第一章 第六節 野獣の独奏

 エカさんは20時くらいまで飲んでからゴッドロックカフェを後にした。


 カランカラン


「いらっしゃい」

「よう」


 その後2時間くらいして来店したのが響輝ひびきさんと泰雅たいがさんと加藤かとうさんだ。みんな常連客である。


 加藤さんは隣にある三連棟の建物の一室で居酒屋をやっている大将。この日は定休日らしく、なぜプライベートで付き合いがあるのかわからないが、加藤さんの居酒屋でも常連客である響輝さんと泰雅さんとご飯がてら近くで飲んでいたとのこと。

 泰雅さんは県内都心の音楽学校でドラムを叩いている講師。依頼に応じてスタジオミュージシャンや、ロックアーティストのライブやコンサートでのバックバンドもやっている。俺よりもガタイが良く背が高い。この日は仕事後で、明日はオフらしい。

 響輝さんは茶髪に猫目の元ギタリスト。中堅企業の工場員だ。そしてこの店の店主杏里さんの旦那である。杏里さんの従兄妹で先代店主の大和さんとは幼馴染らしい。


 この響輝さんと大和さんと泰雅さんは学生時代にクラウディソニックというバンドを組んでいた。メジャーデビューも決まっていたらしいが、彼ら以外のメンバーが起こした残念な刑事事件でそれもふいになった過去がある。

 それでも大和さんは今でもダイヤモンドハーレムのプロデュースなどで音楽を続けていて、そのダイヤモンドハーレムの活動に協力的だった響輝さんと泰雅さんも彼女たちのメジャーデビューに救われたそうだ。酔うとよく我が子自慢のようにダイヤモンドハーレムのことで饒舌になる。


「すまんな。店任せちゃって」


 幾らか飲み始めたところで唐突に響輝さんが言った。泰雅さんと加藤さんは他の常連客と音楽談義を始めていて、俺の話し相手は今響輝さんだけだ。


「全然平気っすよ」


 俺は強がって答えた。そして質問をする。


「杏里さんはどうしてます?」

「実家に帰った」

「え! 実家に逃げられたんすか?」


 驚いて声を張ったが、BGMの邦楽ロックと他の客の談笑のため店内は賑やかで、俺の様子は響輝さんにしか伝わらなかった。最近の杏里さんの様子は、響輝さんとうまくいってなくてブルーだったってことか?

 その響輝さんは俺を見ながら面白そうに笑う。


「はっは。違ぇよ。悪阻がひどくて実家で世話してもらってんだよ。それで俺は1人になったから泰雅と加藤さんを誘って飯食ってたんだ」

「あぁ、なるほど。それで最近体調悪そうだったんですね」


 俺と響輝さんは一度落ち着いたので、各々のドリンクをゴクリと飲む。……ん?


「つわり!」


 ここ最近で一番驚いた。悪阻ってあのつわりか? すると響輝さんが俺を見ながら声を上げて笑う。


「あっはっは。やっぱり聞いてなかったか」

「え? え? 杏里さんって……」

「あぁ、妊娠したんだよ」

「……」


 ポカンとしてしまった。杏里さんと響輝さんの間に子供が。妊娠のことがよくわかっていない高校生の俺だが、あぁ、つまりちょうど俺の夏休みの今が、一番体調がしんどい時期と重なったんだな、って妙に納得した。

 あ! そう言えば、杏里さんの胸の張り。どこかで妊婦は胸が張ると聞いたことがある。これにも妙に納得してしまった。


「さっき泰雅にも報告したら加藤さんと一緒にお祝いって言って奢ってくれたんだ」

「じゃぁ、ここでもお祝いしましょうよ?」


 俺は声を弾ませて言った。て言うかこの店の主役、店主の杏里さんがいないのだが。

 すると響輝さんがジト目を向けた。


「おいおい、お前もこの店の雰囲気に染まってきたな」

「なんすか? それ」

「ことある毎に祝い酒」

「そりゃ、めでたいっすもん。俺、ボトル1本驕るんで」

「バカ言うな。高校生に酒奢ってもらうわけねぇだろ」

「深夜バイト始めたんで金の心配はしないでくださいよ」

「金の心配じゃねぇよ。良識のことを言ってんだよ」

「いいじゃないっすか」


 そんな押し問答のようなことをやっていると、常連客で高齢の河野こうのさんが近づいてきた。最近足腰が弱くなったとよくぼやく弁護士の河野さんは、やじろべえのように両肩を大きく揺らして歩く。足を引きずっているようにも見えて痛々しい。

 そんな河野さんは豊富な口ひげを蓄え、この時はどこか弾んだ表情をしている。まだ入店1時間ほどなのに酔ったのか?


「響輝、杏里が妊娠したんだって?」

「なんだと!」


 するとその会話は他の常連さんの耳にも入ったらしく、店中に飛び火する。河野さんは今まで泰雅さんと固まっていたから泰雅さんに聞いたのだろう。それでこの表情か。


「情報早いっすね。て言うか泰雅まだしゃべるなよ。安定期に入ってないんだから」


 泰雅さんはくっくっくと笑っていた。クールで口数の少ない泰雅さんだからその表情も暴露も珍しい。しかし響輝さんと杏里さんの吉報に、泰雅さん自身も喜びを感じているのだろう。


 そして話題は店中に派生しているわけで、ゴッドロックカフェでは恒例とも言える祝い酒だ。多くの常連さんから次々に、響輝さんに酒が投入され、俺はそのオーダーにかかりっきりとなった。

 そんな状態だったから俺からの祝い酒の投入はする暇もなかった。23時。わずか来店1時間で響輝さんが潰れたのだ。深夜バイトを始めたことだし、給料が入ったら後日何かお祝いを杏里さんに贈ろうと思う。


 そして潰した張本人たち、常連さんは泰雅さんを残して23時半には全員帰ってしまった。なんて人たちだ。響輝さんはステージ裏の控室で寝かせ、泰雅さんは響輝さんを放って帰れないとのことで残っている。

 俺は残り30分の営業を泰雅さんとカウンターを挟んで談笑した。この時2階のスタジオももう利用客はおらず、バーにいる泰雅さんが店の最後の客となる。


「泰雅さん、メジャーデビューってどうしたらできますか?」

「知らん」


 泰雅さんは俺の質問に素っ気ない返事をする。メジャーデビューを掴めるところまでいった人なのだから答えてくれてもいいのに。とは言え泰雅さんの思考を訳すと「きっかけは色々あるから、どうしたらなんて確定的な答えを求めるな。だから知らん」なのだろう。

 まぁ、俺も趣旨を読み取れるなら質問しなきゃいいのだが、高校3年になって焦り始めているのも事実だ。

 唯先輩からベースを受け継いだ高校1年の学園祭の日、初めてその目標を口にして明確に持ったビジョン。しかし何も前進はしていない。もちろんベースの練習は必死でやっているから腕が上がっている自信だけはあるのだが。


「お前、まだメジャーデビューを目指すようなバンドに所属してないだろ?」

「そうなんすよ……」

「当てもないのか?」

「一応意識の高いバンドを紹介してもらえることにはなりました」


 この日会ったエカさんからの打診だ。それでも目星は多くあるに越したことはない。


「泰雅さん講師もやってるじゃないですか? 紹介できそうなバンドいません?」

「確かに生徒はメジャーを目指してる奴ばっかだな。けどそんな奴ばかりだからこそ、みんな意識の高いバンドにもういるよ。それにベースとギターは供給が多いしな」

「そうっすよね……」


 いつもこんな感じの返答だ。そう、頻繁にこんな会話をしている。だからこそさっきは泰雅さんの思考を訳せたわけだが。


「それからお前、深夜バイト始めて収入増えるだろ?」

「うっす」

「貯めとけよ」

「え?」

「将来のためにだよ」

「どういうことっすか?」


 泰雅さんは手元の酒を煽ると答えてくれた。


「デビュー前のバンドマンってな、本当に金がねぇんだよ。バイトもあんまシフト入れねぇし」

「そんなんでみんなよくやってますね」


 他人事みたいに言ったが俺もゆくゆくは通る道だ。


「ただ強力なファンがつけばメジャーデビューまで支えてくれることもある」

「どういうことっすか?」

「ヒモだ」

「ヒモ!? 男が養われるあのヒモっすか?」


 あまりに突飛なことだったので理解しきれていない。しかし泰雅さんは「そうだ」と言って続けてくれた。


「応援してるバンドをデビューさせたい女のファンが貢ぐんだよ。バンドマンはそれでデビューまで食ってく。まぁ、ホスボケに例えられるような女が3Bに寄ってくるんだろ」

「ホスボケと3Bってなんすか?」

「ホスボケはホストにはまる女。入れ込んだ担当ホストに尽くして徹底的に貢ぐ。3Bは美容師、バーテン、そしてバンドマン。女癖の悪い代表格の職業だ」


 3Bのうち2Bは俺じゃん。


「特にベーシストは下半身のスキャンダルをよく聞くしな」


 あぁ、そのBにも該当。しかし俺にはコンプレックスがある。


「俺には縁がないっすね」

「俺にもだ」


 いかつい風貌の2人は意見が一致した。


「だから生活のために金は貯めとけよ」

「うっす」


 バンド業界のことがまた1つ俺に勉強になり、この日のゴッドロックカフェは更けていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る