第三章 秘密は語る

その日は雨だった。

火葬場の玄関を入ってすぐのエントランスには、いくつかのソファーやテーブルが置いてあった。

そこには家族を亡くした遺族が少しでも心安らげるようにと観葉植物を飾り、緑の木々の生い茂る中庭が見えるように、中庭に面している側は全面ガラス張りになっていた。

しかし、生憎の雨で景色を見て安らぐことはなかった。

ガラス張りになっている一角に、外のテラスに出られるガラス張りのドアがあり、白いテーブルと椅子が幾つかあった。

テラスには屋根があり、雨に濡れることはなかったが、雨雲でどんよりと薄く暗い外に出たいと思う者はいなかった。

一人を除いては…。


それは父親を失ったばかりの陸だった。

幾つかある椅子の一つに座り、ぼんやりと薄暗い空を見上げていた。

空を見る限り心が休まることはなかったが、エントランスにいるより遥かに楽だった。

この火葬場に来て、玄関から棺桶と遺族がゾロゾロ入ってくるのを何回か見た。

父親が亡くなった現実を受け入れられない陸には、その光景を見ているのが辛かった。

ましてや遺族の控室など…亡くなった父親の話を聞かされるに決まっていた。

それが今の陸には耐えられなかった。

他にいる場所もなく、誰もいないテラスに一人でいたかった。

「陸くん」

陸に声をかけたのは柊だった。

柊と陸は、陸の父親の葬儀で初めて会った。お互い話は聞いていたが、直に会ったことはなかった。

その柊も本来なら両親の葬儀で、この場所にはいないはずなのだが。

柊の父親が社長であるため、葬儀は夫婦揃って、社葬となることになった。

社葬であるために、それに相応しい葬儀場の手配に手間取り、陸の父親の葬儀が先に行われることになった。

そういった経緯で、柊は火葬場にまで出向く時間ができたのだった。

ちなみに柊の両親の葬儀は、この日から二日後の予定となっていた。

陸は柊の呼びかけに、ピクリとも動かなかった。

「こんな所にいたんだな。探したよ」

とても優しく労わるような声だった。

それでも返事はない。

「嫌な天気だな」

柊は陸の隣に立ったまま、空を見上げて言った。

「でも…雨って気持ちが落ち着くんだな。知らなかった」

そう言うと柊は目を閉じた。

陸は”変なヤツ”と思いながら目を閉じている柊を見る。

それから、しばらく雨の音に聞き入っているのか、柊は何もしゃべらなかった。

シトシトと降る雨の音、屋根から落ちてくるポタポタという水滴の音、なぜか何も考えずに聞き入ってしまう。

いつの間にか、心が空っぽになる。

悲しいことも辛いことも、今はどこかへいっていた。

ただ、静かで安らぐ時間が流れていた。

「ごめんな」

柊はポツリと言いながら目を開けた。

「俺の両親の執事なんてやってなかったら…」

柊は落ちてくる水滴を見つめた。

「陸くんのことは君のお父さんから聞いてたよ。とても優秀で自慢の息子だって。いつも嬉しそうに話してた」

柊は懐かしそうに微笑んだ。

「一緒に久我家の執事をやるのが夢だって言ってた。本当に陸くんのことが大好きだったんだよな。なのに…」

柊の表情が曇る。

「ごめんな。陸くんからお父さんを奪って。俺の両親が陸くんから父親を奪った。この事実は変えられない。だから、どんな償いでもするつもりでいる」

柊が陸の方を見ると、陸と目が合った。

柊は憂いを含んではいるが、真っ直ぐな目で陸を見ていた。

「償ったからって許されないのも、わかっている。それでもいい。俺の両親は、それだけ大事なものを陸くんから奪ったんだから」

そう言い切った柊の目には涙が滲んでいた。

どうして、こんなにもコイツは俺なんかに…

そう陸が思った時、父親の言葉を思い出した。

”坊ちゃんは優しすぎるんだ。自分を犠牲にしてでも他人を守ろうとするが、自分を守ろうとしない。優しくて不器用なんだ。だから、守る人間がいるんだ。陸。いつか、おまえが坊ちゃんを守れる人間になってくれるか?”

この父親の言葉で、陸は執事になることを決意して執事になった。

父親がこれほどまでに大事に思う人間なら…と。

そして、その柊が目の前にいる。

父親と自分のために心を痛めて。

陸の瞳から涙が零れ落ちた。

「僕…」

やっと、一言絞りだすと涙が溢れだした。

そして、クシャクシャな泣き顔になったかと思うと、声を上げて泣き始めた。

「陸…」

柊は穏やかな声で名前を呼ぶと、陸を抱きしめた。

まるで家族を抱きしめるように…。


 陸は温かい気持ちのまま目を覚ました。

陸は柊に初めてあった時の夢を見ていたのだ。 

今いる場所は真っ白な壁や天井、真っ白なベッド、他には何もない警察病院の病室だった。

シンプル過ぎて温もりの欠片もなく、ヒンヤリとするような錯覚さえ覚える病室だ。

「昔の夢…」

ポツリと、そう言うと頬に涙が流れているのに気づいた。

そう、あの時決めたんだ

柊を守るって…

優しくて不器用な柊を守れるのは、俺だけ

白い天井を見ながら、陸は涙を拭いた。


 街並みの見える窓際に立って、柊は病室から外の景色を見ていた。

陽は傾き、夕陽が柊の顔をオレンジ色に染めていた。

その瞳は寂しそうに見えた。

「大丈夫?」

咲は柊の隣に立つと、心配そうに柊の顔を覗き込んだ。

「キズのこと?大丈夫。明日には退院だよ」

穏やかに笑いながら、柊は言った。

「そうじゃなくて…」

「陸のこと?」

落ち着いた口調で柊は言った。

「ごめんなさい。あの時、あたしが止めていれば…」

「咲のせいじゃないよ」

「でも…!」

咲は唇を噛んだ。

柊は、ポンと咲の頭に手を置いた。

「世の中にはどうしようもないことってあるんだ。一人の力では、どうにもならないような。今回のことだって、そうだ。止められるってわかってたから、陸は俺に何も言わずに行った」

「…」

「陸は誰にも止められなかった。それが現実だ」

「柊…」

咲は柊の顔を見上げた。

「だから、咲のせいじゃない」

柊は穏やかに笑って言った。

咲は目を一瞬潤ませた。

そして、それを隠すように笑った。

「ありがとう。元気でた」

「そっか。良かった」

柊は咲の頭から手を離す。

そして、何か引っかかっているのか、窓の外を見つめながら険しい表情になる。

「…殺された赤木のことなんだけど。俺を狙撃した犯人と同じ、サングラスとベージュのジャケットを着ていたらしいな」

「そうみたいね」

「だからこそ、警察は俺を狙撃した犯人が赤木で、その犯人を突き止めた陸が、俺の仇を打つために殺したと言っているようだけど。陸がそんな事をするはずがない。咲ならわかるだろ?」

「う…ん」

「何かが、この事件はおかしい。狙撃した犯人と同じ格好だったから、赤木が犯人。陸が赤木の死体の前に倒れていたから犯人。あまりにも簡単に片づけすぎている」

「なんか…惨禍の日に似てる」

そう言って、目を伏せた咲は心に何か抱えているように見えた。

「…」

その様子に気づいたが、柊は声をかけなかった。

咲は思ったことを何でも話す人間だ。

なのに咲が言わないのなら、何か理由があるんじゃないか?と。

咲を信じて、今は詮索しないでおこう

それが柊の今の咲への思いやりだった。

「政府がからんでるのかもな。真犯人は他にいるはずだ。退院したら犯人を捜そう。そして、陸の無実を証明しないとな」

「その体で?じゃあ、あたしも行く」

「咲…」

柊は困ったように、ため息をつく。

「そんな体の柊を一人で行かせられるわけないでしょ?」

「だけど…」

「柊が何と言おうと一緒に行くから」

咲は絶対に着いていくから!とでもいうように、柊から目をそらさない。

柊は今度はあきらめたように、ため息をついた。

「わかったよ。でも、着いてきたら俺の言う通りにすること。それが条件。じゃなきゃ、危なくて連れていけないから」

「え~!」

「どうする?咲」

「…わかったわよ」

咲はしぶしぶ、そう答えた。

「よし!それなら咲を連れてくよ」

柊は笑顔で言った。

「本当に!」

咲は嬉しそうに言う。

嬉しくて咲は思わず、柊の腕にしがみついた。

その光景は、妹が大好きな兄の腕にしがみついているようだった。

 退院の日から三日後、柊は”アスピレイション”に向かっていた。

幹からの連絡で、岩倉真知子からデータが届いてると知らされ、アスピレイションに向かったのだ。

いつもの社長室に柊と、柊を迎えにきていた冴月と勇輝、今日は咲もいた。

それぞれがテーブルを囲むように、ソファーに座っていた。

「いいの?あたしもいて」

「いいよ。咲が大丈夫なら」

柊は穏やかに言った。

「あたしは大丈夫よ」

咲はニッコリ笑った。

「そっか。ならいい」

柊は笑顔で言った。

その二人の様子を冴月は見ていた。

この二人どんな関係なんだ?という感じで。

勇輝から、大まかなことは聞いていたが変に仲がいい。

柊が女性と一緒にいるのを見るのなんて、何年ぶりか…。

柊が女性と一緒にいるを見たのは、亡くなった真雪が最後だった。

しかし、真雪が亡くなってからは、女性と一緒にるのを見たことはなかった。

「冴月は詳しい事情を勇輝から聞いてるよな?」

「あっ…ああ」

考え事をしていた冴月は、ぎこちなく答えた。

「冴月?どうした?急な話で戸惑っってるのか?」

冴月の様子に気づいた柊が、気遣うように言った。

「まあ、そんなとこだ」

冴月はニヤリと笑った。

「珍しいな?」

「そうか?珍しい俺を見れてラッキーだったな」

冴月は笑う。

「そうかもな」

相変わらずの冴月に柊は、ホッとしたように笑った。

いつもと変わらない二人のやり取りだった。

「じゃ、本題に入ろうか」

落ち着いた口調で柊が話を始めた。

「幹。岩倉真知子の送ってきたデータって、何のデータなんだ?」

「赤木啓から送られてきたデータということでした。赤木啓が死ぬ前に送ってきたようです。赤木啓が殺されたニュースを見て、事件解決に役立ててほしいと送られてきました」

「そうか。データは見たか?」

「いいえ。まだです」

「そのデータを見せてくれ」

「はい」

答えると幹は宙を見つめた。

「マユキ、データを表示」

『了解』

宙にディスプレイが表示される。

そのディスプレイの映像を見て、柊は一瞬言葉を失う。

「…!」

そこには落ち着いた雰囲気の中年男性が映っていた。

ブランドもののスーツを着てはいるが、スーツの色は派手なものではなく落ち着いていて、どこか威厳があるように見える。

「おいおい。柊の親父さんじゃないか?なんで親父さんの映像なんか…?」

不思議そうにディスプレイを見ていた冴月が言った。

「マユキ。説明を!」

柊と同じく言葉を無くしていた幹は、慌ててマユキに指示した。

『了解』

ディスプレイにはもう一人の中年男性の写真が並べて表示される。

中年にしてはシワが多く、険しい表情の顔をしている。

『これは牧村まきむら壮吾そうご警部。アスピレイションの先代社長の死に、この警部が関わっていると疑っていたようです』

「父さんの死に…?」

「柊の親父さんは事故死じゃなかったのか?」

『先代社長久我伊織いおりは、生前、執事の朝倉蔵人くらひとと、ある研究所を調べていました。その研究所を調べ始めてから、牧村警部がつきまとうようになり、あの事故が起こったことから、牧村警部が犯人ではないかと調べていたようです』

研究所の写真や住所が次々と表示される。

「しかし、それが”惨禍の日”と何の関係があるんだ?」

冴月が首をかしげる。

「その研究所が”惨禍の日”に関係しているのかもしれない」

頭で考えを巡らせながら、柊はそう言った。

「しかし、先代社長が亡くなったのは五年前です。惨禍の日は二年前です。惨禍の日に関係しているにしても間が空きすぎています」

幹が言った。

「そうだな…。確かに…」

柊がそう言った時、見覚えのある画像が表示された。

それは、ある一人の男だった。

ここにいる誰もがその男を知っていた。

以前、マスコミでさんざん報道され、国内では知らない者はいなかった。

「如月大地!」

悪夢の日に乱射事件を起こした犯人だった。

「これって、どういうことだ?」

冴月は困惑気味に言った。

「マユキ。この男に関しての記録は何かあるか?」

幹がすかさず言った。

『この男は如月大地。研究所に収容されていた被験者と記録されています』

「え?てことは…?親父さんは如月大地が収容されている研究所を調べていたってことか?なんで?また?」

冴月は自分で言って、さらに混乱しているようだった。

「理由はわからないが、父さんは研究所を調べていて何か重要な秘密に気づいた。それで殺された」

柊は呟くように言った。

「それでは悪夢の日、惨禍の日は前社長の死と繋がりがあるということでしょうか?」

幹は柊の顔を見る。

「少なくとも赤木啓は、そう考えて調べていたようだ」

「だとしたら、赤木啓が殺されたのは知りすぎたための口封じか?」

「かもしれないな」

「…そういえば、陸さんを逮捕した警部の名前が牧村警部でした」

勇輝が思い出したように言った。

「そうだな。一番に駆け付けてたようだったな」

冴月も思い出しながら、そう言った。

「父さんに付きまとっていたのも牧村警部…」

「…陸は、牧村警部の罠にはめられたのかもしれませんね」

幹はため息をついた。

「牧村警部は父さんを殺し、知りすぎた赤木を殺した。そして、タイミング良く赤木を追っていた陸を犯人に仕立て上げ罪をなすりつけた。そう考えるとすべてが繋がる。今わかってる状況を見る限りは…」

柊は唇を噛んだ。

「俺が、もっとしっかりしていれば、陸はこんなことには…」

そう言って固く目を閉じた柊の姿は、とても辛そうに見えた。

一番、犠牲にしたくないと思っていた人間を犠牲にしてしまった。

そのことへの後悔の念が、柊自身を責めていた。

「…」

咲は柊に声をかけたくても、かけることができなかった。

あの時、陸を止めなかったのは自分だったから。

「おいおい。陸は犯人じゃないし、身代わりにされただけだろ?真犯人を見つければ釈放される。だったら、犯人を見つけてやろうじゃないか?な?柊」

そう言って笑ったのは冴月だ。

「冴月…」

「落ち込むのは早すぎるんじゃないか?」

冴月はニヤリと笑う。

柊はため息をつく。

「そうだな…。俺が何とかしなきゃ。陸は俺の家族だからな」

「そうだろ?それにおまえだけじゃないぜ。俺と勇輝もいるし、何なら自衛隊の一個小隊連れてきてもいいぞ」

冴月は万遍の笑みで言った。

「冴月さん。それは職権乱用ですって。懲戒処分になりますよ~」

勇輝が呆れたように言った。

「え?そうか。でも、バレなきゃ大丈夫だろ?」

「冴月さん~。バレますって!」

その二人のやり取りを見ていた柊は、クスクスと笑った。

「お!元気になったか?柊。やっぱ。一個小隊だよな?」

冴月は笑顔で言った。

「いや…一個小隊はちょっとな。戦場に行くわけじゃないんだから」

そう言って柊は笑った。

「そうか~?」

冴月は残念そうな顔で言った。

「一個小隊の話は置いといて。これからどうします?柊」

幹は冷静に言った。

「おいおい。一個小隊の話を軽くぶった切ったな…」

冴月は、相変わらず冗談の通じないヤツだな…と苦笑いする。

「そうだな。牧村警部に聞いても無駄だろうし。赤木がいない今、もう一人のライトワークス代表に会うしかないだろうな。何か手がかりが見つかればいいんだけどな」

「柊。大丈夫ですか?会えますか?何なら私が…」

幹が心配そうに言った。

「大丈夫だ。幹は会社を頼む。社長不在でも会社が回ってるのは、おまえがいるからだ」

「でも…」

「俺には冴月や勇輝、咲もついてる。一人で会社を守る幹の方がもっと大変だろ?」

そう言うと、いつものように穏やかな笑顔を見せた。

「柊…」

幹は柊の言葉に少し安心したようだった。

「じゃ、早速行くか?」

冴月は立ち上がり、社長室から出て行く。

「冴月さん~」

冴月の後を追うように勇輝が出て行く。

「じゃ、会社を頼むな」

幹にそう言うと柊は咲を見た。

「行こうか?」

「いいの?」

「どうした?咲らしくない?」

「足手まといじゃない?」

「陸のこと気にしてるのか?」

「あれは咲のせいじゃない。そう言ったろ?」

「でも…また、同じことになったら…」

「大丈夫だって。今度は俺がしっかりするから。それに、これから会いに行くのは新藤教授だ。咲の親代わりだろ?危ないことなんてないのは咲だって知ってるだろ?」

柊は笑顔で言った。

「う…ん」

咲は元気なく言う。.

「でも…もし、咲が気が進まないなら無理にとは言わないけど」

柊は穏やかな表情で言った。

その目は“咲の好きにしていいよ”と言ってるように見えた。

「あたし、行く」

咲はソファーから立ち上がった。

「おじさんにも会いたいし!」

咲は笑顔で言った。

「そっか。じゃあ、行こう」

笑顔で言うと、柊は咲の目の前に手を差し伸べる。

咲が、その手をつかむと、柊に手を取られて社長室から出た。

しかし、咲は立ち止まった。

「咲?」

「この前、お茶した秘書さんに挨拶してきていい?この前、お茶できて楽しかったから挨拶ぐらいはしておきたいの」

咲は“お願い!”という目で柊を見た。

「わかった。エレベーターの前で待ってるから行っておいで」

柊は笑顔で言った。

「ありがとう」

咲は嬉しそうに言った。

咲は柊の姿が見えなくなると、お茶をした秘書のいる秘書室ではなく、まだ、社長室にいる幹のところへ向かった。

社長室に入ると窓際に幹が立っていて、咲が入ってくるのに気がつくと振り向いた。

「来ると思っていましたよ」

そう言うと幹は微笑んだ。

いつもの冷静な幹とは違い、少し柔らかな表情をしているような気がした。

この人でも、こんな表情することがあるんだ…

「あの…」

咲は聞くのをためらい、言葉を呑み込んだ。

「知りたいんでしょ?なぜ、私が新藤教授に会いに行く柊に大丈夫か?と聞いたこと」

咲はうなずいた。

「心配なんですね。柊のことが」

「もう、足手まといにはなりたくないの。だから、柊のことでわかることは何でも知っておきたいの」

咲は真剣な顔で言った。

「いい心がけです」

幹は微笑んだ。

「咲。アスピレイションのAiは、さっき会いましたよね?マユキという名前です。その名前はAIのマユキの開発者の新藤真雪の名前をそのままつけてあるんです」

「新藤真雪って、あのライトワークスを作った新藤教授の娘の?」

「そうなんです。そして、柊にとって大切な人でした」

「柊の恋人だったの?」

「いいえ。完全に片思いですが」

そう言うと幹は微笑んだ。

「ですが…、あの惨禍の日に亡くなりました」

幹は目を伏せた。

「それからです…柊は、そのショックから、会社のメインAIのマユキとの接触を断ったのです」

幹は窓の外を見つめた。

「いえ…、接触できなくなったというのが正しいでしょうか。それから、柊は真雪に関するどんな情報も受け付けません。その話題になれば体調を崩し倒れます。それほどまでに大切だったんです」

幹の後ろ姿は少し寂しそうに見えた。

「ですから、新藤教授に会うことで、真雪のことを思い出し苦しむのでは…と心配したんですが…」

そう言うと振り返っだ。

「でも、大丈夫なようですね」

幹は咲の顔をじっと見て微笑んだ。

「え…?どうして?大丈夫なの?」

咲は不思議そうな顔をする。

「いつか、わかりますよ」

そう言うと社長室のドアの前まで行き、ドアを開けると咲に社長室から出るように促す。

「さあ、柊が待っていますよ」

「ありがとう」

咲は社長室を出ようとして立ち止まる。

「幹。あの、どうして話してくれたの?」

「そうですね。もしかしたら…咲なら、柊を救えるんじゃないかと思ったからですよ」

「あたしが…?」

「もしかしたら…ですけどね」

そう言うと幹は微笑んだ。

咲は幹の言っている意味が理解できないまま、社長室を後にして、柊の待つエレベーターに向かった。

その姿を見送りながら、幹はポツリと独り言を言った。

「柊の好きになる相手は鈍感な女性ばかりですね。今回も片思いにならなければいいですが…」


 午後三時を過ぎた頃、柊たちは、とある大学の研究室にいた。

この研究室では”知能情報学”の研究をしていた。

知能情報学とは、一番身近でわかりやすい例を挙げるなら、AIなどを作り出す学問だ。

その大学の知能情報学科の教授が、新藤朔太郎だった。

真雪の父親であり、咲の親代わりだ。

特に、この研究室ではAIに特化した研究成果をあげていた。

研究室では白衣を着た研究員に囲まれ、新藤教授が研究員に何かを説明していた。

白髪交じりの髪に、眼鏡をかけている人物が新藤教授だった。

顔には皺が刻まれて一見険しそうにも見えるが、柔和な表情から人柄の温かさがにじみ出ていた。

背は高い方でなく、着こんでいる服の袖から見える手首が細かった。

新藤教授は、研究室に入ってきた柊に気づくと話を止めた。

「おや、珍しい来客だ」

「お久しぶりです。教授」

柊は礼儀正しく頭を下げた。

「おじさん!」

咲は嬉しそうに手を振った。

「おお、柊くんに咲か。よく来たね」

新藤教授は、何ともいえない温かい笑顔を見せた。

「おや、他にも、お二人ほどいるのは、お仲間かな?一人は冴月くんだね。もう一人は初めて見る顔だね」

「俺のこと覚えてたのか?」

自分は忘れていた、とでもいうように冴月は目を丸くして言った。

「もちろんだよ。妻が亡くなった後、柊くんと一緒にライトワークス設立のために、娘の力になってくれたからね」

新藤教授は真雪のことを思い出したのか、少し寂しそうに微笑んだ。

「教授。できるなら少しお話する、お時間をいただけませんか?」

「ああ、もちろんだよ」

「ありがとうございます」

柊は頭を下げた。

「里中くん。後は頼めるかな?」

「はい。教授」

研究員の中にいた、栗色の髪に眼鏡をかけた体の線の細い青年が答えた。

彼は里中さとなかたくみ

助教として主に研究の指導をしているのだが、この大学では里中匠の若さで助教になるのは稀だった。

「せっかく咲さんが来たんですから、ゆっくり話をしてきてください」

里中はふんわり癒し系の笑顔でそう言った。

「ありがとう」

「里中さん…?」

柊の中で何かが引っかかて、思わず名前を呼んだ。

「はい?」

里中は笑顔で答えた。

「いえ、どこかで会ったような…」

「助教になったのは一年前ですが、助教になる前から研究室にはいましたからね。研究室に来られた時に見かけたんでしょう。それまでは一研究員で、あまり目立ちませんからね」

里中は気を悪くすることもなく、ニコニコしながら言った。

「そうですか。すいません」

「いえいえ。気にしないでください」

里中は笑顔で言った。

「柊くんは、しばらく研究室に来ていないからね。研究室の人間も、この二年で入れ替わってしまった。違和感を感じるのもおかしくはない」

新藤教授は穏やかな顔で言った。

「そうですね。もう二年か…」

柊は寂しそうな眼差しで言った。

「さて、そろそろ行こうか?柊くん」

新藤教授は柊の肩をポンと叩くと、ウインクした。

「はい」

新藤教授は柊たちを連れて研究室を出た。

そして、自分の教授室に向かった。

新藤教授について後方を歩く冴月と勇輝は、窓の外に見える大学内の施設を興味深々に見ていた。

「おっ!あれ、なんだ?」

冴月が窓の外を見る。

「冴月さん、あんな建物が!」

「遠足じゃないんだぞ」

冴月は自分を棚に上げて、勇輝を注意する。

柊は思わずクスクスと笑った。

「そんなに大学のキャンパスが珍しいかね?」

「え?キャンパスって何ですか?」

勇輝が不思議そうに言った。

「大学の構内のことを言うんじゃよ」

新藤教授は楽しそうに言った。

「そうなんですか??」

「おまえ、そんなことも知らないのか?」

冴月は呆れ気味に言った。

「はい。俺、高卒だから。わからないっす!」

勇輝は元気よく言った。

思わず周りにいた全員が笑った。

しかし、勇輝はなぜ笑われているのかわからず、不思議そうに周りを見回していた。

「そうか。なら、キャンパスを見るのは初めてだね。それなら珍しいだろうね」

新藤教授は笑顔で言った。

「はい。こんな広い敷地に見たこともない建物ばかりで、ピクニックみたいです!」

勇輝が元気良く答えた。

「ピクニックか…。遠足より楽しそうだよな。弁当はサンドイッチってイメージがあるな~」

楽しそうに冴月が言った。

柊は笑いが止まらなかった。

「柊。自衛官って、みんなこんなのばっかなの?」

咲は呆れたように言った。

「いや…。たぶん、冴月たちだけだろ」

笑いながら柊は、そう言った。

「そんなに楽しいかね?」

「そりゃ、自衛隊の駐屯地に比べれば…!」

「そうか。そうか」

新藤教授はホクホクした笑顔で笑った。

「咲。そのお二人にキャンパスを案内してあげてくれないか?」

「え?あたしが?」

「この中で一番、この大学のキャンパスに詳しいのは咲だけなんだよ。こんなに楽しそうにしているお二人を前に、案内しないなんて可哀相じゃないか?」

「でも、久しぶりにおじさんに会ったのに…」

残念そうに咲は言った。

「キャンパスの案内が終わったら、ゆっくり話そう。咲のために時間を空けるから。なんなら今日の夕食は、みんなでどうかな?」

新藤教授はニッコリ笑った。

「本当!」

咲は嬉しそうに笑った。

「さあ、行っておいで。夕食は咲の好きなイタリアンでいいね」

「うん!」

咲は嬉しそうに答える。

「柊。行ってくるね」

笑顔で言うと、冴月達の方に向き直る。

「さあ、大学の構内を案内してあげる。ついてきて」

「本当か!」

「ありがとうございます!咲さん!」

冴月と勇輝は、嬉しそうな歓声をあげると咲の後についていった。

「さて、行こうか。柊くん」

「はい」

柊と新藤教授は歩き出した。

 新藤教授専用の教授室のデスク前に、来客用のソファーとテーブルが置いてある。

柊は、そのソファーに座っていた。

教授室の奥には、パーテーションで仕切られた場所があり、そこが給湯室になっている。

そこで淹れたコーヒーを教授が運んでくる。

柊の目の前まで来ると、自分で淹れてきたコーヒーを楽しそうにテーブルの上に置く。

一つは柊の前に、一つは新藤教授の前にと。

「いい香りだろ?つい最近、新しいコーヒー豆を買ってね。これがまた美味しくて。ささ、飲んでみてくれ。柊くんも気に入るといいけど」

新藤教授は笑顔で言った。

「ありがとうございます」

柊はコーヒーカップを持ち上げると、コーヒーの香りに包まれた。

コーヒー好きというわけではないが、そのいい香りに心が落ち着いた。

そっと飲んでみると、苦みとコクのあるコーヒーが口いっぱいに広がった。

柊は穏やかに微笑む。

「このコーヒー、美味しいです。教授」

「そうだろ?後で咲にも飲ませてあげよう」

ホクホクとした表情で笑いながら、教授もコーヒーを飲んだ。

「柊くんには、妻と娘の真雪のことではお世話になったね。あの時は本当に助かったよ。だが、君は真雪が亡くなってから、私に会いに来なくなった。私も辛かったが、君も相当辛かったんだね」

新藤教授は責めるでもなく、穏やかに言った。

「…」

柊は何も言えず、手に持ったコーヒーカップを見つめていた。

「正直、君はもう会いに来ないと思っていたんだ。こうやって一緒にコーヒーを飲める日が来るとは思ってなかったよ。本当に良かったよ。少しは立ち直れたのかな…?」

新藤教授は微笑んだ。

柊は答えず目を伏せた。

その表情からは、まだ立ち直れていないことが見て取れた。

「で?今日はどんな用事があって来たんだね?…いや、あの事か…」

最後の言葉を独り言のように言いながら、新藤教授はコーヒーカップをテーブルに置いた。

「SCARと惨禍の日についてだね?」

「はい」

柊の表情は真剣なものに変わる。

「話は真知子さんから聞いているよ。赤木啓が殺されたそうだね。惜しいことをした。彼はライトワークスにはなくてはならない人間だったのに…」

新藤教授はため息をついた。

そして、心を落ち着けるようにコーヒーを飲むと、再びコーヒーカップをテーブルに置いた。

「啓は惨禍の日の真相を調べていたのじゃが。知っているかね?惨禍の日の射殺事件の指揮をとっていたのは牧村警部だったことを…」

「え…」

柊は、そのまま言葉を失う。

「牧村警部が…?」

「そうじゃ、それで啓は牧村警部を調べていれば真相に近づけると考えたんじゃがな。こんなことになるとはな…」

寂しげに言うと、新藤教授はコーヒーを飲んだ。

しばらく、二人の間に沈黙が訪れる。

亡くなった人間のために真実が知りたかっただけなのに…。

こんなにも簡単に命は奪われてしまう。

そうまでして守ろうとするものに、人の命以上の価値があるのだろうか?

やるせない気持ちの、二人の間に沈黙が訪れる。

しばらくして、先に口を開いたのは新藤教授だった。

「惨禍の日…。思えば、あの事件はおかしなことだらけだ。ウイルス感染が原因と政府が公表していながら、感染源は特定されていないし、ウイルスの名前さえ公開されていない。なのに、遺族に何の承諾もなく、感染者として殺し焼き払って事件は終わったことになっている」

「そう。まるで、すべての証拠を消すために遺体を焼いたように…」

「そうじゃな。遺体が残れば、ウイルス感染かどうか調べられる」

「もし、政府の目的がデモに参加した人間の抹殺なら、世間的に抹殺する理由が必要になる。それで政府が考えたウイルス感染なら抹殺できますが、遺体を調べられるわけにはいかない。だから、遺体を焼いたと考えられます」

言いながら柊はうつむいた。

「ライトワークスも同じ考えだ。ただ、一つだけわからないことがあってな…。なぜ、デモに参加した人間を殺す必要があったのか?過去に様々なデモが起こったが、殺されることはなかった」

「ええ、それは俺もわからなくて…」

「そのことも含めて啓は調べていたんだ。しかし、啓がたどり着いたのは君の両親の死についてだった…」

「知ってます。岩倉真知子から送られてきた赤木のデータを見ました」

「そうか…。柊くんが見るには、辛いデータだったろうに…」

新藤教授はしみるような声で言うと、目を固く閉じた。

それは、まるで涙を堪えているように見えた。

しかし、柊には両親の死以上に、真雪の死の方が重かった。

両親の死の哀しみから救ってくれたのは、真雪だったからだ。

真雪は柊にとって心の支えだった。

それを失ったのだから…。

今の柊にとって両親の死は、すでに過去のものになっている。

だからこそ、辛いという感情は沸いてこなかった。

「柊くんの両親の死にも、真雪の死にも、牧村警部が関係している。今回のSCAR盗難事件もライトワークスが企てたこととして、社会的にライトワークスを葬るのが目的じゃったんだろう。理由はわからんが…」

「そうですね。どうやら、過去の事件と今回の事件は繋がっているようですから」

「全ては如月大地から始まっているようじゃ。そして、その如月大地の事件に関わろうとする者全てを、抹殺しようとしているようにしか思えないのじゃ」

「…だとしたら、おかしいと思いませんか?なぜ、すぐにでも手を打たないんだ?未だにSCAR盗難事件が公表されることなく、警察も動いていない」

「予期せぬ事態が起こったからじゃよ。柊くんが動いたことで、冴月くんがSCAR盗難事件のことを自衛隊内でも漏れないようにしてるんだろう?なぜ、そうしてるかは知らんが」

「確かに冴月は、見回りをしていた勇輝を助けるために、自衛隊内でもSCAR盗難事件のことはトップシークレットにしてると言ってました」

「それが、誤算だったのだよ。警察も、自衛隊からの連絡がなければ、動くことができない。未だ事件はなかったことになっている」

「だとすると、この事件の黒幕が動かせるのは警察だけ…ということになるんでしょうか?」

「そうじゃな。牧村警部が動いているのだから警察は間違いない。後は政府の中でも一部の機関なら動かせるのじゃろう、とはいっても私の憶測でしかないが…」

「いいえ。教授の考えで間違いないと思います。牧村警部を追えば、何かわかるかもしれない」

「柊くん…。牧村警部を追うなら、くれぐれも気をつけなさい。すでに啓も殺された。私としても、これ以上人が死ぬのを見るのは辛いのじゃよ。歳のせいかのう…」

穏やかだが、寂しそうに新藤教授は笑った。

「教授…」

もう誰にも死んでほしくない

その気持ちは柊も同じだった。

大切な者に死なれ、人の命の重みがわかるからこそ、今ある命を目の前で失いたくなかった。

「なんで…こんなに人が殺される世の中になってしまったのか…」

新藤教授は呟くように言うと、コーヒーを飲む。

そして、ゆっくりとテーブルにコーヒーカップを置いた。

「ところで…、咲はどうだね?君のところで元気にやってるかね?君が会ってくれないので、聞きようがなくてね」

柊はため息をついた。

「あり得ないぐらい元気ですよ。最初は自由気ままで手のつけようがないと思ってましたが、思った以上に思いやり深くて。一方的に咲を押し付けられた時は、ビックリしましたけどね」

そう言うと柊は笑った。

「そうか…。すまないね。何の説明もなく預けて。自由気ままか…。私が甘やかしすぎたのかな…?しかし、咲も可哀相な子でね。それで、ついつい…」

新藤教授は苦笑いした。

「可哀相…?教授の口から、そんな言葉を聞くなんて意外です。咲は、そんな風には見えなくて…、いつも明るくて元気で」

「隠しているんだろう。その事実が辛くてな」

「あ…でも、咲が惨禍の日に今回の事件が似てるって言った時があって、その時様子がおかしかったな」

「そうか…。そうじゃろうな。あの子の唯一の肉親である兄は“惨禍の日”に亡くなったからな」

「咲のお兄さんが?」

いつもの咲からは、欠片も感じられない事実に目を丸くする。

「それだけじゃない。“悪夢の日”には両親を亡くしている。“悪夢の日”に両親を亡くし、唯一の肉親で心のよりどころだった兄を“惨禍の日”で亡くし、咲は生きる気力を失っていた。私が見つけた時には…」

新藤教授の目は潤んでいた。

「咲を見つけた時、私も娘を亡くしたばかりでな。他人のように思えなかった。それどころか、失った娘が戻ってきたように思えた」

新藤教授は涙ぐんで微笑んだ。

「これは運命だと思ったよ。だから、私は咲の親代わりとして面倒を見ることにしたんだよ。咲は娘を亡くした私にとって、光そのものだった。今、私が穏やかでいられるのも咲のお陰だよ」

新藤教授は穏やかな笑顔を見せた。

「そんなに大事なのに、なぜ咲を俺に預けたんですか?まさか、本当に小説を書くための取材じゃないですよね?」

「察しがいいな。柊くんは。“惨禍の日”について調べていた啓が、誰かに見張られているようだと言ってきたんだ。“惨禍の日”の惨劇を考えれば、その秘密を暴こうとしている人間の命さえも狙われかねない。代表である私なら尚更だ。そんな私の元に置いておいたら、咲の命が危ない」

「それで俺に預けたんですね」

「君のところなら安全だと思ってね。君はライトワークスではないからね」

「それなら、本当のことを言ってくれれば良かったのに」

「まだ、私に会いに来ない君には、そんな余裕はないと思っていたからね。きっと、真雪のことが過去のことになっていなんだろうと思ってね」

「…ええ。その通りです。さすが…教授ですね」

柊は力なく言った。

「柊くん。こんなこと一方的に頼んで、すまない。でも…私は咲が愛おしくて愛おしくて。今度こそ咲を…可愛い娘を死なせたくないんだよ」

新藤教授の目が涙で滲んでいく。

「二度も、あんな辛い思いはしたくないんだよ…。すまない。君には関係のないことかもしれない。でも…君しか頼れる人間がいなかったんだ」

そう言うと、新藤教授は顔を震える両手で覆った。

「教授…」

柊はため息をついた。

「俺は責めてませんよ。咲を預かることが嫌なわけでもないし」

「そうか…。ありがとう」

新藤教授は涙を拭きながら顔を上げた。

「咲がいるお陰で、真雪のことを悲しむ暇もありませんよ」

そう言って、柊は穏やかに笑った。

「なるほど…。思ったより、楽しくやってるようだね。安心したよ」

新藤教授はニッコリと笑った。

咲の性格を考えれば、柊がどれだけ振り回されているかが、目に浮かぶようだった。

「教授…。笑い事じゃありませんよ。今でこそ笑って話せますが、最初は大変だったんですよ」

「すまん。すまん。お詫びに、もう一杯コーヒーをご馳走するよ」

笑顔で言うと新藤教授は立ち上がった。

その瞬間、教授室のドアが勢いよく開いた。

そして、そこには中年の男が銃を持って立っていた。

その男は顔に刻まれたシワのせいか、稀に見る険しい表情をしていた。

「牧村警部!」

柊はテーブルを立てて、その陰に新藤教授を引っ張り込み隠れる。

同時に牧村警部が発砲する。

銃弾はテーブルを貫通したが、柊たちには当たらなかった。

「柊!おじさん!」

咲の声がした。

キャンパスを見て回っていた咲たちは、教授室の前まで来ていた。

教授室の入り口に立つ牧村警部の姿を見つけた瞬間、銃声がしたのだ。

「冴月!咲を守ってくれ!」

立ちすくむ咲に気づくと、柊は冴月にそう言った。

しかし、すでに遅く。

牧村警部は咲を拉致した。

「…」

咲は銃を目の前にして、声がでなかった。

銃声がしたせいで、大学内から人がワラワラと集まってくるのが見えた。

「おまえら、それ以上近づいてみろ!この女を殺すぞ!」

「くっそ~!」

冴月は唇を噛んだ。

牧村警部は咲を人質にとり、人を追い払いながら建物から出る。

柊たちもゆっくりとだが、距離を置きながら牧村警部を追いかける。

そして、キャンパス内を逃げ回り、噴水の前に追い詰められた。

キャンパスの中央にある中庭ということもあり、四方八方から人が集まってくる。

牧村警部は逃げ場を失い、精神的に追い詰められているようだった。

「まずいな。柊」

柊の顔を見ながら冴月が言った。

「ああ。咲が心配だ」

「このままだと…咲を殺して自分も…となりかねない」

「だな。どうするか…」

柊の額に嫌な汗が流れた。

犯人に拉致されている咲の顔は、恐怖に青ざめている。

どうにか咲を助けたいが、近づけば咲は殺される。

どうにもできない状況に、柊は焦りを感じていた。

「冴月。こんな時、おまえならどうする?戦闘のプロの意見が聞きたい」

「戦闘のプロか」

冴月は笑った。

「日本の自衛隊は訓練がほとんどで、実践経験はないに近い。だが…、こんな場合は一人が犯人を引き付けておいて。一人が後ろから犯人を一撃で叩きのめせば、人質は助かるかもな。上手くいく保障はないが…」

「そうか…。何もしないよりはいい。それでいこう」

「本当にいいのか?」

冴月は真剣な眼差しで言った。

もし、失敗すれば咲は殺される。

冴月の目はそう言っていた。

「ああ。ただ…、犯人を叩きのめすのは俺がやる。そして、咲を必ず助ける」

その声には強い意志が感じられた。

「そうか。なら、俺と勇輝で犯人を惹きつける」

冴月は笑顔で言った。

「じゃあ、頼むぞ。くれぐれも撃たれるなよ」

「おいおい。俺たちを何だと思ってるんだ?その辺の一般人と一緒にするなよな」

冴月はニッコリ笑った。

「そうだったな。じゃ、安心して咲を助けに行って来るよ。また後で会おう」

そう言うと、柊は人だかりの陰に隠れ、犯人に見つからないように犯人の背後側に近づいていく。

「柊さん、行っちゃいましたね。ところで冴月さん、惹きつけるって、どうやるんですか?」

「そりゃ、SNSだろ!」

「え?」

冴月はニコニコしながら、カドホを取り出す。

そして、フラッシュをたきながら犯人の写真を撮った。

犯人は冴月を睨みつけた。

しかし、次の瞬間、周りの人だかりからも、次々とフラッシュがたかれ、写真が撮られていくいく。

そして、SNSへ写真がアップされていく。

周りにいる人間から一斉に写真を撮られ、起こっていることの意味がわからず、牧村警部は立ちすくんでいた。

「冴月さん。この方法って、自衛隊関係あります?」

「バカか…。誰も関係あるとは言ってない。俺たちは自衛官である前に、一般人でもある!一般人の知恵を使わない理由がどこにある?」

冴月は自信満々に言った。

「冴月さん。さっきと言ってることが違うんですが…」

「細かいことは気にするな。結果がすべてだ!」

冴月はニヤリと笑った。

「相変わらず、テキトーだな」

勇輝は苦笑いした。

次々とたかれるフラッシュに牧村警部は立ちすくんだ。

その牧村警部の背後にたどり着いた柊は、人だかりをかき分け牧村警部のもとへ向かった。

しかし、その瞬間、銃声がした。

「咲!」

柊はものすごい勢いで人だかりをかき分け、人だかりから抜け出した。

その柊の目の前で、頭を打ちぬかれた牧村警部が倒れていくのが見えた。

咲はガクガク震えながら、その場に座り込んだ。

「咲!」

柊は咲の元へ行き、狙撃された方向から、庇うように咲を抱きしめた。

「柊!」

冴月と勇輝が駆け寄る。

「冴月!勇輝!来るな!撃たれる!」

「柊。たぶん、大丈夫だ」

「そんなわけ…」

「周りを見ろ。SNSに犯人の写真を投稿するためにカドホ持った奴らが、狙撃した犯人を捜しまわってる」

周りにいた人だかりたちは、ワラワラと狙撃した犯人がいると思われる方向に向かって、カドホを向けながら犯人を捜しに向かっていた。

こんな状態で柊や咲を狙撃すれば、居場所がばれてしまう。

恐らく犯人は見つかるのを恐れて、逃げているはずだ。

「しかし、なんて奴らだ。目の前で人が銃で撃たれて殺されたのに、犯人の写真撮るのに夢中なんてな…」

「今の世の中って、おかしくなってきてる気がします。まるで人の命に価値がないみたいだ」

勇輝は寂しそうに言った。

「自分を大切にできない人間は、誰も大切にできないっていうもんな。自分なんて、価値のない人間だと思ってるからだろけど。今の世の中には、そんなヤツがたくさんいる。価値がなければ、その命も軽いってな。簡単に人を殺すヤツが多すぎる」

カドホを持つ人だかりを見る冴月の瞳は、どこか虚しさを感じているように見えた。


ここは戦場ではない

けれど、ある意味、戦場より過酷なのかもしれない

そんな事を考えながら…。


「本当に…」

カドホを持つ人だかりを見ていた柊は、ため息をついた。

そして、咲が生きているのを確かめるかのように、ギュッと抱きしめた。

抱きしめた咲の温もりを感じると、心から安心する自分に気づいた。

「咲…」

柊の腕を咲が掴む。

いつの間にか咲の震えは止まっていた。

「柊…」

咲の頬に涙が零れ落ちた。

それから、すぐに警察が駆けつけ、牧村警部は救急車で運ばれていったが、あの様子では助からないだろう。

その後、柊たちは事情聴取受け、夜には警察から解放された。

咲を心配する新藤教授を置いて、咲を休ませるために柊たちは屋敷に戻った。

 柊の屋敷のリビングで冴月と勇輝はコーヒーを飲んでいた。

勇輝の目の前には、イチゴのショートケーキが置いてあった。

勇輝は嬉しそうに、目をウルウルさせながら見ていた。

ケーキをフォークで一口分をすくって、口に運ぶ。

そして、味わいながら食べると、この上なく幸せそうな顔をする。

「…勇輝。おまえって、幸せだな」

冴月は呆れたように言った。

「はい。このケーキ、めちゃくちゃ美味しいですよ!」

「冴月さんも食べればいいのに!」

「俺は酒は好きだが、甘いものはちょっと…」

苦笑いする。

「…にしても、柊と咲は大丈夫なのか?帰ってきて、ずっと、二人で咲の部屋に入ったままだな」

「そうですね。食事もとらずに…。咲さんが食事を抜くなんて相当なことですね」

「…そんなに、咲って食い意地はってるのか?」

「食い意地はってるかどうかは…?いつも食事を楽しみにしてましたからね」

「やっぱり、食い意地がはってるんじゃないか…」

冴月は呆れたように笑う。


その頃、咲の部屋にいた柊はベッドの横に椅子を置いて座っていた。

ベッドに寝ている咲は、柊の手を握ったまま離さなかった。

咲が眠ってからも、その手を振りほどけず柊は傍についていた。

柊は咲の寝顔を見ながら、ぼんやりと真雪のことを考えていた。


母親を亡くして泣いてた真雪

守りたいと思っていたのに、守ることもできず死なせてしまった

真雪は、どんな風に死んだんだろう?


遺体を焼却され、それすらもわからない。


亡くなった真雪の体を抱きしめ、泣くことさえできなかった。


駆けつけた柊が見たのは、遺体一つなく一面血まみれの国会議事堂の門の前だった。

すでに清掃を始めていて、血と肉片が水で洗い流されていくのを見ていた。


ここで真雪が殺されたのだと…。


信じたくない現実を、何もできず見ているしかなかった。

そのことを思い出すと、胸が苦しくなった。

柊は思わず咲と繋いだ手に力を入れた。

「柊…」

咲は目を覚ました。

「咲…。ごめん。起こした?」

咲は柊の目が涙で滲んでいるのに気づく。

「どうしたの?大丈夫?」

心配そうに柊の髪を撫でる。

「昔、大切な人が殺されたんだ。その人のことを思い出して。その人の遺体に会うこともできなかったから」

「その人は惨禍の日に亡くなったのね?」

「そう」

「あたしのお兄ちゃんもよ」

咲は寂しそうに言った。

「知ってる。教授に聞いた」

「おじさんたら…」

ため息をつく。

「そんな事があったせいか…。今日、咲が警部に拉致された時、心臓が止まりそうだった」

柊の頬に涙が零れた。

「同じように、咲が死ぬんじゃないかって…。怖くなった」

「柊…」

「この手が冷たくなるなんて…、考えただけでもゾッとする」

柊は咲の手をしっかり握った。

「だから、咲。俺の傍から離れるな。何があっても守るから」

柊は真っすぐに咲の目を見つめて言った。

その眼差しに嘘はなかった。

むしろ、力強い意志が感じられた。

咲の瞳から涙が零れていく。

これまで何度も涙を堪えて笑顔を作ってきた咲だったが、柊なら、どんな自分も受け入れてくれる。

心から、そう思えた。


可哀相だからとか、同情じゃない。

自分がそうしたいからそうする。

柊の眼差しがそう言っていた。


「柊…!」

咲は柊に抱きついた。

そして、声をあげて泣き始めた。

冴月と勇輝は咲の部屋の外で、咲の鳴き声を聞いていた。

柊と咲を心配して、部屋の前まで様子を見に来ていたのだった。

「愛だね~」

壁に背中をもたれて立っていた冴月が言った。

「本当。良かったっす!咲さん!」

勇輝は涙ぐんで言った。

冴月はポケットから何かを取り出して、手でつまんで自分の目線の高さまで持ってくる。

それはキーホルダーのついた鍵だった。

「心配するまでもなかったな。俺たちは俺たちのできることをするか」

冴月は鍵をポケットにしまった。

「え?できることって何ですか?」

意味も分からず、キョトンとする勇輝だった。

「いいから、ついてこい」

ニヤリと笑うと冴月は歩き出す。

「あ!待ってくださいよ!冴月さん!」

勇輝は冴月の後を追って歩き出す。

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