ラーメンと夜

 ラーメンが食べたい、それも豚骨ラーメン、とふとそう思った。

 時刻は夜の10:30過ぎ、場所は東京のマンションの自室である。

 右手には黒糖芋けんぴ、左手にはスマートフォンを握りしめている。

 なぜ急にそんなことを思ったのだろう、まあ、急に何かが食べたくなることなんて人間が生きている限りいつでもあることだ。自分で自分を納得させ、それでも深夜にラーメンを食べるという若干の罪悪感を覚えながら僕は灰色のコートを羽織り出掛ける準備をする。

「今からラーメンは罪悪感すごいよ、せめて目玉焼きにしなよ」と反対意見を垂れ流す頭の中のスピーカーを6畳半の自室に置き、僕は外に出た。

 まだ、暦の上では秋のはずだが外は少し肌寒かった。空には、絵にかいたような満月とその光に照らされて薄くたなびいている雲が見える。星は見えない。

 近くを走る小田急線の音と僕の足音が物悲しく住宅街に響いていく。この時間にこの道を歩いているのはどうやら僕だけのようだ。

 10分ほど歩き、煌々と闇に光を放っている近くの業務用スーパーに漂着する。このスーパーは多様な商品が比較的安く買えることで近所の主婦に重宝される。

 僕は、黒いパッケージに豚骨ラーメンの完成イメージと昔懐かしい屋台のチャルメラおじさんが描かれているラーメンを手に取った。昔、食べていた記憶があるからというのとTVで好きな女優が宣伝していたからというくだらない理由だが、ラーメンを食べたいという欲求を満たすには十分な役者だろう。

 家に戻り、早速、調理を開始する。

 僕はラーメンを取り出す前にまず野菜をいためることにした。フライパンに少なめに油をひき、野菜を入れる。ここで普段の野菜不足を解消しようという算段だ。野菜がしんなりしてきたら塩コショウを振る。   

 次は本題のラーメンだ。表記されている量の水道水を鍋に入れ、沸騰させる。そこに麺を入れ1分30秒待つ。

 ただ、ここで問題が起きる。久しぶりすぎて忘れていたのだが、どうやら麺より先に鍋の中のお湯を先に移さないといけないらしい。僕はこのような何かを分離させる作業がとても苦手なのだ。

 これと同様でよく米を研ぐときに米を排水溝の中に落としまくっているので、僕は一体何人の農家の方を泣かせているのかわからない。

 もしかしたら、この作業より普通にオムライス作った方が簡単なのではないかという支離滅裂な内容をぼやきながらどんぶりの上にざるを置くことにした。どうやら、夜というのは人間に奇妙だが意義深い時間を体験させる代償に思考力や判断力、集中力を奪っていくらしい。若干眠くなってきた。

 四苦八苦しながら、どんぶりにお湯を移し、粉上のスープの素と調理油を入れ、かき混ぜた後、麺をどんぶりに移す。そして、先ほどの野菜炒めを入れる。その後、ちゃっかり家にあったチャーシューをトッピングした。

 もう待ちきれなくなった僕はテーブルの上にラーメンのどんぶりを置き、いただきますを言うのももどかしく麺をすすった。

「ああ、これだ」と豚骨のスープが絡みついた麺を啜る。次にチャーシュー、野菜も一緒に食べていく。自分の中の食欲が満たされていくのを感じる。無心で麺を啜り、健康に悪いという頭の中の声を無視し、スープまで飲んでしまった。

 その後は欲求の満たされた充実感からか、ビルの光と満月の光で明るく照らされた大都市の空を眺めるという普段は絶対にしないことをしていたのだが、ここで僕はあることを思い出した。

 ―明日は母の命日なのだ。僕の母は僕が高校2年生の時に終わらない旅に出てしまった。

 そんな母親はカレーやらミートソースやらいろいろと自分で料理をしていたのだが、僕はなぜか母親が仕事で遅くなった時に夕食になることの多いこのラーメンが1番好きだった。(父親は名古屋に単身赴任していた。)

 豚骨ラーメン以外はラーメンじゃないという母親の謎の持論と野菜不足対策のため、豚骨ラーメンの上に野菜炒めとチャーシューをぱぱっと乗せただけのTHE手抜きラーメンを仕事が遅くなって疲れの見える母親と向かい合って食べていた。僕が、ラーメンが1番好きだと母に言うと決まって「失礼ね」と少し怒ったような顔をして言われたものだ。

 母親が病気でこの世を去った時には、それをもう周りのことを考えずに泣きに泣きまくったが、今となっては母親を思い出す機会は滅多にない。僕はあの時の自分をどこへしまい込んでしまったのだろうか。


 人の、いや、生き物の死というのは意外とそんなものなのかもしれない。死は飲み込まれるものではなく乗り越えるもの。結局どんなに大切な人がこの世から消えたところで馬鹿馬鹿しいほど人生は続くのだ。僕たちは他人の人生を思い出すことはできても他人の人生を生きることはできない。

 だから、僕が急にラーメンを食べたくなったのは、母親の最後の抵抗なのかもしれないと僕はそう感じた。

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