第3話 ピグナータの使い
「――ッ、あぶない!」
「えっ」
アリーチェの叫び声は唐突だった。
わたしは逆にアリーチェに力強く引っ張られ、前のめりに倒れこんだ。
あまりに突然で、身構えることもできなかった。
「ッてて、急に引っ張らないでよ」
服についた土を払いながら、起き上がる。顔をあげると、すでにアリーチェはわたしに背を向けて立ち上がっていた。
そして、その視線の先を見て、わたしは息をのんだ。
蠢く水の塊。
そうとしか形容しようのない存在がいた。
ぐにゃりと揺らぎ続ける捉えどころのない輪郭。わたしたち
意思持つ水とでも呼べばいいだろうか。
『それ』は決まった形状をとることなく、常に変化し続けていた。
だが、なによりもわたしの目を惹いたのは、蠢く水そのものではなく、『それ』がまとわりつくあるものだった。
意思持つ水は、一振りの刀にまとわりついていた。
「アリーチェ、あの刀って、まさか」
「ええ、間違いないわ。アタシの刀よ」
アリーチェが、ピグナータの泉に捨てたはずの刀がそこにあった。
悪縁切りの言い伝えが、今まさに実現されようとしていた。アリーチェに夢を追わせようとするわたしを狙い、ピグナータの使いがきたのだ。アリーチェから『探索者になる夢』という縁を断ち切るために。
刀の切っ先は、間違いなくわたしへと向けられていた。
「エイシャは下がってて!」
「でも」
「術師だったら、後方援護が基本でしょ!」
「――っ、わかった」
アリーチェはわたしをかばうように、水の塊――ピグナータの使いの前に立ち塞がった。果敢に素手で攻撃を仕掛けていくけれど、相手の身体は水そのもの。打てど蹴れどまるで手応えがないように見える。
であれば、それを何とかするのが術師の仕事だ。
わたしはウーズ型端末を取り出した。
「ウォッチコカトリス、起動!」
ウーズ型端末の護身
雄鶏の頭部と蛇の尻尾をもつ、石毒の竜コカトリス。その模倣を完了した端末は、魔眼でピグナータの使いをにらみつけた。
見たものを石へと変えるコカトリスの魔眼。
あくまで模倣ゆえに石化とまではいかないが、ピグナータは凍りついたかのように動きを止めた。
その隙を見逃すアリーチェではない。
「その刀、返してもらうわよ!」
アリーチェは刀の刃をつかみ、力ずくで引き抜いた。
そのまま、流れるような動作で刀を構える。
「消し飛びなさい!」
たった、一薙ぎ。
力任せで乱暴な一撃は、衝撃波にも似た突風を巻き起こした。
液体で構成された不安定な身体では、突風を前に踏ん張ることもできず、ピグナータの使いは水飛沫となり散っていった。
突風の去った後には、刀を携えた赤紫の
「……ねえエイシャ、これであの変な水は諦めて帰ってくれたかしら」
「そうだといいけど、相手は神の使いだし」
消し飛ばせはしたけど、身体が水である以上あれでダメージを与えられたとも思えない。
なにより、ピグナータの使いがこの程度で手を引くとは思えなかった。
「願った本人がもういいって言ってるのよ。納得して退いてくれてもいいじゃない」
「寛容な神様ならともかく、縁切神だからね」
「ピグナータは優しくないの? 恵みの雨を降らせてくれるって聞いたことあるわよ」
「たしかに雨神ではあるけど……雨は雨でも、怒ったときに雨を降らせるタイプだから」
ピグナータは球神殺しのような物騒な神話も持つ神だ。そもそも『縁結び』ではなく『縁切り』の神と呼ばれるくらいだ、いずれにせよ、寛容さとは程遠い。
それを証明するかのように、突然、スコールが降り始めた。
「こ……て、ピグ……タがおこ…………こ……んじゃ!」
「なんて!? 聞こえない!」
あまりの雨の強さに、隣のアリーチェの声すら満足に聞き取れない。
太陽は分厚い雲で完全に覆い隠され、あたりに影が拡がる。
動こうとしたわたしは、そこでようやく自由にならない足に気づいた。
「足が、動かない!?」
足をあげようとしても、万力で固定されたかのように微動だにしない。
下を見ると、蠢く水たまりがわたしの足を飲み込んでいた。じわりじわりと危機感がにじり寄る。どう抜け出したものか考えていると、なぜか雨が降り止んだ。ただ、あくまで止まったのは雨のみで、あたりは薄暗いままだ。
いったい何が起きているのか。
目まぐるしい事態の移り変わりに困惑しながら、わたしは頭上を見上げた。
「え」
空には巨大な水の手が浮かんでいた。
どうやら、雨が止んだわけではなく、水の手に遮られていただけらしい。
あまりに規格外な光景を呆然と見上げるわたしに、水の手が振り下ろされる。まるで虫でも叩き潰すかのように、巨大な水の塊が迫る。
いくら
無造作で、それでいて確たる殺意のこもった攻撃を前に、頭の中で警報が鳴り響くが、それでも足は拘束されたまま動かない。腕に抱えたコカトリス姿の端末が賢明に空を睨みつけるが、規模が大きすぎるようで、停止どころか減速する気配すらない。
脳裏に死がよぎった。
「エイシャ、つかんでッ!」
視界の端で赤紫の人影が揺らぐ。
わたしは無我夢中で手を伸ばした。
「うらぁッ!」
アリーチェはわたしの手を取ると、勢いよく腕を引っ張った。
足を拘束されて動けなかったはずのわたしは、気づけばアリーチェの方へと倒れ込んでいた。
アリーチェはわたしを抱きかかえると、迫りくる水の手に背を向けて、勢いよく走り出した。
いったいどうやってわたしを動かしたのか。
アリーチェに抱えられたまま、自らの足先に目を向けると、わたしの足首から先は綺麗に切断されていた。
「ごめん、走れそうに見えなかったから、切ったわ」
「ううん、助かった。でも、アリーチェはどうやって抜け出したの」
「アタシは無理やり振り払っただけよ。あの程度で足止めになるわけないでしょ」
なるほど、圧倒的な力業だが、結局のところ、通用するならそれが一番ものを言うわけだ。
抱きかかえられた姿勢で下から眺めるアリーチェの顔は、どこかいつもより頼もしい。
アリーチェはわたしを抱きかかえたまま、足に絡みつく水をものともせず、強引に走っていた。
「でも、さすがにこのまま逃げ続けるのは無理ね。エイシャ、なんとかできない?」
「たぶん、雨を止めればなんとかなる」
「なるほどね。それで、どうすれば雨は止まるの?」
「……空までジャンプして、雲を切って払うとか」
「あんまりバカ言ってると置いてくわよ」
一蹴された。
とはいえ、全部が全部ふざけた話でもない。この状況を打開する可能性が一番高いのは雨を止めることだ。
ピグナータは縁切神であると同時に雨神でもある。雨神の怒りが豪雨を呼んだのならば、雨を止めることで怒りを鎮めたとみなすこともできるはずだ。
あまりにも強引で破綻した論理。しかし、呪術に必要なのは正確性ではなく共感性。類推と飛躍の神秘は無理を道理へと覆す。
では、どうやって雨を止めるか。
逡巡していたわたしは覚悟を決めて、アリーチェを見据えた。
「アリーチェ」
「なに?」
「わたしの手首を切って」
白のナイロンジャケットの袖をまくり、左手首を突きつける。
「……どういうつもり?」
「説明する時間が惜しい。見てればわかるから」
「エイシャがそう言うなら」
「あ、それとそろそろ足が戻ってきたからおろして」
「はいはい」
時間が惜しいのはアリーチェもよくわかっているようで、口を挟まずわたしを地面に降ろすと、刀を引き抜いた。
「じゃ、やるわよ」
アリーチェが刀を滑らせると、わたしの手首がスパッと切り離された。
すぐさま、わたしはとある紙人形を思い浮かべながら呪文を唱える。
「失われし我が
内に描く
身もふたもない言い方をすれば、どれだけそれっぽく聞こえるか。
それがこの呪術の成功率を左右する。
切り離されたわたしの左手首は、瞬く間に箒を持った少女の紙人形へと姿を変えた。
「天翔ける
紙人形を眺めながら、アリーチェがつぶやく。
「
「いや、それがそういうわけにもいかなくてさ。ほら」
わたしの指さす先では、空を舞う
今までわたしたちを追いかけていたのが嘘のように
「こんな感じで
その少女を模倣した以上、戻ってくることはないだろう。
わたしは
「なるほど、そういうことね」
「これで一件落着かな」
「本当に? また新手が襲ってきたりしない?」
「大丈夫だと思うよ。……たぶん」
神は言い伝えに縛られる。
ピグナータの使いは「縁切りの言い伝え」に従い襲い掛かってきたけど、わたしが「日乞いの儀式」をおこなったことで「縁切神」と「雨神」どちらの説話に沿うか選択肢が生まれた。
縁切神としてふるまうならば、縁切り池の言い伝えどおりにわたしを襲う。
雨神としてふるまうならば、
ピグナータは雨神として怒りを鎮めることを選んだ。
「雨を止めればなんとかなるって言ってたわりに、ピグナータの気分次第だったわけね」
「そりゃあ相手は神様ですし」
もし、ピグナータが何がなんでもわたしとアリーチェの縁を切るつもりだったら、打つ手なんて初めからない。
ただ、こうしてなんとかなったということは、
「やっぱり、神様も望んでいない縁を切りたくはないってことでしょ」
「そう、かもね」
「それにしても、一緒に探索者をめざすとは言ったけど、いきなり神様の使いと戦うことになるとは思わなかったな」
わたしが軽口を叩くと、アリーチェがばつの悪い顔を浮かべた。
「悪かったわね。でも、刀を捨てた時は、本気であきらめるつもりだったんだから、しかたないじゃない」
「『だった』ってことは今は違うんだ?」
「……まあね」
それまでどこか張りつめていたアリーチェの声がようやく和らいだように感じた。
「エイシャこそ、一度言ったことを撤回するのは絶対に無しよ」
「それはまあ、なるべく善処します」
「そこは断言しなさいよ!」
「だって先のことはわかんないじゃん」
「はぁ、これだから……もう」
「でも――」
そんな呆れた表情を浮かべるアリーチェがなんだか面白くて、わたしは思わず緩みそうになる頬を押さえてつぶやいた。
「――今はすごく楽しい。それだけは、断言できるかな」
こんな日が続くなら探索者になるのも悪くない。そう思ってしまうくらいには、晴れた空は明るかった。
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