第一章 第五節 野獣の独奏
夏休みが始まって――と言っても終業式当日なので正確な夏休みは明日からだが、杏里さんが今日からだと御託を並べた――定休日の日曜日以外フル出勤となった初日。大きな不安とほんの少しの期待を抱いて俺はゴッドロックカフェの営業に立った。エカさんが店に来たのはそんな日だった。
カランカラン
「いらっしゃい」
「やっほう。本当に来たよ」
「嬉しいっす。空いてる席にどうぞ」
まだ18時を少し過ぎたくらいの時間帯で、2階の貸しスタジオに練習客はいるものの、バーはエカさんが最初の客だった。
この日は珍しく貸しスタジオの1室に18時からベーシストが個人練習で入っている。バンド練習が主な貸しスタジオなので珍しいわけだが、そのベーシストは高校の制服姿の男子だった。
エカさんは煙草を吸わないのでコースターだけ彼女の前に置く。
「何にします?」
「モスコミュール」
「了解っす」
「あと、バイト君が飲みたいもの」
「ありがとうございます」
俺は少しはにかんで礼を言った。どうやら俺の分のドリンクも出してくれるらしい。尤も俺は高校生なのでソフトドリンクしか飲めないが。もちろんここではない場所で隠れて飲酒をしたことがないわけではない。しかし雇ってもらっている以上、こんなわかりやすい違法行為をするわけにはいかない。
「気分がいいから」
俺がモスコミュールを用意しているとエカさんがそんなことを言った。俺の分のドリンクを出してくれたことの根拠だと思うが、それ以上の詳細はわからない。
「なんかあったんすか?」
「鈍いなぁ。私が来たことに嬉しいって言ってくれたからだよ」
「そんなことで?」
「女子はそんな些細なことが嬉しいんだよ」
そういうものなのか。少し勉強になった。
俺は自分の分のコーラも用意してエカさんの前にモスコミュールを置いた。
「乾杯」
そう言うとエカさんは少し笑顔を浮かべて「乾杯」と言ってグラスを合わせてくれた。そして一口含んだ。
「板についてきたんじゃない?」
炭酸の刺激が喉を通過したところで俺は質問を重ねる。
「ん? なにがですか?」
「バーテン」
「バーテン? ここバーテンなんて洒落た奴がいるような店じゃないっす」
「あはは。そうだね」
エカさんは面白おかしく笑うと再びモスコミュールを口に運ぶ。つい桜色の唇に意識が向いてしまう。いや、いかん。お客様を相手になんて視線を。しかし一度そうなるとエカさんの最近暗くなった髪や、ナチュラルになったメイクにまで目が向く。更には先日の多機能トイレでの近距離の顔まで思い出す。
しかもエカさんは小柄故に腕をカウンターに乗せるような体勢だ。とても庇護欲をそそる。それに加えて組んだ腕の中で豊満な胸が圧迫される。襟元からは谷間も若干見える。
……結構胸あるんだ。暗い髪色に豊満な胸。無意識にあの人まで頭の中に流れ込んでくる。いや、いかん、いかん。
「ところでバイト君」
エカさんの呼びかけに俺は邪な意識を追いやった。視線はずっとエカさんにあったが、恐らく邪な視線だとはバレていないはず。……だと思う。
「なんすか?」
「意識の高いバンド、紹介してあげようか?」
「え? マジっすか?」
唐突だったので驚いたが、喜ばしくて期待が膨らむ話題だ。
「うんうん」
「こないだそんな話したばっかでタイミングいいっすね?」
「ちょっと前にベースが抜けたバンドなんだよ。それでバイト君とこないだ話して浮かんではいたんだ。相手のバンドに聞いてみたら向こうも興味あるって」
「音楽性とか歳はどうっすか?」
「音楽性は末広バンドがコピーしてた曲に近いと思うよ」
それは安心した。そもそもだが、末広バンドは未だにコピー曲しかやったことがない。メンバーにラッパーの裕司がいるから厳密に言うと、ラップの部分だけアレンジしているのでカバーと言えなくもない。
「歳はね、上は大学3年から下は大学1年」
「バッチリじゃないっすか」
俺は声を弾ませた。つまりエカさんの歳から俺の1つ上の年代までだ。年上ばかりだが年齢は近い。
「興味あるなら今度の日曜日にスタジオ練習があるから、行ってみる? 私も同席するし」
「ぜひお願いします」
日曜日ならアルバイトもないから問題ない。どうせ同級生は受験勉強が始まった時期なので、誰かと遊ぶ予定も入れていない。
この後の話で課題曲のスコアを店のメールに送ってもらうことになり、俺はその曲を覚えて当日セッションをするという流れになった。
そんな事務的な話がひと段落した頃、俺は一つ気になっていたことを聞いた。
「ピンキーパークって結構稼いでたんすか?」
「え? なんで?」
エカさんがキョトンとした顔をするので、俺は質問の趣旨を言う。
「ヒナさんが来る時とか結構飲んで帰るから。支払いもそれなりだし」
先日ヒナさんが来店した時、自棄酒と言ってかなり飲んでいた。ただその日は自棄酒に付き合わされた常連さんがJDと飲めたと言って喜んで大半を支払っていたが。
しかしそんな日ばかりではない。自己負担が多くてもピンキーパークの元メンバーはしっかり支払って帰る。ヒナさん然り、今いるエカさん然り、他の元メンバーもそうだ。
「ヒナ、また迷惑かけてない?」
「そんなことないっす」
俺は慌てて否定するが、嘘だ。先日の来店の時なんかは絡み酒をされた。しかしエカさんはこうしてヒナさんの行動に対して他人に気を配るから、こっちが恐縮してしまう。エカさんはヒナさんの保護者みたいだ。
「良かった。バンドでは稼いでないよ」
安心した様子のエカさんは俺の質問に答えてくれた。
「そうなんすか?」
「バンドでは一応チケットバックとかあったけど、私たちCD出してないからその程度。バンド活動はチケットバックだけで賄えたけど、利益は残ってないからメンバー個々への報酬はなし」
それでも持ち出しもなしにチケットバックだけでバンド活動が成り立っていたのは大したものだ。ただ俺の疑問はまだ深い。
「じゃぁ、バイトしてるんすか?」
「違うよ。ここの支払いとかどうやって稼いでるのかが疑問なの?」
エカさんが俺の疑問の本質を読み取ってくれたので俺は首肯した。バンド活動ではないのなら高校生では稼げない高額なアルバイトか、家からもらう小遣いのどちらかだと思っていた。
「元メンバーのうちヒナと私は違うかな。他の2人はバイトだけど」
少しばかり遠い目をしたエカさん。ヒナさんとエカさんは違うとは? 気になる。そんな俺の内心を読み取ったのか、エカさんは目を細めて悪戯な笑みを向けてきた。
「気になる?」
「まぁ。話題の一環くらいに、ですけど」
「うふふ。パパ活」
「は!」
まさかの答えにガキんちょの俺は驚き、声を張った。エカさんは相変わらず悪戯な笑みだ。子供に大人の世界はわからないよね? と小バカにするような表情だ。ここに男子高校生と女子大学生の違いをまざまざと示された気がする。
「時々デートしてお小遣いもらうの」
「それだけっすか?」
「うふふ。その先も気になる?」
「……」
気になるに決まっている。しかし言葉は続かない。それなのにエカさんは楽しそうに続けた。
「あはは。私とヒナの場合はないよ」
「なんだ」
俺は自分がどういう感情なのだろう。スタッフと客とは言え、ほんの少し交流のあったバンド同士のメンバーとは言え、嫉妬をしていのか? それとももっとディープなことが聞きたかったという好奇心か?
「私とヒナから言わせてもらうと、体の関係まで結ぶのは援助交際。援交もパパ活に包括されるのかもしれないけど、私とヒナはご飯やカラオケに行く程度でそれ以上はなし。ヒナなんて本当に器用だよ。パパになってくれるおじ様を5人くらい抱えてるもん」
エカさんはどこか誇らしげに元メンバーのことを話す。悪戯な笑みを浮かべて。しかし一瞬暗い目をしたかと思うと「私は不器用だからなぁ」と言った。けどすぐにまた悪戯な笑みに戻った。どういうことか気になったので俺は聞いた。
「エカさんは?」
「私にパパは1人だけだよ」
俺の質問の趣旨とは違ったが、そんなことを答えてくれた。
「どこで出会うんすか?」
「私とヒナの場合はバンド時代のファン。大学の他の子たちは男女が触れ合うアルバイト先とか、ネットとか」
「ネットって危なくないっすか?」
「危ない……」
途端にエカさんは渋い顔を作って答えた。そして続けた。
「だから私たちは顔を覚えたファンの人と私的交流をしてたの」
なんとまぁ、そんなことをしていたのか。とは言えアイドルではないし、それどころか芸能事務所にも所属していない自主活動のバンドだったからできたのだろう。
カランカラン
もう少し聞いてみたい気もしたが、この日は早い時間から2人目の来客だ。この話題は締めとなり、俺は営業に意識を集中した。
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