第四章 第六節 野獣の独奏

 朝起きるとエカさんの姿はもうなかった。数時間前の艶めかしい記憶が生々しく肌に蘇る。あぁ、エカさんが俺の筆を下ろしてくれたのか。

 ベッドの脇に俺が貸していたTシャツが畳んで置かれている。エカさんが残っているこのTシャツを洗濯したくない。


 そう言えば1つ思い出した。前に兄貴が女を連れ込んだ時は確かにお咎めがなかったので大らかな親だとは思った。しかし兄貴は両親からかなりの冷やかしを受けていた。もしかして俺も冷やかしを受けるのだろうか。何なら兄貴も成人している今、俺を冷やかす連中の数は多い。不安になってきた。

 エカさんは帰ったのだろうか? 帰ったとしたら家族には見つからずに出たのだろうか? スマートフォンには特段何もメッセージが届いていない。


 俺はそんな家族への不安を胸に、1階に下りた。


「わっ! このお出汁美味しい!」

「本当? 良かったわ」


 何やら台所から楽しそうな声が聞こえる。おかしい。我が家に女はオカン1人だ。しかし聞こえてきたのは女2人分。しかもオカンの他は俺のよく知る大好きな人の声。昨晩の甘い声とは違ったが。

 俺は台所と一体になっているダイニングの扉を恐る恐る開けた。


「あら、譲二。起きたの?」

「あ! 譲二君、おはよう」


 オカンに続いて挨拶を投げてくれたのは明るい表情のエカさんだ。俺は呆然自失である。なぜオカンとエカさんが一緒に台所にいるのだ? エカさんは昨晩スクーターで拾った時の服装である。


「何してるんすか?」

「何って、お義母さんと一緒に朝ごはんを作ってるんだよ」


 今エカさんは「おかあさん」をどのように変換したのだろうか? どのような変換を俺は期待しているのだろうか?


「部屋にいないから帰ったのかと思いました……」

「譲二君が気持ち良さそうに寝てるから、起こさず帰ろうかと思ったんだよ」


 そう言ってエカさんが指さした先は、食卓の椅子の上のバッグだ。こんなところにあるから部屋では見なかったのか。


「そうしたらね、お義母さんとバッタリ会っちゃって。凄く気さくに話してくれるから意気投合して、一緒にご飯も作り始めたの」

「……」


 なんと言ったらいいのかわからん。エカさんは俺の初夜の翌朝にオカンを取り込んでいた。もちろん不満はない。しかしエカさんが取り込むのはオカンだけではないと俺は痛感する。

 それは朝食が始まった時だった。日曜日の我が家は親父もいるし、大学生で2番目の兄貴も夏休みだからいる。しかも兄貴が上の兄貴にも連絡して、近くで一人暮らしをしている彼は朝飯をせびりに実家に来た。いや、エカさんを見に飛んで来た。


 俺たち3兄弟はみんな体がデカい。6人掛けの食卓でエカさんは俺と2番目の兄貴に挟まれて窮屈なはずなのに、小柄なエカさんだからか、不便を感じさせずに笑顔を振りまいている。

 そんな席で俺の向かいにいるオカンが言った。


「エカちゃん、譲二とはそういう関係でいいのよね?」

「えぇ。どうなんですかね? 私みたいな年増女の相手なんて、これからもしてくれますかねぇ?」


 なんだ、その嫌味な言い方は。絶対後半は俺に向けて言っていた。途端に家族から顰蹙の目が向くので俺は居た堪れない。


「おい、譲二」


 するとピリッとした声で親父が俺を呼ぶ。なんだ、この空気。兄貴が女を連れ込んだ時の冷やかしとは違う。エカさんが我が家に溶け込んで、庇われる側が完全にエカさんだと肌で感じる。


「お前は若くて年頃の娘さんを家に泊めといて、何もハッキリさせてないのか?」


 すげー、教育を受けるような空気。もちろん言っていることはそういうことなのだが。しかしなぜそんなに咎めるような目なのだ?

 エカさんが微笑ましく俺を見るのを横目に感じながら、俺は引き続き親父からの説教を受ける。


「お前ももう18歳だ。法律は問題ない。けどそれは責任が増すことも意味するんだぞ?」

「だって? 譲二君」


 満面の笑みのエカさんがナニカを求めてくる。俺は一度わざとらしい咳払いをしてエカさんに言った。


「エカさん」

「はい」

「今日の予定は?」


 カクンと首が折れる我が家の面々。期待とは違う言葉が俺から出たのだろう。もちろんそんなことは百も承知だ。しかしお前らの前でなんて小っ恥ずかしい場面は見せない。一方エカさんは相変わらず明るい表情だ。


「今日は特に何もないよ」

「えっと、今日一日ゆっくりこれからのことを話しませんか?」

「はい。喜んで」


 元々明るい表情のエカさんだったが、この時は満開に花開いた。我が家の面々も一応の納得顔であった。




 後日迎えた8月最後の営業日。俺のフル出勤も今日で終わりかと思うと感慨深い。尤もアルバイトを辞めるわけではないし、深夜バイトだってこれからも継続だ。それでも今年の夏休みはとても濃かったので思いが深い。


 カランカラン


 17時少し前、入店して来たのは恒星だ。


「いらっしゃい」


 俺がカウンターの中から声をかけるといつものとおり恒星は無言で会員証を提示する。それを俺は受け取った。いつもならこのまま無言で貸しスタジオに向かうが、この時の恒星は動かない。どうした?


「あんたさ、オーロラを抜けてくれて良かったよ」


 突然そんなことを言った。確かに脱退が正解だと以前も言っていたが、今日の発言はニュアンスが違う。俺の脱退は恒星にとってもメリットがあったのか?


「どういうことだ?」

「俺があんたの前に所属してたベーシストなんだよ」

「は?」


 思わぬ事実に半口を開けたままポカンとした。いやそう言えば、エカさんが俺の前にもベーシストを紹介したと言っていた。それが実弟の恒星だったのか。繋がった。エカさんも紹介したことを詫びると言っていたし、2人の間で既に話したのだろう。


「あいつら汚物だろ?」

「ま、まぁ」


 酷い言い方だとは思うが、否定もできないので肯定する。


「ライブの打ち上げでは毎回女を呼ぶだろ?」

「そうなのか?」


 俺は1回しかその席にいたことがない。だから毎回なのかどうかがわからない。しかしヒナさんからの情報を思い返すと納得はできる。


「知らないのか。少しの期間って言ってたもんな。それで俺にも女を呼べって言うわけよ。わざわざ打ち上げに女を呼ぶのも興味なかったからしばらくシカトしてたんだけど、あまりにしつこいんで1回だけ学校の同級生を呼んだ」

「そうだったのか……」


 俺のトーンが下がったことで恒星も悟ったようだ。


「あいつらのクズ具合はわかってるみたいだな。俺の同級生は辛うじて未遂だったけど、散々な目に遭ったって。それを学校でも言い触らすから、俺はもう学校では白い目で見られててハブだわ」


 胸が痛む。ここまでの事が起きていたと知ったらエカさんなら多大な罪悪感を抱くだろう。しかし以前の救出の後もここまでは触れない。エカさんも知らないのだ。そして恒星はそんな過去があったから荒んでいるのかもしれないと思った。


「俺の姉ちゃんが誰だかもう知ってるんだろ?」

「あぁ、まぁ」

「だからあんたが抜けてくれて本当に良かった。俺がメンバーの時に姉ちゃんを打ち上げに連れて来いってしつこく言われてたから。だから気持ち悪くて俺は抜けた。あんたを通して姉ちゃんをまた狙いそうだし」

「そうだったのか……」


 しまったな、当時無知故に裏目に出た。恒星はオーロラのメンバーがどんな連中だったのかわかっていたからエカさんを打ち上げに連れて行かなかったのだ。俺が誘った時のエカさんの反応を思い出せば明確である。しかし俺はエカさんを連れて行ってしまった。


「因みに、お前が加入したきっかけはエカさんからの紹介で合ってるか?」

「あぁ。これでも俺は真剣にベースをやってる」


 ドラムでもないのに個人で貸しスタジオに入るのだから、それはそうだろうと理解している。ここまで真剣でなければ家だけでやるだろうから。


「メジャー思考のバンドだって聞いて俺から紹介してくれって言った」

「なるほどな」

「だから姉ちゃんが俺を酷いバンドに紹介したことに負い目を感じないよう、俺の同級生の話は言わないでほしい」

「わかった」


 俺が恒星の嘆願にそれだけ答えると、恒星はスタジオに向かった。どうやら恒星は、エカさんも既に一度危ない目に遭ったことは知らないようだと思った。心苦しいが救出は完了したことなので、このことは言わないでおこうと思う。

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