第6話 そして、エピローグへ

 白髪の紳士は入院棟の10階でエレベータを降りた。そこは長期入院患者専用のフロアーだった。そしていつものように1003号室の病室に入っていく。


「もう少し早くマーカーが完成していたら、おまえもこんな事にならなかったのか?」


 娘からは返事が返ってこないことが分かっていながらも父は娘に声をかける。

 父は酸素吸入器に繋がれたマスクの上から娘の頬をそっとなでる。マスク越しに見える彼女の閉じた瞼から生えている綺麗な長いまつ毛は、ベッドの横に悲しそうに立っている父を寂しく指していた。


 彼の娘が暴行されて妊娠していたことがわかったのは、中絶が可能な妊娠期間を遥かに過ぎていた時だった。暴行された事もその結果妊娠してしまった事も誰にも相談出来ないまま彼女の時間は空しく経過していたのだろう。

 そして彼女は暴行した男の子供を出産したその日に病室から身を投げた。飛び降りた場所の関係で奇跡的に命はとりとめたものの意識は戻ってこなかった。


 生まれたばかりの子供は父親不詳・母親自殺未遂の記録とともに、人口増加対策の一員を担うために生命管理委員会の新生児担当者に引き取られていった。それ以来彼は狂ったように妊娠マーカーの研究に没頭したのだ。


 そう――彼こそが妊娠マーカーを開発したチームの博士だった。


  ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 妊娠マーカーが完成して全ての女性に提供されたことで、婦女暴行や家庭内暴行による『隠されていた妊娠』は女性の意思にかかわらず強制的に公開される事になった。

 その結果として被害者である女性の意図しない妊娠は即時に第三者による支援が得られるようになったのも事実であった。

 今までは誰にも相談出来ずに悩み続け、無理な中絶や出産直後の新生児の放棄といった本来被害者である女性に全ての結末を押し付ける悲劇を回避する事が出来るようになったのだ。


  ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 そして被妊娠マーカーの本当の目的は――


「自分の快楽のためにお前を犯しお前を苦しめた犯人を殺したかった――。しかし、そのたびにお前が悲しそうな顔をして夢枕に出て来た。ワシは一体どうすれば良かったのだ?」


 博士は、娘を暴行し妊娠させた犯人に対して被妊娠マーカーを用いた復讐を考えていたのだ。


 被妊娠マーカーは妊娠した女性が発散する微量な母体フェロモンの匂いをトリガーにし、妊娠させた男性の体内にいる調整ウイルスが生体細胞の変異を促し沈着色素を生成させる。だから女性の恐怖心を伴った妊娠による母体フェロモンの匂いを見つけた時だけ、調整ウイルスが沈着色素ではなく毒素を生成させる事も可能だった。


 彼は秘かに毒物生成ウイルスの調整を完成させていたのだ。


 しかし、そのウィルスを拡散させようとする度に、小さい頃から周りの人に優しく全ての命を大切にしてきた娘が、いつも彼の夢に現れて悲しそうな顔を見せていたのだった。

 彼が夢の中で娘に問いただしても、悲しそうな顔をするだけで一言も喋ってくれなかった。


 そして彼は考えた末に結論を出したのだ。


 例え犯罪を犯しても悔い改めるチャンスを与えようと――彼は男性器固有の臓器である前立腺を急速にがん化するようにウイルスの命令を書き換えた。そしてそのウィルスを躊躇することなく世界中にばら撒いたのだ――


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 人工的なウイルスによる前立腺がんの発症は、高度な医療機関や生命科学者が検査すれば即時にバレるのは分かっていた。だからこそ彼は娘の暴行犯人にだけ作用すれば良いと思っていたのだ。


 しかし不思議なことに、急性の前立腺がんが被妊娠マーカーのウイルスによる人工的な疾患であるということは、都市伝説として話題になるだけで、世界中の医療機関から一度も報告されてこなかった――まるで誰かが止めているように。


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命(いのち)の責任者 ぬまちゃん @numachan

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