約束の少年
雨野六月
第1話
公爵令嬢ステラ・ブラッドレーは今でもときどき幼馴染の夢を見る。
別荘で過ごしたひと夏の間、毎日遊んだ男の子。
泣き虫で、女の子みたいな顔をして、それでもステラのためなら怖い犬にも立ち向かってくれた。
ステラが別荘から帰るとき、離れたくないと泣きながらプロポーズしてくれた。
「大好きだよステラ、いつか必ず迎えに行くから。迎えに行くから待っていて」
もう名前も思い出せないのに、あの科白だけがやけに鮮明に蘇るのは、「誰かにここから連れ出してほしい」という虫のいい願望ゆえかも知れない。
「ああ、まただわ」
己の目にした光景に、ステラは小さくため息をついた。
王立学院の中庭で、ステラの婚約者である王太子ジェームズと、平民の特待生であるノエル・フローリアンが寄り添いながら散策している。
ノエルはふわふわしたストロベリーブロンドに小動物のような愛くるしい顔立ち、屈託のない物言いで、ジェームズを筆頭に有力家系の嫡男を何人も骨抜きにしているいわくつきの人物だ。
婚約者の令嬢たちから「あの子をなんとかしてほしい」と懇願されたこともあり、ステラはノエルに「婚約者のいる異性とはあまり親しくすべきではない」とやんわり注意したこともあるのだが、ノエルは「なんでそんな意地悪言うんですか?」と目を潤ませるばかりで、一向に改める気配もない。
今もジェームズの肩に頭を乗せて、けらけらと笑い転げるさまは、およそ淑女からは程遠いが、当のジェームズはそれを咎めることもなく、とろけるような甘い笑みを向けている。
そんな二人を見ていると、辛い王妃教育を耐え抜いて、より完璧に、より王太子妃にふさわしいようにと己を律して来た日々は、一体なんだったのかとやるせない思いがこみ上げてくる。
(……どうせ注意しても無駄なのだし、早く行ってしまいましょう)
反対方向へ立ち去ろうとしたステラはしかし、ふいに飛び込んできた己の名前に足を止めざるを得なかった
「それじゃジェームズさまはステラさんのこと、ぜんぜん好きじゃないんですね?」
「ああ。婚約は父上が勝手に決めたことだし、俺にとっては不本意なんだ。できるものなら解消したいよ」
「解消するのは無理なんですか?」
「うーんそうだなぁ……ノエルは俺がステラと婚約解消したら嬉しいかい?」
「いやだジェームズさまったら、嬉しいに決まってるじゃないですか」
「それはどうして?」
「ふふっ、そんなこと言わせないでくださいよ」
結局二人が行ってしまうまで、ステラはその場から一歩も動けなかった。
あれはただの軽口だ。
婚約破棄なんて軽々にできるはずがない。
しかしいくら己に言い聞かせても、身体の震えは収まらなかった。
ジェームズをかつての幼馴染のように愛しているわけではない。
しかし婚約者となった以上は、ステラなりに心を尽くし、寄り添おうと精いっぱい努力してきたつもりだった。隣に並んでジェームズが恥ずかしい思いをしないよう、所作も教養も完璧と言われるほどに身に着けたし、いざというときジェームズを支えられるように、政治や語学に経済学も、指導役が舌を巻くほどに優秀な成績を収めて来た。
しかしそんな努力はジェームズにとっては何の価値もなかったらしい。
ふっと気が遠くなり、そのまま倒れそうになったステラを、力強い腕が抱き留めた。
「大丈夫か? ステラ」
「アシュリーさま……?」
「貧血か? 顔色が悪いな。医務室まで送って行こう」
「いいえ大丈夫です。少し休んでいれば治りますから……」
ステラはアシュリーに手を貸してもらい、なんとかベンチに腰を下ろした。
「ありがとうございます。私はもう大丈夫ですから、どうかお構いなく」
「顔色が良くなるまで、しばらくこのまま付き添うよ」
「でもアシュリーさまはこれから馬術部の練習でしょう?」
「そんなことはどうでもいいさ。友人の体調の方が私にはずっと大切だ。好きでやっていることだから、ステラは気にしないでくれ」
アシュリーの気遣いに、冷え切っていた心がほんのり温まる。
隣国からの留学生アシュリー・リデルとの付き合いは、ステラが転入したばかりのアシュリーに対して、一緒に課題をやらないかと声をかけたのがきっかけだ。
普段は自分から男性に声をかけることなどないのだが、当時のアシュリーが中性的な美貌の持ち主だったのに加え、学院の制服が男女共用のローブだったため、ステラは彼を美しい女性だと勘違いしていたのである。
親しくなってすぐに男性だと気付いたものの、今さら縁を切るのも難しく、たまに言葉を交わす程度の友人付き合いが続いている。
出会って三年。
ステラとあまり変らなかった身長は見上げるほどに伸び、際立った美貌こそ変わらないものの、その顔立ちは明らかに男性的なそれへと変わっていった。
愛らしかった幼馴染の男の子も、今ごろはアシュリーのような美青年に成長しているのだろうか。
ステラはあり得ないと思いつつも、一度だけ「子供の頃にこちらで夏を過ごしたことはありませんか?」とアシュリーに尋ねたことがある。
しかし返ってきた答えは「子供のころ? いいや、私が国から出たのはこの留学が初めてだ」というものだった。
(あのときは、我ながら馬鹿な質問をしたものだわ)
ステラは自嘲の笑みを浮かべた。
あの男の子がステラとの約束を覚えていて、再会を果たすために学院に入学するなんて、そんなおとぎ話みたいなことが、現実にあるはずもない。
彼はもう幼いころの約束なんてとうに忘れているだろう。
あんな他愛もないプロポーズを覚えているのはステラだけ。
折に触れて宝物のように思い返すのもステラだけだ。
物思いに沈むステラに、アシュリーが遠慮がちに声をかけた。
「ステラ……実は君に打ち明けたいことがある」
「まあ改まって、一体どんなお話でしょう」
「今はまだ言えない。卒業式のあとに話すよ」
「それでは卒業式を楽しみにしていますね」
「ああ、どうか楽しみにしていてほしい」
ところがまさにその卒業パーティ当日に、事件は起きた。
「私はここにステラ・ブラッドレーとの婚約を破棄することを宣言する!」
パーティ会場に王太子ジェームズの朗々とした声が響き渡る。
彼の正面にはステラ、そして隣にはノエル・フローリアンがよりそうように立っており、会場内の人々にとっては、まさに格好の見せものだった。
「……いったいどういうことでしょう。私にどんな落ち度があったのか、どうか理由をお聞かせください」
「落ち度なんて何もないさ。お前はいつだって完璧だからな。俺にはそこがつまらんのだよ。こんなつまらん女が婚約者であることが、俺はずっと不満だった。それでも決まったことだから仕方ないと諦めるつもりでいたのだが、俺はこの学院で真実の愛を見つけてしまったんだ」
「真実の愛……でございますか」
「ああそうとも。ここにいるノエルがそうだ」
ジェームズは傍らのノエルの肩を抱いて、ぐいと身近に引き寄せた。
「皆の者、私はここにノエル・フローリアンと新たに婚約を結ぶことを宣言する!」
呆然と立ちすくむステラの耳に、会場内の人々が囁きかわす声が聞こえる。
「お可哀想ね、ステラさま」
「面と向かってつまらない女と言われるなんて、いったいどんなお気持ちかしら」
「私だったら耐えられないわ」
「あんなに頑張ってたのにねえ」
「仕方がないよ、優秀さと女の魅力ってのは全く別の問題だから」
なにか言わなければ。
なにか言って、とにかくこの場を立ち去らなければ。
そう思うのに、身体がすくんで動けない。
(助けて……誰か助けて……)
脳裏に浮かぶのは遠い夏の日、恐ろしい野犬に囲まれて立ちすくんでいた自分の姿だ。
あのときは「彼」が助けに来てくれた。
棒切れひとつで立ち向かい、ステラを解放してくれた。
あの勇敢な男の子は、今どこで何をしているのだろう――
ステラの意識がふうっと遠のきかけた時、その場を制する声が響いた。
「ええー? なに言ってるんですか。私はジェームズさまと結婚なんてしませんよ?」
ノエル・フローリアンはあっけらかんと言い放つと、「いやお前がなにを言ってんだ」という周囲の目をものともせずに、さらなる爆弾を投下した。
「第一私は男の子ですよ? 男同士じゃお世継ぎだって作れませんよ、まったくもう!」
その発言に、会場内は先ほどまでとは比べ物にならないほどの大混乱に陥った。
「え、うそ、男? 本当に男?」
「冗談じゃないの? 本当に?」
「嘘でしょう? だって今まで男だなんて一言も」
「でも女とも言ってませんよね、そういえば」
「うちの制服ローブだから、男か女か分かり辛いんだよね、そういえば」
「それじゃみんな勝手に女の子だと勘違いしてたってことなのか?」
「嘘だ嘘だ信じない。俺のノエルちゃんに俺と同じものが付いてるなんて信じない」
「俺はノエルちゃんに付いてても気にしないぞ。むしろ興奮する」
「黙れ変態」
「まあいやだ、私ったらすっかり誤解してました。浮気だなんて疑ったりしてごめんなさい」
「はは……分かってくれたらいいんだよ……男だったのかよコンチクショウ」
生徒たちが口々に興奮の声を上げる中、ジェームズがわなわなと震えながらノエルに向かって問いかけた。
「じゃあなんで……なんで君はステラとの婚約を解消してほしいなんて言ったんだ……!」
「え、そんなの決まってるじゃないですか。私がステラさんに結婚を申し込むためですよ!」
ノエルは高らかにそう宣言すると、ステラの方に向き直り、はにかむように頬を染めながら切り出した。
「私ずっとステラさんが好きだったんです。ステラさんは覚えてないかもしれないけど、私たち子供のころに毎日一緒に遊んだんですよ。それで別れ際に『いつか必ず迎えに行く』って約束して……その約束を果たすためにここに入学したんです!」
泣き虫で、女の子みたいな顔をして、それでもステラのためなら怖い犬にも立ち向かってくれた、ステラが別荘から帰るとき、離れたくないと泣きながらステラにプロポーズしてくれた男の子は、そういえばこんな顔をしていたかもしれない――
ステラはそんなことを考えながら、そのまま意識を手放した。
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