拝啓 南の島からさようなら
隣の筆人
第1話 今の僕
スマホに表示されている画像には、ぎこちなく笑う男と優しく笑う女の姿があった。
青い海を背景にしてお互いの身を寄せつつも、ぎりぎり触れない距離感でピースサインをしている。
この写真の男性の口角が不自然な理由は、恥ずかしさだろう。
初めて撮るツーショット写真にきっと照れくささを感じているように見える。
隣の女性はどうだろうか。
こういう写真に慣れているのか、ぎこちなさは感じない。
むしろその顔は慈愛に満ちてるとでもいえばいいのだろうか。
そんな神々しいものではないが、とても優しく笑っていた。
楽しい笑顔とは違った、まるで元気に走り回る子供を見守る母のように見える。
懐かしさが水のように湧き上がる。少しずつ、昔の僕の記憶があふれ出してくる。
写真に写っているのは僕と、この画像を送ってきた本人。
ああ、僕はこんな風に照れるのか、と昔の自分を見て微笑んでしまう。
画像を閉じると、送り主からメッセージが届いていた。
『あなたってこういう風に照れるのね』
まるで僕の心の中で気持ちという書物を読んでいるかのような一文。
いや、僕がそう思うだろうとわざと昔の写真を引っ張り出してきたのだろう。
本当に性格が悪い。というか、いじわるだ。
きっとこの写真もこのメッセージも、待ち合わせまでの暇つぶしなのだろう。
幼馴染とはいえ困ったやつだ。
悔しいのはそんなことをされても僕が嫌な気持ちになったりしない、というのをわかってやっているところだ。
『待ち合わせまで暇だからって、人の思い出をおもちゃにするんじゃないよ!』
送り返したメッセージにすぐ既読が付く。SNSを開いたままなのだろう。
僕の反応をリアルタイムで楽しみたい様だ。
『あら、とってもかわいいと思うけど?』
『私が言うのもなんだけれど、この写真とても懐かしいわね』
この写真は僕と彼女が学生の頃に、共通の友人が撮ってくれたものだ。
先ほどまで撮影者のことを忘れていたのに、思い出は紐づけられて芋づる式にあの時の記憶をよみがえらせる。
目の前のノートPCに表示されているメール送信を押した。ため息をつきながら閉じ、今日の業務を終えることにした。
頼んだアイスコーヒーはもう氷が解け、来た時よりも色を薄めていた。
時計を確認すると、彼女の指定した待ち合わせ時間は1時間を切っていた。
薄く苦いコーヒーを飲み、湧き上がってきた記憶の泉を眺める。
彼女と過ごした時間、僕が過ごした時間。楽しくも、つらいこともあったあの島での出来事を、アルバムを見るように眺める。
色々な思い出の中にも、必ずあの青い海だけは形も変えず、そこにあり続けた。
エメラルドグリーンの海。
沖の方は、飲み込まれそうなほど深い青の思い出。
あの島を離れてしばらく経ち、昔の思い出もきっかけがないと浮かんでこないのに、あの光景だけは、白い浜辺と海だけは自然に思い出せる。
関東に来て一度も浜辺に降りたことはない。
どうしても脳裏に強く残っているものと同じものだと思えなくて誘われても断り続けていた。
仮に行くことを了承しても、灰色の砂浜とその色を薄めたような海に入ることができなかった。
砂場に作った子供たちの作品のような光景は僕にとっては異質で、とても受け入れられなかった。
彼女に最後に送ったメッセージは未読のままだった。
きっと感想は会った時に直接聞く予定なのだろう。
いじわるな彼女が考えそうなことだ。
お手洗いに行き、身だしなみをチェックする。
顔色よし、髪型よし、鼻毛なども出ていない。大丈夫だ、これで見た目で彼女にいじられることはないだろう。
まるで初デートのようなテンションに思わず恥ずかしくなる。
少し、自分の身を引き締め、店員にお会計を頼んだ。
頬元は緩んでいたりしなかっただろうか。
変な人だと思われていなかいことを祈るばかりだ。
最後に残ったコーヒーを飲み干し、荷物を鞄にしまう。
外を見てみると夏の残り香にうなだれるサラリーマンたちが亡者のように駅へ向かっている。
ジャケットを持ってこなくて正解だっただろう。
重い鞄を片手に、ジャケットを持ちながら歩く社会の功労者たちを見ていると、自分の身軽さと快適な空間での仕事に負い目を感じないわけではない。
店員の挨拶を背に、外に出ると陽に照らされ続けたアスファルトから、夏の暑さとは別の熱気が上がってきている。
まとわりつくような熱さはあの島と同じだが、そこにはさわやかさがない。
潮風の匂いも波の音もしない。
車の走る音と、サラリーマンの革靴とハイヒールの音、雑踏が奏でる音色をBGMにして歩む僕を誰も気に留めたりはしなかった。
もう何年も会っていない彼女と会えるということが、こんなにうれしいのだろうか。
うきうきした気分が表に出てこないように背筋を伸ばして歩くと、すれ違うカップルが持つ花束が目に入った。
そういえば手ぶらではいけないだろうか。何か嫌味を言われそうな気がする。
時間もあまり悠長ではない。駅前で何か用意するのが得策かもしれない。
時計はすでに指定時間の30分前。
彼女を驚かせられるものがあるかわからないが、それについて考えながら何かを選ぶ時間の余裕はありそうだ。
手土産を隠すジャケットを持ってこなかったことを後悔しつつ、生き延びる戦争を繰り返す人々と同乗して、彼女が待つ最寄り駅まで電車は僕を運んだ。
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