彼の人生

T

プロローグ

くしゅり、とくしゃみをした。指で鼻孔を擦る。

「大丈夫ですか?」

 向かいの竹中綾たけなかあやが床を蹴り、器用にキャスターを操って近くに来た。

「ああ、大丈夫。ちょっと寒いだけ」

「風邪ひいたんじゃないですか? 最近良くくしゃみしてるし」

「かもね。でも仕事を放棄するわけにもいかないから。今が正念場だ」

「そうですよねえ......」

 竹中ははあ、と深い溜息をつく。

 年末決算と新年度の資料作成で仕事が増大する。風邪が流行るこの時期にはかなりのプレッシャーだった。しかしこれを乗り切れば後は休みが続く。皆がそれを待ち遠しく思っているのだ。

「それより、資料作成はかどってる? しっかりやらないと課長がうるさいよ」

「ええ、問題無いです。後はあれだけですね」

 竹中は机の上にある資料を指差す。僕はそれに驚いた。

「もうそんなに済んだの? 誤字脱字とか無いだろうね?」

「はい。自信を持って言えます」

 竹中は会社で一目置かれている。仕事を効率よくこなし、ミスを滅多にしない。他人に対してすぐに意見出来る性格に辟易する者もいたが、それをも凌駕する何かを持っている事は確かだった。

「そろそろお昼ですね。昼食食べに行きませんか?」

 横目で掛け時計を見る。するといつの間にか一時を回っていた。

 椅子にもたれ、伸びをする。すると腹の底から自然と息が漏れた。

「そうだね。行こう」

 立ち上がり、パソコンをスリープ状態にする。張り詰めた空気を考慮し、邪魔にならないようすぐに出口へと向かった。

 昼食は竹中と取るのがいつもの事だった。竹中が入社してくるまでは一人寂しく昼食を取っていた。それが普通で、特に何も感じなかった。しかし誰かと食事を取るのはとても楽しい事なのだと実感した。

「前は質素だったので、今日は少し刺激的なの食べましょう!」

「刺激的、って?」

「中華とか!」

 僕は視線を宙に向け、考える。

「にんにくとか大丈夫かな? これ以上あの雰囲気を悪化させたくないんだけど」

「まあ、大丈夫でしょ。無いの選べば良いんですし。さあ!」

 腕を引っ張られ、店内に入る。人が多く、騒がしかった。

 カウンターに座り、背広を脱いで椅子にかける。メニューを手に取り、開く。適当に目についた酢豚定食を注文する事にした。水を少し飲み、竹中が決め終わるのを待った。竹中はペラペラと忙しく手を動かした。

「そろそろいい?」

「いや、ちょっと待って下さい。うーん、これもいいなあ......」

 手を顎に添え、熟考し初めた。

「そんなに悩む必要は無いんじゃない? また来ればいいんだし」

「いや! ダメです! 次は別の店行くんですから!」

 これ以上飲食店を開拓してどうする、と思ったが口には出さなかった。

「決めました! 酢豚定食にします!」

「あれ、同じだね」

 竹中は僕の顔を見た。「あえて、同じにしたんですよ」

 僕は何を言ってるのか理解できず、首を傾げた。

 店員を呼び、注文した。出来るまでは少しかかるだろう。

 手の運動をしている竹中を見て、何か話しかけようと思ったが、最近のトレンドが分からない。音楽、スポーツ、服、食べ物。女の子が好きそうな話題には今ではもう無頓着になってしまった。

「あの」僕が悩んでいる時に竹中から話しかけてきた。「係長は結婚されてないんですよね?」

「うん、してないよ」

「じゃあ、年末年始の休みは何で過ごされるんですか?」

「何だろう、家でゆっくりするかな」

「趣味とか無いんですか?」

「無いね。強いて言うなら、貯金かな」

 へー、と頷きながら言う。「じゃあ、今の仕事片付いて、休みに近づいたら食事にでも行きましょうよ」

「食事?」

 今まで何度か竹中から誘いは有ったが、忙しい、を理由に全て断ってきた。昼食や飲み会は会社の人、という隔たりがあるから出来る事であって、プライベートとなると話は別だ。

「でも、僕となんて楽しくないよ」

 忙しい、を理由に出来ない事を武器に攻めてきた。中々の策士だ。

「そんなの分かんないじゃないですか。一度も行った事ないんですし」

 一度も、という言葉が響く。

「分かった、いいよ」

 こう言うしか無かった。

「ホントですか? やったー!」

 無邪気に喜ぶ姿に少しドキリ、とした。そんな時に届いた料理でそれが払拭された。



「うん、よし、オッケーだ。これで全部か?」

「はい」

「分かった。ご苦労だった」

 課長に全ての書類を提出し終わり、何とか地獄の日々から開放された。デスクに戻り、椅子に座って出るのは色んな思いの詰まった溜息だった。

「やっと終わりましたね」

 後ろからヌッとお化けのように現れる竹中に驚き、体をビクつかせる。

「もー、そんなに驚かなくてもいいじゃないですか」

「止めろ、心臓に悪い」

「それより」竹中はニコリと微笑んで僕を見た。「約束、覚えてますよね?」

「......ああ、忘れてないよ」パソコンで日付を確認する。「後一週間で休みに入るから、そこで行こう。いいかな?」

「ええ、大丈夫です。私はいつもフリーですから!」

 元気そうに言う竹中はどうだ、と言わんばかりに満面の笑みをする。

「その時までは雑務を終わらせよう。今までのと比べるとなんてことないけどね」

 はい、と返事をするとまたパソコンに向かい初めた。僕もそれに倣った。



「ここでいいんだよな」

 車の隣に立ち、腕時計を見る。時間は合ってるはずだ。スマートフォンを開き、メールを確認する。

「お待たせしました!」

 その声で振り向くと、そこにはおめかしをした竹中がいた。巻き髪、と言うのだろうか。ふわっとした髪と黒を基調としたカジュアルな服で身を包み、顔は街灯の明かりでキラキラと輝いていた。社内での竹中がいかに質素か、という事がよく分かった。

「やあ。とりあえず中入って、寒いでしょ?」

 ドアを開け、中に入るよう促す。自分も中に入る。

「今日はどこへ連れてってくれるんですか? 任せてもいい、って事だったはずですけど」

「うん。任せておいてよ」

「質問禁止ですか? 燃えますね!」

 竹中はグッと拳を作る。

「その通り。じゃあ、行こうか」

 車を発進させ、目的地へと向かった。


 

 駐車場に車を停め、中に入る。店員に予約の事を伝えると、席に通される。試飲を断り、竹中にワインを薦める。

「いやいや、私だけ呑む訳にはいきませんよ」

「いいんだよ。僕の事は気にしないで」

 そうですか? と申し訳さそうに注文した。

 メニューを見る。飛び込んで来たのは、「仔豚のスカロッピーネ」、「タコのアラビアータ」、「ジャガイモのニョッキ」など頭の痛くなる名前の物ばっかりだった。仕方無いので、和牛のステーキを頼む事にした。



「ごちそうさまでした、美味しかったです!」

 竹中は白い息を吐きながら言う。車に乗る。

「お酒、まだ呑みたい?」

 竹中はまた申し訳なさそうに軽く頷いた。

「だよね。ワインの進み具合が早かったもん」

「でもこれ以上私だけお酒を呑むというのは......」

「言ったでしょ? 気にしないで。僕自身下戸だし」 

 竹中は驚きの表情を見せる。

「じゃあ、バーに行こうか。丁度知ってる店があるし」

 一つ、竹中に訊いておきたい事があった。エゴではあるが、訊かざるをえなかった。

 ふいに、橋の下にいるホームレスの住処に目がついた。中には寒い中缶の前に座り、弱い力で金をくれと言葉を発している。

「どうしたんですか?」

「いや、彼らは何故生きてるのかな、って」

「何故、って?」

「だって、社会人じゃないでしょ? だから社会に何の利益ももたらさないとして蔑みの対処となる。生き恥の状態で何故ずっと生きられるのかな、って」

「ホームレスの中にも元社長とかもいるらしいですよ。一概に人生の敗者、という訳では無いでしょう。それに彼らにだって何らかのプライドがあるでしょうし」

 竹中は肯定的だった。僕はそれに対して「そっか」としか返事が出来なかった。

 竹中が車に乗った所で発車させた。

 車を走らせている間に会話は無かった。さっき話すぎてしまったからかもしれない。それとも僕の話題が唐突すぎたのが原因かもしれない。

 レストランからバーへはそこまで離れておらず、十分もかからなかった。重いドアを開け、中に入る。人は少なかった。カウンターに座り、マスターにノンアルコール、と言い、適当なカクテルを作ってもらった。竹中もカクテルを注文した。

 乾杯を取り、少し呑む。

「今日はありがとうございました。あの店とても良かったです」

「でしょ? 気に入ってもらえて嬉しいよ」

 昨日必死に雑誌をめくったかいが有ったと思った。

 会話が途切れる。ただ一つ、ある事を訊きたいだけなのに、妙に緊張してしまう。

「あ、あのさ」

 少し声が震える。竹中は手元の照明で照らされた綺羅びやかな唇をこちらに向ける。

「いつも誘ってくれる事は嬉しい。でも、なんで僕なの? 僕よりもいい人なんていくらでもいるだろうに」

 竹中は確か二三歳だったか。まだまだ若く、顔も整っているので、好いてくれる男などいくらでもいるだろう。そう思った。

「僕、っての。似合わないですよ」

 一口呑む。

「私は」カウンターの方を向いて言う。「入社してから思ってたんです。この人何か重い物背負ってるな、って。周りに凄く気を使って、自分の事は顧みない。ずっと、何かに固執して、自分の殻に閉じこもってる。それは自分を保つ為、自分を壊さない為。そう思ったんですよ」

 僕はそれを聞いてやるせない気持ちになった。

「あ、変な事言いましたね。いや、酔いが回っているのかな」手をパタパタとさせ顔に風を送る。

――そこまで、分かっているのか。今まで誰にも分からなかったのに。

「ほら、もっと呑みましょう」

――彼女になら......。

「どうしたんですか?」

 その言葉でハッとする。カクテルを一気に呷る。

「近くにさ」唐突に言う。「凄く綺麗な夜景を見られる所があるんだ。この後、どうかな」

「いいですね。とてもロマンチック」

 竹中もカクテルを呑み干した。


 

 心なしか、竹中の顔が赤い気がする。お酒に強いのか、かなりの量を呑んでいた。

 車をさっき言った絶景の場所へと走らせていた。夜が更けていく中で往来する車の数は少なくなっていった。坂を上がり、上へ上へと向かう。この時間帯には誰もいない事は知っていた。冬なら尚更だ。

 駐車場に車を停め、外に出る。鋭い寒さが二人を襲う。

「うわ、綺麗だなあ」

 そこに広がるのはまるで市内に星を捨てたような、煌めく景色だった。竹中は圧巻している。

「酔いを覚ますのにはいいかもね。昔からよくここには来ていたんだ」

「そうなんですか」

 目の前の景色から目を離す事が出来ないのか、淡白な返事を返される。そして竹中は女の子らしい、小さなくしゃみをした。

「大丈夫? もう車に入ろうか」

「そ、そうですね」

 二人は車を停めた駐車場へと戻り、暖房で温まった。二人の間には変な空気が流れ、言葉なしの状態だった。

 その時、竹中の冷たい手が僕の手に触れる。驚き、竹中の方を振り向く。

「ここへ連れてきた、という事はそういう事でしょ?」

 暗い車内で竹中がどういう顔をしているのか分からなかった。

 唐突に猫のような丸い目が眼前に表れ、フレグランスのような甘美な匂いが鼻をくすぐる。

 竹中は目を閉じ、唇を差し出すように僕の方へと向けた。しかし、僕はそれに応じる事は出来なかった。

「......どうしてですか?」

「......ごめん」

 竹中は悲しそうな顔をして元の位置へ戻る。

「何が......」複雑な感情を織り交ぜて言う。「何があなたをそこまで引き止めるんですか?」

 僕は何も言えなかった。

「教えて下さい。何故、他人とそこまで関わりたがらないんですか?」

 僕は目を背ける事しか出来なかった。意を決し、口を開く。

「それを言うには、過去の話をする必要が有るんだ。この話は長いし、胸糞が悪い。聞いてて心地よいものじゃない」

「構いません」

 覇気のある声で、遮るように言う。

 最初から話すつもりでここに来たのに、過去を思い出すのは辛かった。

「あれは、僕が高校二年生の事なんだけどね......」

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