月影に藤

鹿月天

月影に藤

月影に藤


「お初にお目にかかります。私、阿倍船守あべのふなもりが嫡男、阿倍仲麻呂あべのなかまろと申します」

 はじめて彼を見た時、同じ名前だ、と単純にそう思った。しかし、その時はそれまでだった。まるで個性のない響き。もう生まれてから九年の月日を生きてきたが、仲麻呂と言う名に正直思い入れなど何も無かった。自分は次男だから仲麻呂なのである。対して藤原の家を継ぐ兄は豊かに成ると書いて豊成とよなり。きっと自分などどうでもよかったのだ。父から言われた訳では無いが、自分勝手にそう思っていた。

 だから、こんな名前の者はいくらだって居る。目の前の男が同じ名前だからといって特段驚くこともない。きっと彼も何も考えずに名付けられたのだろう。そう思って少し自嘲するかのように顎を上げた。

 しかし挨拶を返した時、彼が驚いたように目を丸めるものだから。柔らかで形の良い瞳に、嬉しそうな光を灯すものだから。少し、ほんの少し心が揺れた。

「ふふ、同じ名前なんですね」

 恥ずかしそうに和らいだ口元に、辛夷こぶしのような清らかさを見た。その時初めて、生まれて初めて、「ああ、この名前も悪くない」──そう思ったのだ。


 *


「こんにちは、仲麻呂さま」

 阿倍仲麻呂は度々現れた。彼は自分に算術を教えにくる。元は伯父である阿倍宿奈麻呂あべのすくなまろが師をしてくれていたのだが、宿奈麻呂の政務が忙しくなり、高齢でもあるために代役を任されたらしい。

 その宿奈麻呂から聞いてはいたが、阿倍仲麻呂は相当頭の良い学生であった。何でも、二度唐に渡った粟田真人あわたのまひとの学堂に通っているのだという。そこに通う人は皆優れた知識を蓄えていたが、阿倍仲麻呂はとりわけ成績が良いのだそうだ。今は十四の少年であるが、たった六つの頃から真人の学堂に通っていたらしい。宿奈麻呂など阿倍氏の人間は、相当仲麻呂に期待しているようだった。そうでも無ければ六つのうちから学堂に通わせたり、こうやって藤原の家に取り入れようとしたりはしない。


「今日は何のお勉強を致しましょうか。この間お教えした······」

「いいや、算術はもういい」

 キッパリと言い放つと、彼はきょとんとこちらを見た。開きかけた木簡を文机に下ろし、「なら経書など······?」と戸惑ったように形の良い眉を下げる。

「ううん、唐の話が聞きたい。粟田殿から聞いてないの?」

 阿倍仲麻呂は納得したかのようにくすくすと笑いだした。まだ冠も持たず、丸く結われただけの黒髪がふわりと揺れる。

「仲麻呂さまはよっぽど唐がお好きなのですね」

「そうだよ。悪い? お前も唐が好きなんだろう」

「ええ、もちろん。いつか遣唐使に選ばれるよう勉強しておりますから」

 二人が親睦を深めたのは何も同じ名前のせいだけではない。どちらもまだ見ぬ唐の地に憧れていたのだ。山に囲まれた平城ならにいては海さえ見たことがなかったが、その先にある華々しい都に幻想のような夢を抱いていた。

 波の光とはどのようなものなのだろう。異国の音曲とはどのようなものなのだろう。花は美しいだろうか。人々は朗らかだろうか。その全てが、唐の全てが輝いて見えた。

 だから、よく唐について語り合った。阿倍仲麻呂は度々師から伝え聞いた唐の話をしてくれる。それを聞くのが何よりの楽しみだった。そうやって語り合う度に、唐へ行ってみたいという気持ちがより一層強くなった。


「唐の都には青い目をした人もいるそうですよ」

「青い? 瞳が?」

「ええ、まるで空のような色をしていると聞きました」

「それじゃあ景色が青く見えるんじゃないのか?」

「ふふふ、それなら黒い目の仲麻呂さまはいつも夜のような心地になってしまいますよ」

 彼の袖から覗く白い手を見つめた。きめ細やかな肌が、陽を受けて柔らかく清い光を放っている。

「ああでも仲麻呂さまは少し瞳が茶色みがかっておりますね。こう、琥珀のような······」

 見上げれば、じっと覗き込まれていた。元々好奇心が強い性格なのだろう。一つ気になったらとことん調べたくなるようだ。こちらが戸惑うほど真剣に瞳を覗き込んでくるものだから、どこか胸がそわそわするような心地がした。

「綺麗ですねえ、仲麻呂さまの目」

 思わずパチリと瞬きをする。生まれて初めて言われた言葉だった。普段は自分の容姿など気にもしないのだが、この時ばかりは己の瞳を見てみたいとさえ思った。

「そういうのはどこかの娘さんにいってやりなよ」

「え? あっ、そうですね。すみません変なこと言って」

 少しからかうようにしてやったら、案の定彼は笑いだした。どこか気まずそうに頬を染めると、娘にも劣らぬ端正な顔ではにかんでみせる。

「しかしお恥ずかしいことにこの歳になって初恋がまだなのです。お相手がいれば良いのですが」

「阿倍の家なら縁に不安はないんじゃないの? よく知らないけどさ」

 何故だろう、その言葉にほっとした自分がいた。自分とてもう九つだが誰かに恋したことなど一度もない。どうせ相手は決められているのだと思うと恋する気にもなれなかった。

 しかし、目の前の男が家庭を持つと考えるとどこか心がムズムズする。彼が正式に阿倍の名を継ぐこととなれば、きっと今のように気軽に話すことも出来まい。この男が家を優先して、もう二度と一緒に唐の話が出来なくなると思うと、行きどころのない怒りにも似た感情が湧き上がってきた。しかしそれを何と言うのか、今の自分には分からなかった。

「でもいいのですよ。今はまだ、こうして仲麻呂さまとお話している方が楽しいですから」

 まるで心を読まれたかのような言葉にドキリとした。勢いよくそちらを見上げれば、当の彼は「?」と不思議そうに首を傾げている。

「すみません、迷惑でしたか? そういえばお勉強が目的ですものね。ごめんなさい、無駄話ばかりで······」

 分かりやすく焦り始めた彼に「ううん、違うよ」と声をかける。

「俺もお前と話してる方が好き。勉強は自分一人でも分かるしね」

「まあ、それは凄いですねぇ。私なんて要らないんじゃないですか?」

「要るよ。仲麻呂は俺が唐に行きたいっていっても笑わないから」

 阿倍仲麻呂は少し驚いたようだった。しかし頭の良い彼はすぐに意味が分かったのだろう。少し寂しそうに微笑んだ後、「笑いませんよ。私も同じ夢を持っていますから」と優しい手で髪を撫でる。その手のぬくもりは、どこか遠い昔に見た夢のように温かかった。

 自分だって分かっているのだ。藤原に生まれた己が留学生るがくしょうになどなれないことは。遣唐大使や副使ならば可能性はあろうが、二十年近く唐で学ぶ留学生になどなれる確率の方が少ない。かの藤原不比等ふじわらのふひとの嫡男・藤原武智麻呂ふじわらのむちまろ。そんな父を持つ自分には、わざわざ唐へ行かずとも出世の道は開かれている。それなのに命の危険を冒してまで唐に行きたいなど、馬鹿げていると笑われてもしょうがなかった。

「私もきっと同じことを言いますよ。家のためではなく、自分の夢のために唐に行きたいのです。何故家のために生きねばならないのですか。伯父さまや父上には怒られそうですが、私は家のために勉強しているわけではありません」

 キッパリと聞こえた言葉に顔を上げた。見れば、阿倍仲麻呂がふふんと笑いながら得意げな顔を見せている。

「これは秘密ですよ。皆にいえば怒られちゃいますもの。でも、仲麻呂さまには伝えておきたかったんです。私の本当の気持ち」

 瞳に見えた強い光に思わず目を奪われた。そこに見えたのは自分の師でも、阿倍家の少年でもない。それは阿倍仲麻呂という男そのものであった。

「真人先生の学堂へ通わせてくれた父上たちには悪いのですが、別に遣唐留学生になって出世するために勉強しているわけでは無いのですよ。皆がそれに気づいていないので、ますます面白くて笑ってしまうのです」

 まるで屈託のない言葉だった。その図々しさにむしろ憧れさえ抱いてしまう。そうか、家から頼りにされていながら見当違いの期待を笑っているのか、この男は。それに気づいた途端、芯の強さにいよいよおかしくなって笑ってしまった。

「お前は強いな。大きくなるぞ、思っている以上に」

「そうですか? ふふ、大きくなって見せますよ。期待していてくださいな」

 そう言って彼も笑った。純白の花がふわりと綻んだような、いつもより美しい笑みであった。



 *



 春のぬくもりに満ちたその日から、また幾つか時が流れた。それでも唐に行きたいという二人の夢は変わらなかった。

 しかし、ひと足早く阿倍仲麻呂に転機が訪れた。十七になり、冠も被った彼に遣唐使船へ乗る許可が降りたのだ。その年に選ばれた留学生は、仲麻呂の他に下道真備しもつみちのまきび白猪真成しらいのまなりなど、粟田真人の学堂に通っていた天才児ばかり。もちろん、藤原仲麻呂の名前などあるはずがなかった。


「行くのか、仲麻呂」

 旅立ちが決まった後、久しぶりに訪ねてきた阿倍仲麻呂は前に見た時よりも爽やかに大人びた顔つきをしていた。しかし、瞳の強さや肌のやわらかさはあの日のままに温かかった。

「ええ、申し訳ございません。共に唐へ行きたいと言っておりましたのに」

「いいんだよ、俺だって行ける気なんてしてなかったから」

 正直、自分が笑顔を保てているか分からなかった。それは唐に行けない悔しさなのだろうか。いや、悔いとはまた違う、それよりも心を抉る何かがある。それが目頭に押し寄せては、熱を持って呼吸の邪魔をした。

「おめでとう」

 やっと声に出した言葉はたった一言、それで精一杯だった。自分でも分かるほどの下手くそな笑みを浮かべて彼の肩を叩いてやる。

 彼はそんな笑顔を見て眉を下げた。どこか儚げな微笑みを浮かべると、「寂しくなりますね」と言葉を落とす。

 心に風がさした心地がした。そうか、自分は寂しいのだ。この男が目の前からいなくなることが、この男と二十年近く会えなくなることが、心の底から寂しいのだ。それに気づいた途端、どこか自分が恥ずかしくなった。何を執着しているのだろう。今、彼は長年の夢が叶って大海原に漕ぎい出ようとしている。それなのに、自分は友の夢も応援出来ぬまま赤子のように寂しがっているのだ。もう十二になったと言うのに。

「行きなよ」

 ぶっきらぼうな声音で強がるように言った。彼の瞳から離れるように、庭の辛夷を目でなぞる。

「夢が叶ったんだよ、嬉しそうにしなよ。仲麻呂ならきっと唐へ行けるって信じてた」

 嘘のようで本当のことで、何が本心なのか分からなくなった。彼を信じていたのも、彼の夢を応援したいと思っていたのも事実なのだ。しかし彼と共に進めない自分が、藤に捕らわれたこの足が、無性に憎くてたまらなかった。

 阿倍仲麻呂は何も言わなかった。何も言わずにただただ自分の頭を撫でた。しばらくして震える唇に弧を描くと、「仲麻呂さまの、そういうところが大好きですよ」と眦を下げる。

「必ず帰ってきますよ。その時はまた一緒にお話させてください」

 言葉にのせて撫でられた頬に、ふわりと花の香りが広がった。優しくて甘い、春のような儚さを含んでいた。

「約束する? 帰ってくるって」

 自然に零れた言葉とともに涙までもが零れそうになった。拳を握ってグッとこらえると、「お願い、答えて」と眉を寄せる。

 震えた声に心が揺らいだのだろうか。阿倍仲麻呂はこちらの姿を閉じ込めるように目を伏せた。そして長い睫毛に日の光を絡めると、「ええ、もちろん。約束いたしますよ」と春風のような声を紡ぐ。

「きっとその頃には、仲麻呂さまも立派なお役人になられているのでしょうね」

「そうだよ。絶対に負けないから。誰にも負けたりしないから、帰ったら俺を支えてよ。お願いだから一人にしないで。唐で学んだこと、全部俺にちょうだい」

 まるで傲慢な言葉だった。自分で言っておきながら、駄々をこねる子供のようだと思う。しかしいいのだ。それくらい強がっていないと、今にも足が崩れそうだったから。

 一筋の風が頬に触れた。小さく微笑むと阿倍仲麻呂は頷いた。

「ええ。いつか貴方さまの助けになれるようしっかり学んでまいります。決して一人になどしませんとも。また会える日を楽しみにしておりますね。それまで、どうかお元気で」

 最後に向けられた微笑みはまるで朧月のようだった。霞にぼやけた輪郭が少しずつ遠ざかっていく。忘れたくない、忘れられたくない。しかし、遠のくその光が霞にかき消される心地がして、根拠の無い不安が胸の中に渦巻いた。

 また会えるだろうか。忘れられたりしないだろうか。そればかりが春雨のように胸に流れ込んだ。


 阿倍仲麻呂の背が消えた先で東の空が明るくなった。天に浮かぶ月船は今はまだ三笠山みかさのやまの上にある。しかし、明日の朝にもなれば西の山に流れてしまうのだろう。取り残された闇が自分のことのように思えてきて、思わず裾を握りしめた。


 あと二十年、月は帰ってこない。下手すれば四十年、いや永遠に······。

 しかし、彼にとっては輝かしい船出なのだ。夢見た唐に向かい、同じ志を持つ学友たちと海へ出る。そうだ、自分にとってはたった一人の師友であったが、彼には同じ夢を持つ仲間が大勢いるのだ。どうして彼も寂しがっているなどと思い込んでいたのだろう。彼はきっと恐れてなどいない。彼は孤独になどなったりしない。堂々と胸を張って船に乗り込めばいい。気を許した友人たちと談笑しながら······。

 そう思うと、一人で寂しがっている自分が馬鹿らしく思えてきた。きっと彼の目に映る花は自分ではないのだ。蔓に覆われた藤の花など月影に照らされるわけがない。


「······でも、約束したから」


 強がるような情けない声が小さく零れた。それは風にさらわれて、すぐに口を開けた闇に呑まれていく。

 二十年経っても彼は約束を覚えているだろうか。せめて彼が真っ直ぐに帰ってこられるよう、小さく小さく名を呼んだ。自分と同じ在り来りな名前。しかしその個性のない響きだけが、自分と彼とを繋ぐ唯一の光だった。

 仲麻呂。その名を捨てることなどきっとないのだろう。もしもその時が来たのならば、それは彼との約束を捨てる時だ。しかし、そんな日など来るはずがない。彼は確かに帰ってくると誓ったのだから······。


 そうだ、彼が帰ってきたら何を話そう。まずは唐の話を聞いて、自分も日本の話をして、そうして共に歩むのだ。そしていつか海を渡ろう。たった二人の船でいい。月明かりを指で辿り、あの天の原を駆け巡る。

 うん、きっと上手くいく。彼と一緒ならば叶えられる。強がりに過ぎぬことは分かっていたが、そう信じることだけが、暗闇を歩くための唯一の糧となった。


 見上げた空に星が瞬く。それはかいの雫のようにチラチラと瞳の奥で踊った。綻び始めた辛夷の横で、風に煽られた藤の蕾がしゃらりと揺れた。










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