すばらしきこのせかい

棗颯介

すばらしきこのせかい

 二十歳。それが私に告げられた人生のタイムリミットだった。

 小・中・高校で勉強も部活も特に頑張ってきたわけではない私がそう宣告されるのは当然だろう。早い段階から予想はしていたし、むしろ私はそれを望んでいた。


 現代社会の授業はいつも赤点だったから詳しいことは覚えていないが、【人類削減法】が世の中に公布されたのは私が生まれるよりも前の話だったそうだ。

 増えすぎた人口に地球の資源がこのままでは追い付かなくなることから生まれた法律。早い話が、優れた人間を優先的に生き残らせて、そうでないものにはとっとと死んでもらおうという国の制度だ。いくつかの例外はあるそうだが、概ねすべての国民が高校までの学業成績をもとに”余命”が決定される。一番短い余命は二十歳で、最も長くて六十五歳だ。ちなみに最長が六十五歳なのは一昔前に世の中で一般的だった、定年退職の年齢が六十五歳とされていたから。逆に言えばその人がその年齢までは働けるだろうという年齢。出涸らしになるまで社会に奉仕してもらおうという国のお偉いさんの考えが透けて見える。社会貢献の内容によってはさらに寿命は延長されるらしいが、とにかく一般的にはそう定義されている。

 そして二年前に高校を卒業した時、私の家に届いた役所からの通知書に記載されていた余命は二十歳まで。いま私は十九歳で、あと一ヵ月後には二十歳の誕生日を迎える。その日になると家に役所から薬物が届き、飲むと眠るように静かにこの世からおさらばできるそうだ。一応断っておくと、この薬剤を必ず飲まなければならないという強制力は国や行政にはない。本人に生きる意志があれば余命宣告されてもそのまま生活することもできる。だが、余命を過ぎた人は、戸籍上は死亡という扱いになるそうだ。まともに就職することも住居や生活の保障もされなくなる。既に死んでいるはずの人間に基本的人権など認められないということだ。だから世の中の多くの人は自分に設定された寿命を概ね受け入れ安らかな死を選んでいるのだという。そしてそれは私も同じ。


 ———今日は何しようかな。


 高校卒業後、最低レベルの評価を下された私には進学も就職も認められなかった。十八歳から二十歳までの二年間は、いわゆる保護観察期間のようなもので、素行を見てまだ生きるに値すると判断された場合には余命の延長と進学・就職の斡旋が行われるらしいが、私はこの二年をただ無為に過ごすだけだった。

 両親は私のことを既に諦めている。

 そもそも学生時代から私は怠惰で無気力だった。どうして周りの言うことを聞いて、周りに合わせて、周りと競い合って、そこまでして必死に生きなければならないのかが分からなかった。そんな苦労を背負いこんでまで生きる人生がそんなに楽しいの?昔はどうか知らないが、今の時代は生きることが罪で死ぬことが美徳とされているんだから、さっさと人生を諦めて安らかに死んだ方がよほど気楽でしょうに。

 一ヵ月後の私の誕生日は、資源をいたずらに浪費するだけの私という存在が生まれてしまった罪深い日。私が生まれてきたことに意味なんてない。生まれてきたことがそもそも間違いだったんだから、あと一ヵ月でこの鬱屈とした気分からも両親からの冷たい視線からも解放されると思うと清々する。


 ———とりあえず、家にいると親と顔を合わせなくちゃいけないしどこかに行こう。


 季節は冬。高校の頃に友達と浮かれて買ったダッフルコートをきつめに羽織り、親に一瞥もくれることも一声かけることもなく私は家を出た。コンクリートにはにわかに雪が積もっているが、長靴に履き替えなければならないほどではない。特に行く宛てがあったわけでもないが、歩いていると自然と足は駅前の商店街に向いていた。学生時代はよく学校帰りに同級生と駅前のカフェで無駄話に花を咲かせたり、カラオケで朝から夜まで歌い通したものだけど、今はそんな気にもなれない。他の友人たちは皆進学か就職してしまっている。身の回りで二十歳の余命宣告を受けたのはきっと私だけ。あの頃一緒に過ごした彼女たちは今どこで何をしているのだろう。まぁどうでもいいけど。


 ふと、目の前に車椅子に乗った子供が歩いている(歩いているという表現が適切かは分からないけれど)のが見えた。特に気にしてはいなかったけれど、少なくない雪の上を一人で車輪を回しながら歩いているのは、後ろから見ていてなんだか危なっかしい。しばらく距離を保って同じ道を歩いていると、案の定車椅子が何かに引っかかったらしく動きを止めてしまった。


 ———あぁやっぱり。


 それだけしか思わなかった。私は人助けをするような善人じゃないし、私がそんな人間ならもう少し余命は長かったはずだ。

 だから私は、道で立ち止まった車椅子を追い越してそのまま通り過ぎようとした。

 でも通り過ぎる時、何の気なしにその子供の顔を横目に見て私は思わず足を止めてしまった。


 ———この子、泣いてる?


 普通、歩道で車椅子の車輪が引っかかったくらいのことで泣きはしないだろう。いや、私は一応健常者ではあるからそのあたりの気持ちはよく分からないんだけれども。

 見ると、その子のひざ元には茶色い紙袋が置かれていて、袋の開け口が開いて中身が見えている。


 ———肉まん?


 肉まんを買いに商店街に来たのだろうか?でもそれと泣いていることがまったく自分の頭の中で結びつかない。

 その小さな疑問が、生まれてこの方およそ人に対して誠実とは言えない態度をとり続けた私をらしくない行動に走らせた。

 なんとなく。

 そう、本当になんとなくだ。

 なんとなく、気になったから声をかけただけ。


「君、大丈夫?」


 相手は車椅子に乗った年端もいかない子供だというのに、ひどくぶっきらぼうな口調だった。ましてや泣いている子供相手に言えば余計に泣かせてしまうのではないかと思うほどに。

 車椅子の子はハッとした表情でこちらを見上げる。正面からこうしてみるとなかなか可愛らしい男の子だ。歳は、10歳前後といったところだろうか。

 男の子は何かを言いかける素振りを見せたが、直後また顔をクシャクシャにして泣き出してしまう。そこで気付く。この状況だと、周りの通行人からは私がこの子を問い詰めているようにしか見えない。普段親からの冷たい視線に慣れきってはいるけれど、不特定多数の人から同じような好奇の目で見られるのは居心地が悪い。それが嫌で家を出たのに。


 ———あぁ、らしくないことするんじゃなかった。


「とにかくここから離れよ?車椅子、私が押してあげるから掴まっててね」


 そのまま私は泣き続ける男の子を乗せた車椅子をやや強引に押して、駅近くの公園まで退散した。

 公園のベンチに着くころには、男の子も多少は落ち着いているようだった。


「えっと、もう大丈夫?どこか痛いところとかない?」

「……」


 男の子は無言で首を振った。車椅子に座っているからどこか怪我か病気の発作でも起きたのかと思ったが杞憂だったらしい。

 しかし、何も答えてくれないとこちらとしてもこの後どうすればいいのか分からない。


「お父さんとかお母さんはどうしたの?」

「……いない」

「え?」


 男の子が初めて声を発した。子供らしい、母性本能をくすぐる愛らしい声だ。


「二人とも、死んじゃった」

「…そっか。だから泣いてたの?」

「……」


 男の子の無言を私は肯定と受け取った。

 一般的に家庭を持った人間は、国に申請すれば生まれた子供が成人するまでの年齢まで余命が延長される。だけど、稀にその申請を意図的にしないことで子供が成人するよりも前に先立ってしまう親がいるそうだ。特に、子供に何らかの問題がある場合にそのケースが多いらしい。私の両親はどうなのだろう。もう随分話をしてないから知らないし興味もないけど。

 かける言葉が見つからなかった。この子の詳しい事情は知らないけれど、多分私はこの子の両親と同じ側の人間だ。生きることから逃げる人種。目の前の現実や悩み事を放り投げて安易な道を選ぶ弱い人間。周りの期待とか信頼を裏切って、自分だけが楽になろうとしている。


「お父さんとお母さんがいた頃は、三人で商店街の肉まんを食べてたんだ」


 そう言いながら男の子は懐に抱えた茶色い袋を見る。きっとこの冬空の下では肉まんもすっかり冷たくなってしまっているだろう。そして袋に入っている三つの肉まんのうち二つは、もう食べる相手がいない。そう分かっていながら肉まんを親の分も買うのはどんな気持ちなのだろう。車椅子に乗っているような子供が、この寒空の下をたった一人で。


「じゃあ、今日は私が一緒に食べてあげるよ」

「え?」


 私は男の子の持つ袋から肉まんを一つ引き抜き、そのままの勢いで口に運んだ。やっぱり冷めてしまっているけれど食べられないほどじゃない。というか私は猫舌だから冷たい方が食べやすかった。


「君の家族にどんな事情があったのかは知らないけどさ、そんなに悲しむことないんじゃないかな」

「……どうして?」

「だって、あと十年もすれば君も楽に死ねるんだから」


 取るに足らないことのように私はそう言った。

 そう、今の世界だとこの子はあと十年程度我慢すれば楽になれるんだ。病気やけがの場合は余命の計算がどうなるかは忘れたけど、死ねば悲しいことも苦しいことも辛いこともすべて無になる。むしろ生きていれば無駄に資源を浪費して、他人の時間を浪費して、自分の心を浪費するだけ。良いことなんて何もないじゃない。

 生きることが間違っていて、死ぬことが正しいのがこの世界なんだ。


「……いやだ」

「ん?」

「死ぬのはいやだ」


 男の子は声に力こそ感じなかったが毅然とした表情で言った。いや、まだ目に涙が溜まっていたから毅然という表現は不適切かもしれない。だけど不思議とこの子の強い意思みたいなものを感じた。


「なんで?」

「また歩けるようになって、学校行ったり友達作ったり遊びに行ったり雪の上を走れるようになりたいから」


 なんて健気な少年だろう。いや、平凡とはいえそれなりに恵まれた環境で育った私と、ハンディキャップを抱えたこの子とではそもそもの価値観が違うのか。


「……そんなことのために生きたいの?」

「うん、生きたい」

「その、怪我?病気?治る見込みはあるの?」

「お医者さんは頑張れば治るって言ってた。だから頑張る」


 頑張る、か。頑張らなくちゃ生きていけないこの世界が昔から私はひどく不快だった。だから頑張らなくてもいい”死”を選んだ。でもこの子は、普通の人間なら当たり前に過ごしている日常のために頑張ると言っている。健気だ。健気すぎる。そんなくだらないことのために頑張る理由が分からない。


「……どうしてそこまでして生きたいの?」


 もうすぐ二十歳になる女が子供にこんな質問をするのは倫理的に間違っているという自覚はあった。でも、聞かずにはいられなかった。この子の言っていることは、私の人生理論と完全に正反対だから。だから理解できない。悪意などではなく、純粋な疑問から出た言葉だった。

 多分、今の私の顔は目の前のこの子から見るととても怖い表情をしていたんだと思う。でも彼は何の気兼ねもなしに答えてくれた。


「お母さんと約束してたから。また歩けるようになるって」

「お母さんって、もういないんでしょう?ならもう関係ないじゃない」

「…でも、約束したから」


 いよいよもって理解に苦しむ。子供のこの子と私では価値観も考え方も理屈も常識もあまりに違いすぎた。

 これ以上この子と話していたら気が狂いそう。


「そう。君がそうまでして約束を守りたいって言うならそうしたらいいよ。人なんて勝手に生きて勝手に死んで、勝手に幸せになって勝手に不幸になる生き物なんだしね」

「…お姉さんは生きたくないの?」


 ———あぁもう面倒な質問しないでよ、これ以上話すと苛々して仕方ないのに。


「そうだね。世界は面倒で退屈で理不尽なことばかりだから。さっさとおさらばしたいって思ってる」

「それって、お姉さんの見てる世界がそうってだけじゃないの?」

「え?」

「お姉さんが考え方を変えれば、世界も変わるんじゃないかな?」

「……どう変えろっていうのよ」


 こっちはあと一ヶ月で死ぬ予定なのに、今更何をどうしろって言うの?

 というか、今更考えを変える気なんてない。

 とっととこの場を去ればそれで済むのに、目の前の子供が車椅子に座っているというただそれだけの事実が私に二の足を踏ませていた。


「ただ生きているだけでいいとか」

「は?」

「頑張らなくても、立派になれなくても、間違えることがあっても、生きていればいつかきっと幸せになれるって思えばいいんじゃない?」


 ———頑張らなくても、立派になれなくても、間違えることがあっても、生きているだけでいい。


 なんというか、子供らしくない回答だと思った。


「って、お父さんが言ってたよ」


 なんだ父親の受け売りか。


「でも、そのお父さんは生きているだけのこともできなかったんでしょ?君を置いて先に一人で楽になる道を選んだんだし」


 最後の一言は言ってはいけない一言だった。それに気づいた時には既に言葉が口をついて出てしまっていた。よほど苛々していたんだろうな。


「……お父さんは、事故で死んだんだよ?」

「え?」

「……二人とも、事故で死んじゃった」

「あ、えっと……」


 私の早とちりだった。

 この子の両親は私とは違ったんだ。

 生きることは素晴らしいんだと信じている側の人間だった。生きたいと思っていた。自分たちの子供と一緒に生きていきたいと願っていたのに、それが叶わなかった。きっと他の人から見れば、少なくとも私なんかよりもよっぽど真っ当で、優秀で、生きるべき人たちだったんだろう。

 やっぱり、この世界は素晴らしいほどに残酷だ。


「…あ、雪だ」

「……」


 男の子の声で空を見上げると、静かに雪が降り始めていた。

 この街に住んでいれば毎年見慣れた光景。でも、私がこの雪を見れるのは今年が最後。別に感傷に浸っているわけではないけれど、どうしてか世界を白く染めていく雪を見ていると、どうしようもなく切なかった。ただただ悲しかった。この残酷な世界が憎い。一ヵ月を待たずに今すぐおさらばしたいくらい。


「……このままじゃ風邪ひいちゃうね」


 私は男の子の車椅子を押して歩きだした。

 急に動き出したことで男の子は驚いたのか、持っていた肉まんの入った袋を落としてしまう。


「おっとと」


 地面に衝突する前に空中でなんとかそれをキャッチし、袋を男の子に返してあげた。


「あ、ありがとう」

「どういたしまして。ねぇ、君の家はどこ?家じゃなくて病院?」

「えっと、こっち」


 男の子の指さす方向に向かって、私は雪の降り積もる中ゆっくりと歩を進める。

 すっかり冷え切った肉まんを咥える男の子に「新しい肉まん買いに行こうか」なんて声をかけながら、私は自分に残された一ヵ月をどう使うかをずっと考えていた。

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