第5話
全裸で、且つ無心で走る。ガラス張りの廊下を走る。ガラスの中では、発電のための性行為が行われていた。でもそれは、情報として入ってくるだけであって、私を立ち止まらせる材料にはならなかった。人のセックスより、自分のふがいなさにがっかりしながら、現実を見たくなくて、ずっと走っていた。
美園先輩には抱かれたかった。なにしろ、生活と通学のためだ。ミクリ所長に言われた通り、3日以内に自慰行為を成功させなきゃいけない。理性的に、オナニーをして、セックスをして、食材と画材を買いたい。
女に抱かれたこと自体が嫌だったわけじゃないと思う。
なんせ自分は同性愛には慣れているほうだった。私の両親はゲイ夫婦で、両方お父さんだった。最終的には離婚したけど、愛を持って育ててくれたし、両親が仲睦まじくしているのはこれまで何度も見てきた。進学させてくれた中高一貫校は女子校で、そこはレズビアンにとっては天国のような場所だった。私はあまり女子からもモテなかったけど、同級生は女子同士の純愛を楽しんでいるようだった。眺めている分には、他のヘテロセクシャルより、全然慣れているはずだ。
しかし、体が拒絶した。触れられることを拒絶した。肌を寄せられることを拒絶した。なぜかは分からない。理解できない、処理できないから無心で走る。裸体を見られた恥ずかしさ、先輩のハグを「気持ち悪い」といったふがいなさ、ミクリ所長の期待に応えられない惨めさ。すべてが、体の奥底から噴火するようにこみあげてくる。これじゃあ、セックスが出来ないじゃない!
「待って! ヒカリちゃん!」
そう言われても、逃げるしかなかった。逃げるしか。
ゴン、と頭蓋骨に痛みが走る。誰かと衝突したような鈍さの痛みだ。どうやら私は、裸のまま誰かとぶつかってしまったようだ。
閉じた目を開く。ぶつかったものは、私より身長の高い男。締まった腹筋。茶髪で藍色の目。シャープな顎。茶髪でチャラそうなのにも関わらず、瞳はとても沈んだ暗さを持っている。女子校に居ない、どこか心の闇をような男性だった。
……と解説している暇はない。
「ごめんなさい! 頭は大丈夫でしょうか!」
意図せず、相手の知能の無さを馬鹿にするような表現になってしまった。また謝りたいけど場が混乱するので控える。男からしてみれば、裸の女がぶつかってくるなんて、よっぽどの痴女じゃないとあり得ないような状況。理解するだけでも大変なはずだ。
「僕は大丈夫です。それよりごめんなさい。僕も周りを見ていなくて……」
「いやいやいや! ぶつかった私のほうが悪いんです!」
「てか、どうしてそんな恰好で! 裸じゃないですか!」
「ヒカリちゃん……見かけによらず足早いじゃない」
美園先輩が私に追いつく。もう若くないんだから、と言いながらハァハァと息をたてていた。私が来ていたワンピースとパンツとエアイズムシャツを投げつける。
「美園先輩も申し訳ありません。さきほど『気持ち悪い』なんて言って、逃げちゃって」
「いやいや、こっちもいきなり超悪かったわ。まじ謝罪」
「美園さん、この子、新人の子? 」
話の流れが分からない、茶髪の男が美園さんに尋ねる。美園さんを知っているということは、この男もここで働いているのだろう。美園先輩に迷惑をかけた分、先回りして行動しないといけない。
「新しくここで働くことになりそう……なのかな、になりました、双葉ヒカリと申します」
「僕は、一年前ぐらいからここで働いている、伊吹ワタルっていいます」
「よろしくお願いします」
「こいつ、見かけ通りなのか見かけ通りじゃないのか、慶應生なんだよね」
美園先輩は、くよくよして落ち込んでいる私とは裏腹に、ワタル君を茶化しながら笑っていた。
「いや、美園さん、それ言うのやめてくださいよ……」
「ヒカリちゃんはミクリ所長から条件付きで働いているわけ。ほんと、見た目通りにお嬢様でさ、オナニーすらまともにできないから、さっきまで一対一でレクチャーをしていたわけ」
「オナニーできないのにここ来ちゃった!?」
すごい勢いでプライバシーの壁が崩れ去っていく。まぁ、オナニーが堂々と語られる現場というのが、今の我々の生活を支えていると考えると、いいのか。
「美園さん、そりゃいきなり経験もない女の子を襲っちゃだめですよ! デリカシーなさすぎ! 性行為をする前は同意が必要! 痴漢になっちゃう!」
「痴漢って、ここはそれを公然にする施設じゃないの!」
「確かにそうだけど、それをいきなり未経験の女にするのはどうなんですかっ!」
「私が経験不足で申し訳ないです!」
そもそも、私が世の中の現実を教科書通りにしか捉えていなかったのが問題なのだ。ボンボンばかりの慶應生でも向き合おうと思えばわかることを、私は目を逸らし続けていたのだ。
「とりあえず、オナニーするコツは、人のセックスを見ることだ! ヨーロッパ人は、味のない白米を、いきなり食べられますか? ふりかけやケチャップかけないと無理でしょう!」
「確かに」
美園先輩は大いにうなずき、私はきょとんとしていた。
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