレクトなのかもしれない。でもアタシは、これが不幸であることに気づいていなかった。もうこの環境に慣れていたから。それと、もうとっくに、アタシの心はひねくれていたから。子どもってたぶん、幸せな子より不幸な子のほうがずっと早く大人になるんだ。そうして内側だけ大人になった子どもは、雨を拒んで陰にたたずむ。
「……」
無言で、冷めたオムライスを口に運ぶ。夏だというのに、我が家は妙に肌寒かった。
今日も、大好きな人形と遊ぶことにしよう。ボロボロにくたびれた、物言わぬ人形と。
一人の時間を受け入れてはいたが、だからといって寂しくなかったというわけじゃない。やっぱり、誰かと一緒に過ごしているときのほうが、ずっと楽しかったから。なにもせず、ぼうっと日が暮れるのを待つ日々は、結構しんどかった。
そんなアタシの孤独を癒した唯一の存在が──
「きみ、またひとりなの?」
一人の少年だった。
「いつもひとりぼっちだから、でんちゅうかとおもったよ」
訂正。一人の生意気な少年だった。
幼稚園のクラスが一緒で、しかも家が隣だった。というのが彼と知り合った
「ねえ。ひとりであそんでて、たのしいの?」
「……」
「ねえってば」
「……べつに」
「じゃあ、なんでひとりであそんでるの?」
「あそんでない。ただここにいるだけ」
「ならいっしょにあそぼ!」
「……え?」
「ほら、はやくすなばにいくよ!」
「お、おい、ひっぱるな。ふくがのびる」
最初から仲が良かったわけじゃなかったが、気が付いたら彼とつるむようになっていた。
「ねえ、なにしてあそぶ?」
「……なんでもいい」
「トンネルつくる? それともあなをほる?」
「……どっちでも」
「じゃあ、どろだんごつくろ!」
「うん」
「できた、おれのりきさく! そっちは?」
「こっちもできた」
「って、ぜんぜんちっちゃいじゃん」
「……こんなもんでしょ。はじめてつくったし」
「おれのデカいやつ、あげよっか?」
「……べつに、いらないよ」
「あげる!」
「い、いらないって、いったのに……」
「へへん、ホントはうれしいくせに。おれ、エスパーだからわかるんだ!」
「……じゃあ、もらっとく。……ありが、とう」
「おう!」
ぶっきらぼうなアタシにも、俊はためらいなく接してくれた。嬉しかった。陰で突っ立っているだけの自分を
でも、俊との時間は永遠じゃなかった。彼は、葵さんの看病で手が
「ずっとアタシにだけ構ってくれたらいいのに」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
小学生になった。俊と同じ学校、同じクラスだった。
「あ、きみいっしょのクラスなんだ!」
「うん」
「えっと、なまえなんだっけ? 『あげない』だっけ?」
「くれない」
「ふーん、おもしろいなまえ」
「……わるかったわね」
「おれ、やそざき しゅん!」
「しってる」
「なんで?」
「おなじようちえんだったでしょうが。それに、いえとなりだし」
「そっか。ねえ、きみまたひとりぼっちなの?」
「……だったらなによ」
「じゃあさ、これからいっしょにトーゲコーしようぜ!」
「え……」
「いえとなりなんだしさ、そっちのほうがたのしいって」
「いいの?」
「うん」
「……ま、まあ、アンタがそういうなら、すきにすれば」
「じゃあけってい! あしたまでに、ちゃんとツーガクロおぼえといてね」
「もうおぼえてるわよ!」
共に過ごす時間が長くなったから、自然と絡む機会が増えた。気を遣う必要のない俊に、アタシはすっかり心を許していた。
「おーいくれない、おれに子分ができたぞ!」
「は?」
「ほら子分、あいさつしろっ」
「ぼくは子分なんかじゃありません! ほうじょう さすけっていうなまえがあります!」
「せんごくぶしょうみたい」
「なんだそれ?」
「つよいひと」
「なにぃ!? すけべのくせになまいきだ!」
「すけべじゃなくてさすけです!!!」
「おまえ、きょうからおれのシモベだ!」
「なんでさっきよりグレードダウンしてるんですか!?」
茶助も加わって、いつしかアタシたちは三人でつるむのが当たり前になっていた。笑いとぬくもりに満ちたこの場所は、本当に居心地がよかった。アタシの中で、家族よりも俊のほうが大切な存在になっていたことは明白だった。
だから、アタシが俊のことを好きになるのも、当然の理だった。人間に寿命があることや、宇宙に重力がないことと同等に、当然のことだった。別に、なにか劇的なきっかけがあったというわけじゃない。秋が冬になるみたいに緩やかに、アタシは俊に恋をした。
「ごめんくれない、おれきょう、いっしょにかえれない」
「なんで?」
「ともだちとあそぶから」
「……なんで」
このときにはもう、好意と一緒に独占欲も大きくなっていた。ようやく手に入れたぬくもりを、手放したくなんかなかったから。だからといって、誰かを害したり、強引に俊と結ばれようとはしなかった。敵なんていなかったから。ストーカーの転校生はいたが、意に介するほどじゃなかった。俊が彼女に振り向くことなんてない。それになにより、小学生だったアタシたちに、恋愛なんてまだ早かった。
ただ単純に楽しい日々。これがずっと続けばよかったのに──
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
中学生になる。この頃になると、学校側に干渉してアタシと俊を同じクラスに組み込むなんて当たり前のことになっていた。そして、アタシの中で嫉妬の炎が揺らぎ始めたのも、この頃だった。
「俊ちゃん、お姉ちゃんがお弁当食べさせてあげる。はい、あ~ん♪」
葵さんは快復して学校に通うようになると、ベタベタと俊にまとわりついた。鬱陶しい。正直、永遠に
「センパイセンパイセンパイ! 部活の時間ですよ!!!」
うるさいガキも、俊のまわりに湧くようになった。誰なんだお前は。急に俊の目の前に現れやがって。薄汚い女の耳障りな声が、アタシは大嫌いだった。
「……し、ししし、しゅ、ん、くん」
ストーカーも健在だった。いまだに俊の側をうろついているらしい。うざったいが、コイツは放置で構わないだろう。陰湿な女に俊が振り向くことなどない。
「おい茶助、まりかの1/12スケール買ったよな?」
「もちろんです。あれを見逃すなど蛮行に等しい」
「まりかって、あの女のこと?」
「あの女とはなんだ! まりかは太陽系が生んだ神秘だぞ!!!」
「キモっ。所詮、二次元の存在じゃない。現実と向き合いなさいよ」
「笑止! 現実に俺を魅了する存在などいるか?」
「……目の前にいるじゃない」
嫉妬の炎は、俊のオタク趣味にまで飛び火した。それほどアタシの想いは強く、そして屈折していたのだ。でも──これは俊のオタク趣味と関係がないかもしれないが──ひとつだけ、嬉しいことがあった。
「お前、ずっとツインテールだよな」
「それがどうかした?」
「いや、中学生ぐらいになると、『もう子どもっぽいから』って理由でツインテールと決別する女子、多いじゃん」
「悪かったわね子どもっぽくて。アタシは気に入ってるの」
「別に否定してるわけじゃないって。つーか、似合ってると思うぞ俺は」
「……へ」
「やっぱ、金髪ツインテールは至高よな。ザ・二次元オブ二次元だ!」
「な、なによ、結局オタクのキモい感想じゃないっ。……期待して損した」
「いやだから、お前はそれが一番似合うんだって。俺も気に入ってるぞ」
「……そ、そう。りょうかい、だ」
この日から、アタシはずっとツインテールだ。
話が逸れたが、とにもかくにも、八十崎 葵、水蓮寺 みどり、久我 香澄の出現により、アタシの愛憎はさらに肥大化した。
でもまだ、彼女たちを排除するつもりはなかった。どうせ俊にフられてすぐに散ると思っていたから。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
学園に入学し、一年生になる。もちろん、俊と同じ学園、同じクラスだ。
でも安心なんか微塵もできなかった。むしろこのときあたりから、アタシは強い危機感に見舞われていた。
「ほら俊、一緒に帰るわ──」
「俊ちゃ~ん、お姉ちゃんと一緒に帰ろう♪」
「葵ねぇ、また来たの!?」
「お姉ちゃんはいつでも俊ちゃんの隣にいるわ。だって、それが夫婦の常識だもの」
「こら、学校で密着してこないでよ! 公衆の面前なんだから──って、紅、そんなところでなにしてるんだ? 俺に用か?」
「……なんでもない」
中学校を卒業して、葵さんの
「センパイ、一緒にお昼食べましょう!」
久我 香澄、お前に至ってはまだ中学生だろ。なんで昼休みのたびにウチの学校に来てるんだ。
「ねえアンタ、中学生でしょう? これは立派な不法侵入よ」
「すみません、どいてください」
「痛っ」
「センパーイ! ボクですよ! ボクが来ましたよ!」
彼女はシンプルに怪力だった。コイツは
「……羨ま、しいな。俊くん」
日陰者も、目を離した隙に一流のストーカーに成り上がっていた。たぶん、街中の防犯カメラは彼女の手の中にある。コイツも面倒な相手になるだろう。
「じゃあ俺、部活だから。じゃあな、紅、茶助」
「頑張ってください、俊君」
「あ……」
俊がますます忙しくなって、一緒に過ごす時間が減った。俊がだんだんと遠くに離れてしまうような気さえした。「俊がアタシに構ってくれなくなったらどうしよう」、「アタシまた、一人になるの?」、「俊を手放したくない」。焦りや危機感が、アタシの病みを加速させた。
「あの女たち、どうして俊に
「俊は、アタシとだけ口を利けばいいのに……!」
「アタシから俊を奪おうとするヤツらなんか、嫌いだ!」
自分でも驚いている。まさかアタシが、ここまで執着心の強い女だったなんて。まさかアタシが、こんなに
……わからないや。
「俊……好きよ」
真っ暗な部屋で、言葉に出してみた。我ながら似合わないセリフだ。アタシは、自分の感情を伝えるのが下手くそで、意地を張ってしまうから。たぶん、アタシが恋心を抱いているなんて、俊は夢にも思わないだろう。
「……俊、大好き」
もう一度、つぶやいてみる。
──うん。この気持ちは本物だ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
二年生になった。結論から言えば、アタシの心の余白はどんどんと小さくなっていた。
「念願の、俊くんと同じクラス……!」
まず、水蓮寺 みどりがクラスメイトになった。彼女が他のクラスに配属されるようずっと工作してきたのに、学園側がトチったか。……いや、買収されたのか。いずれにせよ、これであの女が俊と接点を持つ可能性がぐんと増したというわけだ。
「センパイ! ボク、ちゃんとセンパイの後を追いかけてきましたよ!」
そして久我 香澄が学園に入学してきた。もちろん、俊と同じ陸上部だ。これでますます、アイツと俊の時間が長くなってしまう。
「はい俊ちゃん、体育着よ。今日の授業も頑張ってね。お姉ちゃん、見守ってるから♪」
「葵ねぇも授業あるでしょ! 見守りとか必要ないから!」
俊が他の女に笑いかけている。許せない。許せない許せない許せない。
もう、悠長なことは言ってられなくなった。のんびりしていたら俊が取られてしまう。アタシの核が、なくなってしまう。俊は、アタシのものなのに。
それだけは、絶対に許さない。
「……ねえ。アンタって、好きな人とかいるの?」
一回だけ、訊いてみたことがあった。
「好きな人か? むろん、まりかだな」
「オタクの妄言なんて聞いてないの」
「三次元の話か?」
「三次元っていう表現がそもそもキモいけど、そう」
「うーん……今は特にいないな」
「あの女……あの、陸上部の後輩は?」
「香澄か? たしかにかわいい後輩ではあるが、恋愛感情はないかな。元気すぎるところがあるし」
「じゃあ葵さんは?」
「は? 葵ねぇは姉だぞ、好きになることなんてない。あぁ……でもまあ、大切って意味の好きなら、好きだな」
「……ふーん」
「なんだ、急に恋バナとか。もしかして紅、好きな人できたのか!?」
「は!? ば、バカなこと言ってんじゃないわよ! アタシは、別に……」
「そうかそうか、あの紅が恋愛か! ま、せいぜい頑張れよ。幼馴染のよしみとして、俺も協力してやるからさ!」
「………………なによそれ。バカ」
この会話で、アタシは思い知らされた。俊は、アタシのことを恋愛対象として見ていないんだって。それどころか、葵さんや久我 香澄のほうがよっぽど大切なんだって。
アタシは決心した。
あの女どもを排除しよう。
そして、俊を完全にアタシのものにしてしまおうと。
たとえ、彼を殺すことになったとしても。アタシはそれほど、俊のことを愛しているから。大丈夫。人形を
「……俊。アタシの手で、
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「よっしゃー、戦争に大勝利したぜ! これでまた、まりかを拝める!」
隣の家から、俊の声がした。ったく、聞いてるこっちが恥ずかしいっての。
優しい風が、耳元を通り抜けた。
初夏か。アタシはあまり好きじゃない。
青い空を見上げる──やっぱりアタシに、太陽は似合わないな。
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