107 ないしどこにも属さない間奏曲
男は女にキスすらしなかった。顔を近づけすらしなかった。
部屋に入ってからコートを脱いで掛け、椅子に座っただけだった。化粧台の前の四角い椅子だ。安手の革の張ってある、中に小物がしまえる椅子。
女はこれが嫌いだった。事が済んで座った時、汗をかいた尻に吸い付くような肌触りが苦手だった。
娼館の花見部屋では落ち着いて振る舞う男でも、部屋に来ればがっつきはじめる。それなのに男は、花見部屋や廊下と同じ態度でいた。
どこかよそよそしいような、場違いな場所にいるような態度だった。
女は不思議に思った。こんな妙な客ははじめてだったからだ。
「どうしたの?」
女はベッドに寝そべりながら尋ねる。派手だけれど薄いドレスの胸を意識的に寄せて、谷間を深くした。
「来ないの?」
男はちらりとこちらを振り向いたが、「うん……」と生返事をしてから、また化粧台の方に向き直った。
広い背中だ。そう女は思った。遠い思い出の中の父親の背中を思い出して、かぶりを振ってその記憶を追い出した。
鏡に映る、男の顔を見る。
男は若くて、綺麗な顔をしていた。あるいは自分よりも若いかもしれない。
ゆるやかに反って伸びた高い鼻がまず目についた。そのつけ根にある、二重の目がまた美しかった。
女は幼い頃に見たことのある、二枚貝の内側を思い出した。べったり白く塗ったような色ではなく、わずかに虹色に輝くような艶を持ち、とろみのある白色。
その真ん中に、黒い真珠が置かれている。男はそんな、汚れを知らないような目をしていた。
女は鏡から視線をそらした。自分のことが思い起こされて、寒い風が心の隙間に入りこんだ。他人のまともな目をまじまじと見るたびに吹き込んでくる、あの風。
男は戯れるように、置いてある化粧品を指でつまんで、しばらく観察してから戻す、を繰り返していた。
何にでも興味を示す子供のようだ、と女は思った。
「あんまり触らないで。一応、商売道具なんだから」
「……ああ、ごめん」
男は謝って振り返った。
「悪いな」や「いいだろ?」や「黙れ」ではないことに、彼女は少なからず驚いた。「ごめん」という言葉を、女は久しぶりに聞いた気がした。
「どうして私なんか選んだの?」
何故かそう聞いていた。聞くつもりはなかったが、自然と口をついて出た。
「それは…………好みだったからだよ」
「嘘。嘘が下手ね、あんた」
「…………」
「ねぇ、どうして私なんか選んだの?」
男は黙った。軽く握った右手を口に当てて、考えこみはじめた。
理由がないわけではない。考えていないわけでもない。それについて、慎重に言葉を選んでいるように女には見えた。
しばらく眉間に皺を寄せたあと、それがほぐれた。悩みがほどけたような顔つきになったので、この男がこれから話すことは、本当のことだろう、彼女はそう思った。
「…………そもそも俺は、町の人波に揉まれて、客引きに引っ張られて、この店に入ってきたんだ」
「あら、その気はなかったのに連れ込まれたわけね」
「それで、外に出ようとしたらここの主人にさ、どんどん奥に引き込まれた。すぐに帰ろうと出入口への道順を忘れないようにしていたら、『さぁ、よりどりみどりですよ』と、そう言われたんだ」
「でさ、その『よりどりみどり』の中から、どうして私を選んだの? エリィやホリーや……私なんかより素敵な女がたくさんいたでしょう?」
「それは……」
男はうまい表現が出てくるおまじないみたいに右手を小さく動かした。
「……そう……すごく……気になったから、って言うのかな……」
「気になった? 私が?」
「そう……こういう店では、みんな客を誘うものだろ。私と酒を飲もう、私はどうですか、って」
「そうね」
「でも君は、店の奥の席にそっけなく座ってた。その感じが……」
「気になった?」
「そう」
「どう気になったの? ちゃんと言ってみてくれる?」
男はまた、右手を小さく動かした。
「…………ここが自分の居場所じゃない……そんな雰囲気……かな……」
女の胸のあたりがつん、と痛んだ。
彼女は確かにここにいたくなかった。コロラドに生まれ、コロラドの中を流れに流れて、ここに流れ着いて、あとはもう行き場所がなかった。
「それって、一種の侮辱じゃない?」
胸の痛みを消そうと、女はそう強がった。男は叱られた時の子供のように、少しだけ身を縮めた。
「……ごめん」
「同情してるの?」
女は開き直って言った。
「憐れんだの? 私のこの……これを」
彼女はボリュームのある赤毛をかきあげた。隠し気味にしていた顔の右側を露出させる。
その右目は白濁し、瞳は幽霊のように白かった。
女は右目が見えなかった。
「これが可哀想だし、顔もキツくってまずいし、だから部屋の隅っこにいるんだ、あぁ憐れだな、そう思った?」
「………………」
「そうなんでしょ?」
「…………そんなことを言うもんじゃないよ」
「……なに?」女は予期していない答えにたじろいだ。
今までで自分を選んで、こう迫った男の反応はざっと3種類に分けられた。
「グチグチうるせぇぞ」と黙らせる男。
「だって客を獲るのも大変だろ、その顔じゃあ?」と開き直る男。
残りは黙って服を脱がせて、コトを済ませて帰ってしまう男。
この若い男は、そのどれでもなかった。
若い男はしばらく黙って、視線を絨毯に向けていた。使い古しの絨毯の下に大事なものが埋まっているような表情だった。
女にはまた彼が、懸命に言葉を探しているように感じた。その場しのぎのものではない、できるだけ正しく、自分の気持ちを伝えられるような言葉を。
男は小さく息を吸って、皺を一層深めてからゆっくりと、こう言った。
「……そういうことを言うとさ、自分を……低くしちゃうと思うんだよ」
「だって実際低いんだもの! 指名が少ないから格安で」
「そうじゃない。ここだよ」男は自分の胸に手を当てた。「ここの問題なんだよ」
「何よ、お説教? 馬鹿馬鹿しい……! ここの問題ならホラ、これで解決でしょ?」
女はドレスの胸元を自分で引き下ろした。大きめの乳房があらわになって揺れた。
彼女は自分の顔に、右目の問題を除いても自信がなかったが、これを見せて飛びつかない男はいなかった。この若い奴もそうだろう。さっさと済ませてしまいたかった。
コトが済んだ後に、人間らしさに関するお小言を抜かす馬鹿は多かった。特に年寄りに多い。西部でくたばり損なったような年寄りだ。あんたみたいな若い娘が、とか、こんな場所で働くなんて、とか。
結局は自分の中の欲望を放出して頭が冷えたあとのことだ。女はその言葉を聞くたびに相手を絞め殺したくなったが、笑顔を作ったり湿っぽい表情をこしらえたりして「そうねぇ、ホント、そう」と呟くだけだった。
男がぐっと自分に寄ってきた。胸に手を伸ばした。あぁやっぱり、こいつもそうか、と考えていると、男は引き下げたドレスを引っ張り上げて、元に戻した。
「……なにすんのよ?」
「いいから……」
「よくないわよ。やるつもりはないの?」
「君はどうなんだ?」
男はまっすぐに女の顔を見て言った。その瞳に、女の心は少なからず揺らいだ。
「俺はここにうっかり連れてこられた。そこで君と出会った。寝るのが本当に好きだったらやるし、好きじゃないならやらない。それがこういう場所での、俺の決まりごとなんだ」
「じゃあもっと“好き者”な娘を選べばよかったじゃない? ホリーなんて若い男前と見れば飛びついて喜ぶのに」
「でも俺は、君を選んだ。やるとなやらない以前に、気になったからだ。いや──惹かれたと言うべきなのかもしれない」
その言葉には、胸の奥の一番大事な部分を鷲掴みにされるような強さがあった。
「……一目惚れ、ってやつ?」
「そうかもしれない。でもちょっと──」
女は返事を待たず腕を取って背中に回り、ひねり上げてから膝の後ろを足の裏で押して男をベッドに腹から押し倒した。
暴れる動物でも押さえるように膝を背中に乗せる。若い頃に教えられ染み付いた動作だった。
「ふざけないでよ!」
女は叫んだ。
「私に一目惚れ? そんな奴いるわけないでしょ! 愛想のない、売れ残りの、片目の潰れた、こんな顔の女にさ! 遊ぶのもいい加減にしないと──」
「そうじゃないんだ」
男は言った。腕をひねっているはずなのに、痛みのにじまない静かな声音だった。
「そうじゃない」
「じゃあどうだって言うの?」
腕を取ったまま体を揺り動かした。そこで男ははじめてうめき声をほんの少しだけ上げた。
「……どう言えばいいのかわからないけど、顔が好きとか惚れたとかそういうんじゃなくて、もっと……深い部分で……」
「何、それ?」
「何て言うか……パートナーとか……友達……そういうのになれるような……」
「パートナー? ともだち?」
女は男の言っていることが理解できなかった。
「わかんないよな……俺もわかんないんだ……」男は顔を横に向けた。純な瞳が女を捉えた。
「じゃあ、俺のことを話すよ……」
男はそのままの体勢で、自分のことを語りはじめた。
銃を持って、西部を駆け回りながら強盗や盗みを働いていること。
金持ちからしか奪わず、稼ぎの大半は貧乏な人たちに配っていること。
よほどの反撃や裏切り者でもない限り、相手を傷つけたり殺したりはしないようにしていること。
そして──
「自分でも、どうしてこんなことをしているのかわからないんだ。どうして金持ちから盗んで貧乏人に配るのか。どうしてもっと簡単に殺して奪わないのか。でもそれは、みんな正しいことのように感じる。盗んで配るのはやらなきゃいけないし、殺しはやっちゃいけないことなんだ、って。
それでも、最近こんな風に思えてきた。やっていることは正しいと感じるのに、ずっと何かが足りないように思えるんだ。もっと、もっとうまくできるんじゃないか、もっと広く、強く、正しくやっていけるんじゃないか。そう思っていたんだ。
そんな考えごとをしてたら、町中で人混みにまぎれて、客引きに腕を掴まれた。ここに連れてこられて、どの娘にします、と尋ねられて、そこにいたのが君だった。それで、すごくおかしな話に聞こえるだろうけど、一瞬でわかったんだ」
男は首をもっと曲げて、どうにかして女を両目で見た。
「この人が、俺の探していた人だ、って。居場所を探している、強い、芯の通った人間──直感したんだ。君がそれだ、って」
女の心の奥底に、ぽっと火がともる感触があった。
「……あんた、私にガンマンにでもなれって言うの?」
「そうだ」
「馬に乗って……確かに馬には乗れるけど……それで西部を駆けろって?」
「そうだ」
「金持ちから奪って貧乏人に配れって?」
「そうだ」
ひとつ尋ねて、ひとつ「そうだ」と言われるごとに、女の心の中の火は燃え上がり、炎となり、胸の中すべてを焦がすようになった。
彼女は最後に聞いた。
「それで……私が、あんたの、“相棒”になれって?」
「…………うん、そうだ」
炎が胸から肩、腹へと広がり、顔にまで登り詰めてくるのを女は感じた。
神がかりのような、怪しげな言葉の数々だったが、彼女の中にも雷撃のように直感が走った。
2人の間に走ったそれは、どのように他人に伝えようとしても伝わらないものだ。
根拠もなく、理由もなく、理屈でもない。しかしそれは運命の歯車が噛み合い、いささかのズレもなく回転しはじめた瞬間だった。
女はひねっていた手を外し、一瞬のうちに男を仰向けに転がしてのしかかった。女が男の足の間に体を入れて上になり、男が下になった。いつもとはまるで逆の体勢だった。
「あんた、名前は?」
その体勢のまま、女は聞いた。
「ジョー。ジョー・レアル」
男はそう名乗った。組み敷かれているのに、怯えもひるみもせず、かといって挑戦的でもない態度だった。
「私はハニー。ハニー・ウェルチ」
「ハニー。いい名前だ」
「こういう店用の名前みたいだけど、本名なの。“蜜”って名前なのに、甘くもとろけてもない、ってよく馬鹿にされる」
「…………別に、甘くなくてもいいと思うよ。君は君だ」
「そうね。もう気にしないようにする」
「そろそろ起こしてくれる?」
「あぁ! ごめん……!」
ハニーはひねらなかった方の腕を握って、ジョーをベッドから起こした。
「腕、痛かったでしょ」
「まぁね」
ジョーは後ろに回されていた手首をさすった。
「でも謝らないからね。あんたの言い方が下手だったんだから」
「そこは謝ってほしいな」
「ふふっ」ハニーは微笑んだ。本当に楽しくて微笑むのは久しぶりだと思った。
「それで……これからどうするの? 私をガンマンの強盗に仕立てるわけでしょう?」
「馬には乗れるんだよね」
「乗れるわ。昔……、習ったから。それじゃあどこかから馬を盗んできて、ここから逃げ出す?」
「いや、俺が身請けするよ」
「……ここの親父にちゃんとした金を払うの?」
「そうだよ。こういうことはきちんとしておかないと、後でケチがつく」
「ふぅん、これで借りができちゃうわけね」
「まぁ、保釈金を積んで刑務所から出したようなもんだと思ってくれ」
「ちょっと! 人聞きの悪い! 刑務所に入るようなことはしてないんだけど?」
「そう、まだしてない。まだね」
「ならさしずめ、保釈金の前借りってとこ?」
ジョーとやりとりをしていると、ハニーは何にでもなれるような気がしてきた。
ジョーの言葉、ジョーの表情のひとつひとつが、自分の背中を確実に前へと押してくれている気がした。背中にジョーの手の平の温かさを感じさえした。
「ねぇ」
「うん?」
ハニーは少しだけ背伸びして、ジョーの唇に軽くキスをした。
ジョーは驚いたように目を剥いた。
「俺は君と、そういう感じになるつもりは……」
「勘違いしないでね。これは親睦の証。最初で最後の、ね」
ハニーは真顔で人さし指を立てて、びっくりしているジョーに釘を刺した。
彼女はこれが、本当にジョーとの最初で最後の、それどころか人と交わす最後のキスであることをまだ知らなかった。
「じゃあ……ご指導よろしくね、ジョー」
「あぁ、俺たちはいい相棒になれるよ。ハニー」
二人はそう言ってしばらく見つめ合い、静かに強く、握手を交わした。
「あの……さっきの技といい……君すごく…………力があるんだな…………」
「山や川の仕事もやったからね。握力もあるし、体もガッチリしてるの」
「そうなんだ…………手、もう離してもらっていいかな?」
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