第19話

 恥ずかしくなって美園先輩とは違うルームに向かう。いきなり壁ドンして耳を舐めるって本当にどういうこと? 新しい渋谷の若者文化なのかな。いや、んなわけない。


 白くて無機質な廊下を歩く。耳をティッシュで吹きながら。


 東新宿発電所で働いて、もう半年が経過する。しかし未だにセックスが出来ない。未だに、私から抱いたり、体を洗ってあげたり、という自分主体のサービスしか提供できない。おかげで賃金は半分と、普通のバイトよりちょっと高いぐらい。なので、他のバイトも始めなきゃ。


 ちゃんとセックスをしたいという思いは日に日に増すばかりだ。もちろん最初はワタル君と。恋の成就としても、そして、仕事でつかえるようにしても。


 付き合って半年近く。美園先輩の言う通り、確かに覚悟を決めないといけない。でも、やっぱり未だに踏ん切りがついていない自分も、体を許せないと意地を張りたい自分も、心の中にいるのは確かで、ずっとこの問題を保留にし続けたい自分もいる。


 壁には奇妙な絵が貼られている。縄で縛られた女性がこちらをじっと見つめている絵。ハルカの絵のような瞳だが、その瞳には何も抱えてはいない。しっかりとした油絵のように見えるが、込められた感情や意味はスカスカの、悪い美術。


 はぁ、美大でさんざんな目にあった事を思い出してしまった。


「そんな自分で奇妙な絵とか言わないほうがいいですよ、お嬢様」


 振り返る。執事のような声の主は、仮面を被った細身の男だった。ますます執事らしい。


「あなたは誰ですか」


「私は通りすがりの天才起業家です」


「は?」


 私の足元にカードのようなものを投げる。怪盗みたいにキメているつもりなのだろうか、痛い。


『天才起業家 寿ダイゴ』


 え。さっき話していたあの『コーレス』を作った社長? 嘘でしょ。なんでこんなところに来ているの? そしてよりにもよってなんで私の前に。親を結婚させ、養子を作る運命を作り上げてしまったこのアプリ開発者がいるわけですか。


「仮面の無礼は許してほしい。この絵の作者は君・双葉ヒカリさんだよね」


「そうです」


「買い取らせてくれ。お金はそうだな、百万は出そう」


 異常な値段である。そんな誰とも知らない作家に百万を払う奴はいない。相当この絵を高く買ってくれた、というべきか。でも何か裏にあるな、絶対。


 この絵は、最初にこの発電所に来た時に書いた、縄で縛られた男性や女性たちの絵。Ipadで書いていたものを、そのまま油絵まで戻してきたという感じ。


 ミクリさんが「せっかくなら載せてあげたいな、クリエイターの応援もしたいし」と気軽な感じで貼ってくれたもの。それがどことなく、良く分からない理由で入ってきた天才起業家に買われるチャンスをもらってしまった。でも、私この人に絵を売ったらろくでもない気がする。


「私は絶対に約束する、なんなら今ここで現金を渡してやる」


 どこか分からないブランドものの黒い財布。寿ダイゴは中身を開き、パラパラと私の前で万札がいくつあるか数え始めた。


「いいえ、これはとりあえず一万円で買ってくれませんか」


「いいとも、今度お話をしよう。君は私の最高のパートナーになれる資質を持っている」


 男はマッチングアプリ『コーレス』を私に見せてくる。見せられたスマホの画面によると、双葉ヒカリと寿ダイゴの相性は100%。え、この人が計算された運命の相手………。


 これは意図的にやったわけではない、精密なAIが計算した本当の値だということを男はそのあとずっと強調した。


「あれ、ヒカリちゃん、そんなところで何をしてるのさ~、給料下げるぞ~」


「すいません~!」


 ミクリ所長の見回りの時間だったようだ。いつも真面目に働いている私のことだ(自分で言います)、ちょっとおかしいなと思ったのだろう、私に近づく。


「どうしたの?」


「あの仮面の男が………」


「?」


 あたりを見回すと、仮面の男はもうどこかに消えていた。怪盗かよ。

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