第21話 さよなら
……それが夢か現実か、とっさには判断がつかなかった。
掃除をしながら空気の入れ替えをしたものの、まだわずかに埃っぽい狭い部屋のソファに横たわり、深夜、俺はぼんやりと目を開ける。窓から差し込む月明かりと、その下に佇む黒瀬さんに、気がついた。いつの間に入ってきたのだろう。しかもなぜこんな時間に?
寝ぼけた頭で考え、ああ夢か、と思い至った。
「……ごめんねリュウくん。起こしちゃったよね」
黒瀬さんの、静かな湖の水面のような抑揚のないその声で、再び眠りに落ちかけた頭が覚醒する。
「……なんで、ここに?」
まだ現実かどうかを疑いながらそう呟いた。不思議と、驚きの気持ちは微塵もなかった。どうしてかはわからないが、やっと来てくれた、という気持ちにさえなった。
「なんでって、ひとりで眠るのは寂しいじゃないか」
「……俺もう、黒瀬さんを甘やかすのはやめたんで」
「どうしてそんなこと言うの?拒否しないでよ、俺のこと」
「してません。むしろ、黒瀬さんが俺のことを拒否してるんじゃないですか」
言い返しながら、次第に意識がはっきりしていく。いまこの瞬間のやりとりは、紛れもない現実だった。上体を起こし、窓辺に立つ黒瀬さんを見据えた。月の光で薄暗い室内では、その表情は読めない。
「そんなわけないだろう。俺はリュウくんのことを愛してるって言ったよね」
いつもそうだ、黒瀬さんの声に感情はこもらない。本音かどうか俺は見極めることができず、そのたびに苦しくなる。どうせ嘘、言葉に重みはない、わかっているのに、期待してしまうのも辛い。
「そういうのやめてください。黒瀬さんが好きなのはレイコですよね。今までも、これからもずっと。それはもういいんです。俺……」
それ以上言葉は続かなかった。気づけば狭いソファの上、黒瀬さんが俺に馬乗りになり、キスをしていた。
「っ……!!?」
黒瀬さんの濡れた舌が俺の唇をこじあけ、口内に入ってくる。まるで愛している恋人にするように、存在ごと慈しむように。うまく応える余裕はなく、俺の思考は止まってしまった。かろうじて身をよじってやめさせようとするのに、それでも黒瀬さんはやめない。華奢で非力に見えるのに、俺の両手首を掴む力は意外にも強かった。
黒瀬さんの部屋の半分もないこの室内に、舌と舌の絡み合う水音だけが響く。
どのくらい時間が経ったのかわからない。
ゆっくりと顔が離され、至近距離で、黒瀬さんの薄茶色の瞳が俺のことを真っ直ぐに見つめた。俺の視界は揺らめいた。
また、馬鹿にされているんだ。
嘲笑うつもりなんだ。
苦しくて涙が頰を伝うのに、この弱い大人がどうしようもなく愛おしくて、俺は噛み締めた歯の隙間から嗚咽を漏らした。
「俺も、っ……、好きです、黒瀬さんが」
一番じゃなくてもいいから、俺のことを愛して欲しい。
そう願ってしまう俺もまた、救いようがない弱虫だ。
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