かわいいララちゃん
清涼
第1話 ララちゃん農協へ行く
「北川ララです」
支店長の横に立って、自己紹介をする彼女を初めて見た時、私はこの世にこんなに愛らしい顔をした女の子がいるのかと、その真っ白な肌とばら色の頬、サクランボみたいに小さくてつやつやした唇に、見とれてしまいました。
「梅沢サチさん。サッチャンは、入職25年のベテランだから、何でも聞きなさい」
支店長がそういうと、ララちゃんは、
「よろしくお願いします」と頭を下げました。
ふわっと、甘く、優しい、夢の世界のそよ風みたいな香りがしました。
私の職場は、まるで赤ん坊が生まれた家庭みたいになりました。
ララちゃんの動きひとつにみんなが注目して、笑ったり、喜んだりしました。
それは、椅子にどすんと腰掛けて、スーッと一メートルくらい後ろに椅子が動いたとか、コピー機の使い方を教えると、
「ワーすごい」
なんてララちゃんが手を叩いたりすることがほほえましく、楽しかったのです。
しかし、悲しいことに、ララちゃんは本物の赤ちゃんみたいに、日に日に成長してくれませんでした。
コピーをとりながら
「あー面倒くさくなっちゃった」
と言ってあくびをするのでした。
机の水拭き、お茶汲みなどは、頼んでもやりません。伝票整理や、備品のチェックも、ミスだらけで、最後までやり遂げられません。
私は次第に、まったくもう、カワイイからって、何でも許されると思って・・・、と心の中で思うようになっていました。
私だけでなく、みんながそう思っているはずなのですが、誰も何も言えません。
「いいよ」
「大丈夫」
みんなやけに軽薄な言いっぷりです。私だけは、そんな腰抜けにはなりたくありません。今日こそはミスを指摘して、きつく注意しようと近くに行きます。
しかし、ララちゃんの顔を見たとたん、まぁ、いいか、と思ってしまうのでした。
計算をするのが怖かったのですが、私の年からララちゃんの年を引いたら、十七でした。
ララちゃんに、星のような瞳で見つめられると、誰だってへなへなになってしまいます。ついでにララちゃんは、ものすごく良い香りがします。一体この香りはどこから来るのだろう、と不思議になるくらいです。口の中なのか、髪なのか、身体の毛穴という毛穴なのか。甘くて、優しい、夢の世界のそよ風のような香りなのです。私たちの世代にある香水ぷんぷんとは違います。
そんな、お人よしの多い職場であることにララちゃんは気付いたのでしょう。だんだんと支店長みたいにふるまうようになっていきました。
コピーや掃除なんかは雑魚がやれ、とばかりに、ララちゃんはもうやりません。私が仕事を頼んでも、やってくれません。
何をしているかというと、職場を悠々と歩き回り、何かを考えるような顔で首をかしげたりしていると思ったら、色んな提案をし始めました。
「支店長、お客様サービス向上のために、カフェみたいに入りやすい雰囲気にしませんか」
そう言って、支店長に喫茶店の入口によく置いてあるような黒板を買わせました。そして、こう書いたのです。
『いらっしゃいませ。農協にようこそ。農協とゆうのは百性でなくても利用OK!SANKU』
ララちゃんは顔に似合わず、字がとんでもなく汚い。農の下の部分はよく見ると文という字が隠れていたり、百姓と書きたかったようですが、残念なことになっています。最後の言葉はもしかして、THANK YOUのミスでしょうか。あるいは、若者言葉なのですか。
「ぷっ、オッケーだって」
「サンクって、何語?」
「知らなーい」
「なにこれー」
若い女の子たちは、くすくす笑っています.
支店長は何とか芸術を理解しようと、ルーブル美術館で難しい顔でたたずむ日本人観光客みたいでした。
若い女の子たちは、こそこそ話で、手のひらに字を書いてはうなづき合って、黒板を見て笑っていました。
私は笑うよりも何よりも、恥ずかしさで身体が熱くなってきて、今すぐに、どんなもんだ、とでも言うような顔をしているララちゃんと、黒板を、この場から消したいと思いました。
ところが、支店長の言葉は信じられないものでした。
「なるほど、ね。うん、わかった。よし。こういうポップな感覚は、我々にはどうしても書けない。いいよ、ララちゃん」。
ララちゃんのどんなもんだいの顔が、ますます確信を得て、ふんぞり返りました。
どこに置こうか、と思案顔です。
女性職員で唯一の先輩で、もうお孫さんもいる田中さんが、ゆっくりと首を振りながらあきれたように私を見ました。
「言葉の・・・、使い方がおかしいと思います」と私は言いました。
すると、私の同期である課長のアオキくんが、
「うーん、誤字はともかく、百姓っていう言葉はよくないね」と言いました。
ララちゃんは、顎を少し上げて課長を見てから、ゆっくりと黒板を眺め、
「ああ」
と言うと、
机に行って白いマーカーと消しパッドを持ってきました。
そして、『百性』という字を消しました。
わずかにほっとしたのもつかのま、
『農民』と書き替えました。また『農』の字が変でした。
「あのねぇ・・・、ララちゃん・・・」
課長が言いかけると、
「うん。いいだろう」
と支店長が言いました。
そしてララチャンの手からペンと消しパッドを取ると、『SANKU』をさっと消しました。
「こんなの、消しちゃえ」
支店長は、ララちゃんを見ました。
「あはは」
支店長が笑うと、
「あは☆」
ララちゃんも笑いました。
仕方がなく、みんなが苦笑いをしました。そのボードは、支店長の手によって、自動ドアのすぐ横に置かれました。信じられない思いでしたが、みんなは何事もなかったように、仕事に戻って行きます。こんなものは置くべきではい。この職場にそぐわない。私はずっと心で、そう叫んでいましたが、そのボードはもう世の中に出てしまいました。
私はアオキくんの机のそばまで行きましたが、せわしなくパソコンのキーを叩く姿を見たら、何も言えませんでした。
私はまた、ボードを見ました。
そうよ。あんなもの、誰も見ない・・・、と思ったら、ここのお客さんたちは、根が真面目なせいか、新しく置かれたボードの前に立ち止まって、必ず読んでいくのでした。
私はそのたびに、(ごめんなさい)という思いで見ていました。
誰かが私の肩を叩きました。田口さんでした。
「町会長さんに、赤福頂いたから、お茶でも入れましょう」
私はふーっと息を吐きました。
ずいぶんと長い間、息を止めていたみたいでした。
田口さんや私は、昔の名残りで、いまだにお茶汲みや、灰皿洗いをします。田口さんはもう五十で、お孫さんだって生まれたのです。それでも、昔のまま、こういうことは女がやったほうが清潔、と嫌な顔もしません。
若い女の子たちには、もうあなたたちの代からはやらなくていい、と言ってあります。だけど、カチャカチャと湯沸し室で音がすると、若い女の子たちは、すっ飛んできて、手伝ってくれます。
私もそうやって来ました。昔ながらの、本当にいい雰囲気の職場なのです。
「今度からはアルバイトの子にお茶汲みと茶碗洗いをお願いしよう」
と支店長は言っていたのに、ララちゃんはこういうことは、一切やりません。支店長は、もうあきらめてしまったようですね。
そのくせに、ララちゃんは、お茶やお菓子が案外好きなんですよ。がぶがぶ飲んで、
「あー」とか「ふー」なんて美味しそうな声を出します。
私がお茶を配っていると、マニュアルを読みながら顔も見ないでトレイから取ったりします。以前、私がララちゃんの机に湯呑みを置いた時も、こうです。
「おかまいなく」
ララちゃんのいい香りがしました。
「あ、はーい」
私はおかまいしたことを恥じるみたいな顔で言っていました。湯沸し室に戻ると、田口さんが、立ったままで赤福をほおばっていました。
「ごめんなさい、お先に頂いてます」
もごもごと言いました。
私は少し安らぎました。いつもの光景でした。
しかし、ララちゃんは、何をするか、何を言うかわからない、不安な存在でした。
帰り道、映画を観ました。レディースデーで千円でしたし、家に帰りたくない気分でしたから。
日本文学の名作を下敷きにしている、家族をテーマにした話でしたが、まったくしらけてしまいました。
農民が出てくれば、ララちゃんの書いたあの字を思い出すし、お茶が出てくれば『おかまいなく』を思い出す、という状態でした。
私はどうしてこんなにララちゃんのことばかりを考えているのか、自分でもわかりませんでした。
ついにララちゃんは、窓口にも座るようになりました。もちろん支店長に自分から願い出たことです。
田口さんと私が交代でサポートするように言われていましたので、私も極力気をつけているつもりでした。
町会長もしている地元の名士が、300万円の預金に来ました。私と一緒に手続きを済ませると、折り紙で折ったような何かを、カウンターの下のビニール袋から出して、通帳と一緒に手渡したのです。
「それなぁに」
私が聞くと、
「おりがみ折ってきました」
とララちゃんは言いました。
見ると、いろとりどりの折り紙で、キツネやウサギなどが作ってあり、丁寧に目やひげまで書かれています。
私はサーッと血の気がひきました。
ボードのことなんか吹き飛ぶくらいの、珍事だと思いました。
『300万円も預けたのに、キツネの折り紙とは、馬鹿にするな』
案の定、名士から電話がかかり、支店長と田口さんが色んな景品を持ってお詫びに行きました。
「どうして景品を渡さなかったの」
支店長がそう聞くと、ララちゃんは平然とこう言いました。
「経費節減ですよ、これからは。無駄ははぶきましょ」。
何というふるまい。ララちゃんが全国にある農協のトップであるというのなら、話は別ですが。
待合席でおしゃべりを楽しむ主婦に「お静かに」なんて書いた紙を見せて怒らせたこともあります。
通帳へのコメントの入れ忘れは、もう定番ミス。どうして忘れてしまうのでしょうか。私は自慢ではありませんが、そんなミスは一度だってしたことはありません。コメントを入れ忘れると、一度訂正印を押して、やり直すことになり、通帳が汚くなるので、お客さんがとても嫌がります。当たり前です。
入金に来たお客さんの通帳から、その額をマイナスして『引き出し』として通帳記入するミスには、信じられない思いがしました。
個人のお客さんはまだいいのです。学校PTAの会計担当の奥さんなんか、そりゃ、ものすごい剣幕でしたね。何年間も保存され、皆が見るPTAの通帳が『引き出し』になったり、訂正印だらけでは、印象がわるいというものです。
「あなた、何度ミスをしたら、気が済むの。一筆、書きなさい」って。
ひどいでしょう。
でも、もっとひどかったミスが、支払い額のミスです。
百万円下ろしに来たお客さんに九十九万円しか渡さなかったのです。閉店後、お金が一万円多くて、全部調べて、その日に下ろしに来たお客さん、全員に電話したのですよ。
そうしたら、そのうちの百万下ろした女性が、「間違えるはずはないと思って数えていなかったけど、待ってて」と言って数えて、九十九万しかないことが判明。支店長が持って行ったのです。恥ずかしいです。私が入職後、初めてのケースです。
暑い日でしたので、支店長が大汗をかいて戻り、麦茶を立て続けに三杯飲み、息を切らせてミーティングが始まりました。
「今度という今度はねぇ。どうしてわざわざ機械が数えたお金を数え直したの」
支店長も、よほどこたえたのか、いつものように甘い声は出しませんでした。
景品用の赤いタオルをビニールをむしりとるようにして出すと、顔や頭を荒っぽく拭きました。
ララちゃんはさすがに殊勝な顔で、下を向いています。
私は、みんなにわからないように、そっと、ため息をつきました。いい薬だ。これでやっとララちゃんは、少しは自分を疑ってかかるぞ。慎重になる、と思いました。
ララちゃんの赤い小さな唇からは、今にも嗚咽が漏れてきそうで、かわいそうになってきました。近くに行って、抱きしめてあげたいような気分になりました。ララちゃんは、こうして見ると、まだまだこどもと同じなんだと思いました。
今までのことを、全部許そう。これからは、ミスの回避に力を貸そう。全力でララちゃんを応援しよう。
・・・なんて一瞬でも考えた私が馬鹿でした。ララちゃんは、赤い唇をひらいて、顔をパッとあげると、合点がいったように、こう言ったのです。
「あの時、ウメさん、数えてっていいしまたよね」
ララちゃんは、私を見ました。
「えっ?」
そこにいる皆の視線が私に注がれて、あまりの緊張に、景色がぼやけました。
心臓がドキドキして、あたかも私が不正でも働いたみたいな、重要なミスを犯したような気持ちになって、真っ赤になってしまいました。
「そんなこと言ったの?」
支店長はいつもの色男ぶりが台無しになった、乱れた髪の毛に赤いタオルを首にかけた姿で私を見ました。
せっかく燃え始め、ララちゃんに注がれるべき怒りの火の粉が、私に降りかかってきました。
「はい。機械から出てきたものでも、一応確認ねって。だからあたし、一枚多いかなって思って」
「ああ・・・」
支店長は、心底、冷酷な男だと思いました。アオキくんは寝てしまったのか、目を閉じて下を向いています。田口さんも、病人みたいな顔で、泣き出しそうです。ララちゃんは、美しい顔をした悪魔だと思いました。
「・・・す、・・・みません」
私はなぜか、ララちゃんよりも深く、頭を下げているのでした。一応確認ね、というのは、なんというか、ほんとに一応、ですよ。まさか100万円を数え直して、一万円戻したとは、私も気づきませんでした。何か他のことをしていたのでしょう。そこは私もうっかりしました。
それにしても、どうして私のせいになるのですか。この時、私は辞めたいと思いました。
ちなみに、私はこの「ウメさん」と呼ばれることが、どうしても嫌なのです。生理的に嫌といいますか。寒気がします。私には梅沢サチという名があります。
子どもの頃から「サッチャン」というあだ名以外、ついたことはありません。もちろん、梅沢、と呼ばれることはありますが、ウメとは。それに「さん」ついたら、もう私ではないのです。「ウメさん」と呼ばれることの根拠がわからないのです。社会人として、他人に敬意を払うという教育も、受けてこなかったのでしょうか。支店長まで調子にのって、ふざけて「ウメちゃん」なんて呼んだりするときがあって、皆が笑うけど、私はちっともおかしくないです。
メモに至ってはもっとすごいですよ。ウに○がしてあって、それに「さん」。食品工場の登録商標みたいですよ。
ちなみに田口さんは簡単な字のせいか、田口さん、とちゃんと書きます。役職付のメモはそれぞれ『課長御中』『支店長御中』などです。
これに至って私は、ララちゃんを見る目が完全に、冷めました。
楽しみだった映画も嫌いになりました。日常生活が平穏でなければ、映画なんて楽しくも悲しくもないのですね。
自分の生活のほうがよっぽどドラマチックというか、もう、毎日が嵐です。
まったくもう、ララちゃんときたら、字が汚くて、その上、頭が悪くて学歴もない。気立てがよければ救いだけど、性格もブス。なんて哀れなのでしょうか。せいぜい、それがばれない仕事を選択すればいいのに。
・・・ああ、また考えてる。・・・。私はララちゃんのことばかりを考えて、そして、そんなことを考えている自分はどんな顔をしているのかな、と思うと身震いがします。
なのに、田中さんたら、この間、言うんですよ。
「なんだか、ララちゃんが来てから、サッチャン、生き生きしてる」
冗談じゃないですよ、本当に。
アオキくんだって、
「あれ、サッチャン、ララちゃんみたいな匂いがするよ。同じ香水買ったの?」
だから、冗談じゃないって言うの。
たまたまよ。たまたま、買ったのが、似てたんでしょう。
それで先日は、町会長さんが、私に縁談話持ってきたって。ありえないっていうの、本当に。
私、もう、四十五ですよ。
あは☆
私の日常、どうなっちゃうのよ、本当に、もう。ふぅ・・・。
もうちょっと、農協でがんばっちゃおうかな。そんな今日この頃なんです。
かわいいララちゃん 清涼 @seiryo
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます