廃屋世界で生き残れ

雲上 梟

1

 デルタは最上階の潰れた駐車場の下層を走っていた。この世界で意識が覚醒してから数時間、灰色の建物の中を動き続けていて、既に時刻は午後3時を回った。〈中央区〉と呼ばれている場所からはかなり離れた位置にあるため、人は一切見かけない。

 並んだ柱の間から外の景色が見える。果てしなく続く、無彩色。薄い陽光が、曇天くらいの明るさを何とか保っている。まもなく暗くなってしまうのだろう。空には常に靄がかかっていて、そこから先に何が続いているかは全く分からない。


 デルタの頭の中で、もう何度か上った単純な疑問がもう一度現れる。一体ここは何処か?…その答えは今のデルタが知る訳もない。そして他に迷い込んだ者全員も同様のはずだ。この世界はおそらく誕生、あるいは存在が認識されてから長くとも数日しか経っていない。全貌すら掴めぬ世界の存在意義など、分かるはずがないのだ。

 ただ、この世界に降り立った時点で、自分たちは言語能力と思考回路を有していた。さらに「ドア」「エレベーター」等、あらゆる対象物も、決して初めて見るものではない(少なくともデルタはそう確信している)。そこで導ける仮説は、我々はここに来る前にどこか別の世界で生まれ育ち、記憶を消されてここに来た、というものだ。その前の世界で得た知識・技能などがこの世界に来た自分にそのまま受け継がれている。例えば数学(この「数学」も前の世界で得た知識だろう。数・量・図形などに関する学問のはずだ)に造詣が深かった人は、こちらでも数学に詳しいだろうし、サッカー(ボールを蹴ってゴールに入れる集団スポーツで間違いないだろう)が得意だった人は、同じように出来るはずだ。

 ただし、それらと自分の主体的な経験とは、完全に分離されている。サッカーが得意だったとして、共に練習した仲間を思い出すことは出来ないし、憧れの選手が誰であったか、そもそもどんなプレイヤーがいたかすら、記憶には残っていない。周りの環境。自分は何処に住んでいましたか?そこはどんなところでしたか?答えることは出来ない。そしてデルタ自身、一緒に過ごしていたと思われる家族については知らないし、何より自分の名前も分からない。「デルタ」はあくまでも自分につけたニックネームだ。嫌っても、気に入ってもいない。


 顔を上げた。くっついた廃材の塊をひたすら渡り続けて来たが、収穫はありそうにない。今日はひとまず人の多いところへ行き、夜を安全に過ごそう。

 ポケットから〈デバイス〉を取り出す。この〈デバイス〉は前の世界でいえば、

「スマートフォンとトランシーバーを足し合わせてそれらよりも少し小型になった」物だ。ただ、画面はカラーではなく、無味な灰色に黒文字が浮かぶモノクロタイプである。電卓やデジタル時計を想像してもらえれば大体そんなイメージである。この〈デバイス〉で出来ることはたくさんあるのだが、その説明はまた今度にしよう。


 夜が刻々と近づく。駆けた後には、朽ちたコンクリートの粉末が残るだけだった。

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