たゆたう

TODAY IS THE DAY

 

 真っ暗な部屋で眠気の訪れを待っていた。緑色に光る通知とその差出人を見た私は「えっ。」と小さく声を出してしまう。「とうこ、今日一緒に帰れる?」ゆりと連絡を取るのは実に三ヶ月ぶりのことだった。



 ゆりは小学校の通学班で一番仲の良かった友達で、賢くて真面目な女の子だ。私は小学生の頃から、お喋りが大好きな女子やいつも先生に怒られている男子とつるんでいた。それはいつも楽しかったけど、言葉を選んで大切に話せるゆりとの時間もまた、特別でかけがえのないものだった。私はゆりの隣を歩く時だけ口元にそっと手を当てて笑った。


 ゆりはおじいちゃんとおばあちゃんと柴犬のチョコと一緒に暮らしている。お父さんとお母さんは東京で忙しく働いているらしく、授業参観でも初詣でもその姿を見たことがなかった。東京で働いている家族がいるなんてかっこいい。海沿いの何もないこの町でゆりだけがいつも少し大人びて見えた。


 そんなゆりと私は中学に入ってからも暫くは一緒に登下校をし、チョコを連れて海へ行った。しかし私がテニス部に、ゆりが家庭部に入部したことをきっかけに、私たちの生活はすれ違い始める。私の毎日は朝練と夕練に挟まれて目も眩む速さで過ぎ去り、気がつくと桜の木には緑の葉が瑞々しく茂っていた。

ゆりと話す暇もなく、テニス部で気が合うわかなやしょうこと多くの時間を過ごすようになり、部活がない日もチョコの散歩をしていた時間に学校で語るようになった。一度だけ部活帰りに散歩中のゆりとチョコを見かけたことがある。私はその日だけひっそりと違う道を通って家に帰った。それから廊下でゆりとすれ違っても、後ろめたさから声をかけられなくなり、私たちの毎日はいつの間にか完全に交わらなくなってしまった。だからついさっきのメッセージには本当にびっくりしたのだ。



 今日の放課後について悩みながら八回くらい寝返りを打つ。頭上で回る扇風機の音がやけに大きく聞こえて、窓の外でさざめく波が私を責め立てている気がした。ゆりのことは全然嫌いじゃないし、嫌いになったわけじゃないし、会いたくないわけじゃないけど、とにかく気まずすぎる…。


 部活がない水曜日は、いつも決まってわかなやしょうこと放課後に語る約束をしていて、私は今日の放課後のことも先週の水曜日からずっと楽しみにしていた。その時二人とこっそり食べるポッキーを月曜日にスーパーで買ったくらい。ゆりのことなんか。さらりと忘れて今すぐわかなとしょうことぬるま湯みたいな気楽さを味わいたいような気がする。でも今日ゆりに会うことを辞めてしまえば、彼女のことが本当に嫌いになって避けているように見えてしまうだろう。心の中なんて言葉にしないと伝わらないから、そんなことなくても、きっとそう見えてしまう。ランドセルを背負った私たちの暖かな思い出が頭をよぎる。今逃げてしまうのは絶対に違う気がした。一瞬の気まずさと、一生のわだかまりを天秤にかけてみると、私の今日がくっきりと輪郭を持った。出会って数ヶ月のわかなやしょうことのまっさらで果てしない楽しさでは拭えないほど、ゆりとの六年間も大切だった。わかな、しょうこ!ほんとごめん!


 気持ちが揺らがないうちにスマホの画面を開き、返信を打つ。「いいよ。今日ちょうど部活ないし。」程なくして緑のポップアップがはじける。「ありがとう。」メッセージを目で追い、「イエイ!」って感じのスタンプを機械的にポンと押して、そのまま画面とまぶたを閉じた。大丈夫。三ヶ月の隙間なんて会えばきっとすぐ埋まる。心の中で小さく言い聞かせる。遠く聞こえる波の音に心音を重ねると、体と心は瞬く間に眠りの海に溶けていった。



 そして迎えた放課後。「とうこの友達はウチらの友達だから仕方ない!!!😂✨」「来週までポッキー開けないでね!笑」嘘みたいな軽快さでわかなとしょうこに送り出され、昇降口でゆりを待った。久しぶりに間近で見るその顔には、少し伸びた髪がよく似合っていた。「行こうか。」短い言葉を探るように投げかけて一歩踏み出す。程なくして足音がもう一つついて来た。


 何を話すでもなく通学路を歩く。私の靴と地面が擦れるタイミングから一拍遅れて、ゆりの靴が地面を蹴る音が聞こえる。ここまで歩いてみて分かったけど、私たちの三ヶ月間はそんなに簡単には埋まらないらしい。小さな絶望に殺されそうになる。顔を見たら話したいことが一気に溢れると思っていたのに、どう話しかければいいのか全然わからなかった。想像以上に脆かった六年の絆にため息をこぼしつつ平坦な道を淡々と歩く。私の後ろを歩くゆりは何を考えているんだろう。ゆりの気持ちをぼんやりと考えながら空を見て、やたらと響くセミの声を細かく聴いていたら、あっという間にお互いの家へと続く分かれ道まで来てしまった。せめて「じゃあね。」くらいは言わないと。小さく覚悟を決めた時、ふいに後ろから私を呼び止める声が聞こえた。「とうこ。」

「じゃあね。」の「じ」が口から出そうなタイミングで声をかけられてしまった私は、驚いた顔でゆりを見ることしかできない。まっすぐに見つめ合う。炎天下でも涼しげなその顔には前髪と睫毛の影が長く深く落ちていた。空の青さやセミの声に至るまで、その全部があの日読んだ漫画みたいに心をくすぐる。耳慣れた声が私に話しかけた。

「ねえ、海行こうよ。」

それは遠い昔の秘密みたいに私の胸に小さく響いた。黙って頷くとゆりの顔が少し綻ぶ。目まぐるしく過ごす中で見過ごしてしまったあの花の美しさを思い出した。


 人気のない海へと続く道を歩く。この道を歩くのはゆりとチョコを散歩させた時以来で、なんだか懐かしかった。足元で果てしなく続く道が潮風を含む砂浜に変わる。その間に少しずつ表情や声色を緩めたゆりは、移動距離と三カ月間を埋めるかのようにぽつぽつと私に言葉を投げた。「少し背が伸びた?」「前より日に焼けたね。」「テニス部は大変?」最初は距離感が分からなくて「うん。」しか言えなかったけど、張り詰めた気持ちが溶けるごとに、少しずつ話せるようになった。言葉にして初めて朝練の早起きが大変なことも、担任が結構うざいことも、隣の席の男子がちょっと変わってることも、ずっとゆりに聞いて欲しかったことに気が付く。私も負けじと「家庭部って料理ばっかする?」「好きな人できた?」「チョコ元気?」「今も海で散歩してる?」と質問を投げかけた。家庭部は裁縫もするらしいし、好きな人はできてないらしいし、チョコはやっぱり元気らしいし、ゆりも海に行くのは久しぶりらしかった。言葉を交わすたび、違う昨日を過ごした私たちの三ヶ月間が交わるような感覚になるから不思議だった。どうしても聞いて欲しくて、今日会う予定だった二人の話もしてみた。ゆりは私が笑うタイミングで楽しそうに笑い、最後には「いつか会ってみたい。」と言った。


 セミの鳴き声が遠ざかり波の音が近付く。目と鼻の先には海が広がっていた。「すごい!空も海も青すぎる!」「そうだね。」ゆりの目は日の光を受けてキラキラしていた。はしゃぎながら波を目指して砂浜を駆ける。私たちのスカートとかき氷屋ののれんだけが風に揺れていた。


 他愛ない話をしながら海岸をぐるりと歩いた私たちは流木に腰掛けて海を眺める。地平線がこの世をくっきりと二つに分けていた。隣で丁寧にスニーカーの砂を抜いていたゆりがおもむろに口を開く。

「私ね、土曜日に引っ越すんだ。」

「そっか。」

「お父さんとお母さんがこっちに来いって。」

「そっか」

沈黙。

「チョコに会えないの寂しいね。」

大切な時ほどありきたりな言葉しか出てこない、そんな自分が嫌になる。心の起伏に呼応するように足元で波が強く押し寄せた。当たり前を失う時、寂しいとか辛いとか痛いとかは大抵遅れてやってくる。それは今日も同じみたいだった。もやがかかった心の奥底でゆりがいなくなることだけがはっきりと分かる。こっちっていうのは東京のことだ。手に取るように分かった。

 ゆりは決まってたシナリオを読むみたいにまた口を開く。

「昨日とうこにメッセージ送ったでしょ。あれ、送るの三日かかった。この街を出ることが決まって、やっておきたいことを考えた時、とうこに会っておきたいって思ったの。迷いすぎて、誘うの諦めちゃおうかと思った。会えて良かった。」

ゆりの心の内が真っ直ぐに届く。一言一言が胸を突くのはきっと、ゆりの言葉が本当だからだ。

「私もね、今日ゆりに会うかすごく迷った。会わない方が楽って思ったりもした。」

言葉を放つたび心からも気持ちが溢れる。海水と同じ味の水が目のキワを伝い、白くたゆたう波と真っ白な制服に染み込んでいった。呼吸を整えて、ゆりの心に届くよう、言葉を選ぶ。「私もね、私も今日、ゆりに会えて良かった。」

少し伸びた髪の毛が揺れる。私達の足元で波が一つの線を描いた。


 赤くなった瞼をこすり、鼻をひとつすする。背中に添えられた手の暖かさが心の冷たいところをくすぐるから、涙はなかなか止まってくれなかった。ゆりはようやく泣き止んだ私の顔を少し見ると、タイミングを見計らったかのようにカバンから封筒を取り出した。

「とうこ、これ。悪口は書いてないから読んで。」

封筒には真面目さが滲む字で「とうこへ」と書かれている。

「私ね、お別れをするときはもう二度とその人に会えないと思うことにしてるの。『またいつか』の『また』が来なかったら辛いし、後悔したくないから。思ってることは今日全部伝えたし、伝えてないことはここに全部書いてある。とうこのこと、これからもずっと守れるように言葉を選んだよ。」

きょとんとした顔の私を見てゆりは付け加えるように言った。

「私ね、とうこに会うのも今日が最後のつもりでいる。」

迷いなく言い切ったその顔はとても清らかだった。私の今とゆりの今が全く違う意味を持って流れていることが浮き彫りになる。

ゆりは私との思い出を全部この海に置いて、今を無痛の美しい過去に変えて、1人でこの街を出るつもりなんだ。

「そんなことないよ!」

私とゆりを繋いでいる何かを、今この瞬間に千切れてしまいそうな何かをどうしても掴んでおきたくて、考えるより先に言葉が飛び出した。

「私絶対またゆりに会うよ。来年の夏親戚のお姉さんと東京のテーマパークに行く約束をしてる。その時絶対にゆりに会うよ。スマホでいつでも連絡は取れるし、チョコの写真も沢山送る。私が会いたいから、もしゆりが会いたくなくても必ずまた会えるよ。」

「そっか。じゃあ会えるかもね。」

ゆりは困ったように笑って海よりずっと遠くを見つめた。その横顔の冷たさが悲しかった。「でもさ」ゆりが口を開く。

「同じ心の温度ではきっともう会えないよ。」


 土曜日。ゆりが町を出る日。私は一人で海にいる。見送りにはいかなかった。行ったらこれが本当の最後になっちゃう気がしたし、私が絶対会いに行くって決めていたからだ。離れた場所で違うものを見て育つ私たちが、同じ話で同じようにまた笑うことは難しいかもしれない。それでも東京で生きるゆりの顔を見たいと思った。手紙の最後を「また会えるのを楽しみにしています。」で締めくくった彼女に「またいつか」の「また」が来ることも教えてあげたい。

ゆり、びっくりするかなあ。来年の今を思うと、いてもたってもいられなくなる。貯金の計画を立てたから、部活のない放課後にポッキーを食べるのは来週以降控えることになりそうだ。チョコも東京に連れて行けると一番いいけど、それは難しいかな。私は海やチョコを動画に収めて、ゆりに送ろうと思っている。暑い日差しの下で海が勢いよく波打っている。航路を定めた船が一つ、青の中をただひたすらに進んでいく。

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